5
フラフラとした足取りで、千歳は帰り道を一人で歩いていた。
今日のお昼は気温が三十三度まで上がり、そのせいか夕方になった今でも熱気が残っている。雲が空を覆っているからかもしれない。
今頃体育館では、バレー部が練習をしているはずだ。今日の朝あんなことをされて、行けるわけがない。佐緒里とは出来ることなら顔を合わせたくなかった。
学校を逃げるように飛び出したすぐ後に、先輩から電話が来た。とっくに練習の時間になっているのに、未だに姿を見せない千歳のことが気になったのだろう。
もし電話すら来なかったら……。彼女はそれが不安だった。もしそうなれば部活を辞める覚悟が固まったのだが、先輩だけは見放してはいないようだ。
ただ、その電話には出なかった。出たとしたら、先輩に涙声を聞かせることになるし、まともに話しをする自信が無かった。佐緒里のことだ、先輩に相談したという事実が判明したとたん、例の写真をばら撒くだろう。千歳の手の届かないネットの奥深くにまで。誰にも話すわけにはいかない。
大通りを歩いていると、必ず駅前を通る。駅を中心に、市道が放射線状にいくつも伸びているから、電車やバスから降りた人たちは、それぞれの道へと散り散りになる。千歳は、その群衆に混じって歩き続ける。
頬をつたう涙に気付いた彼女は、袖で慌てて拭いた。こんな人ごみの中で女子高生が一人で泣いていたら目立つし怪しまれる。いつも通りの自分を演じる。
今日も、昨日と同じ帰り道になるはずだった。だが、昨日どころか今まであまり見慣れない人を、今日はごった返す人の中に見かけた。
黒いスーツ姿の若い白人が、チラシのようなものを持ってうろついている。左腕に真っ黒の紙袋を下げている。
こんな地方都市で外国人は目立つ。もちろん学校には英語の教師補佐として外国から来ている先生がいるが、街中ではほとんどと言っていいくらい見ない。
だが、そうであるにもかかわらず人々は外人に見向きもしない。誰も視線を合わせようとしない。まるで、そこには誰もいないかのように。
「何か用かい、お嬢さん」
気がつけば、彼女は彼のすぐ前にまで来ていた。
「あれ、……え?」
そんなはずはなかった。彼女は、五メートルくらい離れた所から彼を見ていたはずなのだ。
「あれ、じゃないよう。君から近づいてきたんじゃないか。可愛いお嬢さん」
そうだったのかな。ん、何だかそんな気がしてきた……いや、そうだった。
「はい、確かにそうでした。……でも、何の用があったのか分からないんです」
なぜか彼女はうつろ目だ。
「ほうほう。用というのはこれだね、きっと」
外人はチラシを一枚千歳に渡した。「俺は、この先にある人形店の店員なんだ。これから俺のことはケンって呼んで」
ケンと名乗った男は、千歳の右手を両手で握った。
「よろしくね。良かったら、お店に寄って行かないかな。本当にすぐ近くなんだ。まだ夜になるには時間がある。どうだい?」
チラシに目を落とした。一番上に大きく、『あなたの願い、叶えます』と書かれている。「願い……?」
「そう。ありがたい力が込められた人形ばかり売っていて、買ってくれた人の願いをささやかに叶えてくれるよ」
「本当に……?」
「ああ、お客さんに嘘はつかないさ」
「どうしようかな……」
すると突然、手を引っ張られた。
「ここで立ち話もなんだから、とりあえずお店に行こう!」
千歳は半ば強引にお店へ連れて行かれた。
商店街の一角に、その店はあった。古びた木造の一軒家で、店舗だと思われる一階のシャッターは閉められている。日陰になっていて、まるで一足先にこの店だけ夜が来ているかのようだ。
「この辺じゃこの店は、とっくの昔に潰れていることになっているんだ」
ケンは、よいしょっと重たそうにシャッターを開けた。目の前にガラス戸が現れる。立てつけが悪そうなきしむ音をたてて横に開いた。
「さあ、入って」
千歳より先に中へ入っていった。手招きしている。
店内はすでに電気が点いていた。学校の教室くらいの大きさの間取りで、壁際に十段くらいの赤いひな壇があって、そこに人形がぎっしりと並んでいる。日本人形から西洋人形まで、様々な大きさと種類の人形がそろっている。
入口からお店の真ん中の通路は一直線になっていて、通路の両側の壁をつくっているのはひな壇だ。右側には、ひな壇を背中合わせに二つくっつけて設置されているのが一組あり、通路の左側にも同様のひな壇が置かれている。
「いらっしゃい。店主は奥だよ」
ケンがこちらを振り向いてニコッと笑った。
