2
ごくん、と千歳は息を飲んだ。
「あ、あの、そろそろいいですか……?」
夕方の図書室。閲覧室には夕日が射し込んで明るいが、準備室には東側の窓しかなく、光はほとんど入ってこない。
彼女は、手探りで拓也の体に触る。
「ええと、ここ……でしょうか」
彼女が触れたのは、拓也の首筋だった。トクントクンと彼の速い脈を感じる。
「東さん、あなたの手、結構温かいんですね。冷え性だと聞いていたので、冷たいのかと思ってました……」
いつも冷静な拓也も、今は緊張して声が震えている。
「は、はい。普段は冷えて冷えて困ってるんです。でも、今は体の芯から燃えるように熱くて……」
慌てて拓也から手を離した。違う、触りたいのはそこじゃない。
「早いところ、済ませてしまいましょう。先生に見つからないうちに……」
早口で彼は言った。どうした、落ち着け。いつもの澄ました態度はどうした。
千歳から、思春期の女性の心地いい香りがする。香水に例えられない良い匂いだ。彼女も汗をかいているのだと、彼は分かった。さっき触れてきた手がしっとりと湿っていたからだ。
もしかしたら、自分は男臭い汗を出しているのではないか。そうだとしたら、彼女に嫌な思いをさせている。思い切って聞いてみた。
「あの……、僕汗かいてて臭くないですか?」
すると、千歳はブンブンと顔を横に振って、
「そんなことありません! むしろ、良い匂いがします」
全力で否定した。そんな自分に、彼女はすぐに気づいて恥ずかしくなる。拓也には見えないが、顔は真っ赤に火照っている。
彼は、自分の顔に千歳の息がかかっているのを感じた。息が細くかかってきているから、鼻息だと分かった。けれど、運動した後のように荒い。気がつくと、彼も同じように息が荒かった。
「どうしました? 早くしないと、本当に先生が来ちゃいますよ? 急いでください」
さらに早口で彼女へ迫った。
「わ、分かりました。じゃあ、失礼します……」
千歳は、左手で拓也の右頬に触れた。スマートで余計な脂肪が付いていない。たくさん振ったカイロのように熱い。
次に、右手で彼の左頬に触れる。もちろん熱い。
そして、彼の頬の位置をしっかり確認し、左手を彼から離す。
彼女は右手にありったけの力を込め、拓也の左頬を平手打ちした。乾いた高い音が、準備室に響く。
千歳の手のひらは、彼の頬の真ん中に見事命中した。暗闇でそれを成し遂げた