「はい……」
千歳は人形に目を奪われていた。自分が小さかった頃は、人形が友達代わりだった。今でも自分の部屋にはいくつか飾っていた。お店には、可愛い物や格好いい物が種類分けされることなく陳列されている。
「杏子、お客さん連れてきたよ」
通路を進んだ一番奥に、壁の端から端まである木の長机があり、その奥のイスに店番をしている少女がいた。黒の生地に大人の拳ほどの大きさの彼岸花がいくつも刺繍された和服を着ている。
「あら、今日は成功したようね」
杏子と呼ばれた女の子は、それまで読んでいた本を静かに閉じ、ゆっくりと顔を上げた。歳は十三歳くらい。まるで日本人形がそのまま人間になったかのような整った顔立ちをしている。くすっと小さく笑った。
「そうなんだよ。ぜひ人形を見たいって言ってたんだ」
自慢げに言った。
「え、ええと……」
そんなことは決して言ってない。けれど、ちょっとは気になっていた。
「本当だ。確かにそう思っているようね」
杏子はふふっと微笑んだ。
「さて、せっかく来たんだ。何か一つ買っていきなよ。俺が一緒について選んであげる」
ケンが千歳の背中を軽く叩いた。
「お金……あったかな」
彼女は内心ワクワクしていた。お店の人たちは何か意味深な感じがするが、所狭しと並んでいる人形に魅了されていた。だけど、人形だって高い物もあるだろう。足りるかどうか。
「まあまあ、その辺は心配しなくていいから」
ハハハとケンは笑い、入口辺りの人形を指さした。「あの辺に、俺のおすすめがあるんだ」
それから三十分間、彼女は悩み続けてようやく一つの人形を選んだ。水色のドレスを着た、手の平サイズのもふもふな人形だ。そして店主の所へ持っていって、
「あの……値段が書いていなかったんですけど……」
不安げにバッグから財布を出した。
「気にしなくていいわ。お金は取らないから」
え、と千歳は顔を上げた。
「お金は取らないの。その代わり、あなたの寿命をちょっぴりだけもらうの」
杏子は、立ち上がって自分の髪を左肩へ流した。さらさらとした真っ黒な髪だ。
「ど、どういうこと、ですか……?」
千歳は二歩後ろに下がった。背後にはケンが立っていて、ぶつかった。
「呪いをかける人形なのよ、それ」
黒い袖から小さい手を出し、千歳が持つ人形を指さした。
「キャッ!」
慌てて彼女は人形を手放し、それは床に落ちた。
「あーあ、売り物が……」
ケンが拾って手で汚れをはたいた。そして机に置く。
「買わないの? せっかく買う資格を得たのに?」
「資格?」
「そう。あたしのお店には、誰かを強く恨んでいる人しか入れないの。あなたは入れた。だから、買う資格があるの」
「で、でも、呪うって…………?」
「興味を持ったの? 簡単よ。その人形に恨んでいる人の名前を書いた紙を貼り付けて、北の方角に置いておくだけ。一晩経ったら、恨まれた相手は消えているわ」
「消える……?」
「文字どおりの意味よ。本当にそうなんだから、そうとしか言えない。ねえ、ケン?」
笑いをこらえながら、杏子はケンを見た。
「ああ、その通りだ。マジで消えるんだから、他に言いようがない」
ハハハと軽く笑った。
「でもわたし、消したい相手なんて……」
千歳は両手を胸に抱え縮み込む。
「あら、心当たりがあるはずよ。最近出来たんじゃない? 目の前からいなくなって欲しい相手が。消えてくれたら、心がすっきりすると思える相手が」
「そうそう。君を見かけた時、とても思いつめた顔をしていたぜ。絶対そうだな」
とりあえず、と杏子は人形を千歳に渡した。
「もしかしたら、使うかもしれないじゃない。本当に使わないなら、そのまま持っておけばいいわ。ただし、絶対に捨てちゃダメよ。呪いがあなたに降りかかるかも。まあ、人形好きなあなたなら、その心配はないと思うけれど」
「か、帰ってもいいですか……?」
震えた声で言った。
「もちろん。その人形を落とさないようにバッグに仕舞ってから、お帰りなさい」
「また、いつでも来な。君ならいつでも入れるからさ」
ケンが先に入口まで歩いていった。
千歳は言う通りに仕舞うと、逃げるように店主に背中を向けて出口へ向かう。
「あ、待って」
杏子が呼び止めた。
「何ですか?」
おそるおそる返事した。
「あなたの名前は?」
突然電気が消えた。店内は、出口とその周辺の人形だけがはっきりと見える。
「東……千歳です」
「可愛い名前ね」
暗がりの中から、くすくすと笑う声だけが聞こえた。
6へ続きます。次回で、第一話は終わりです。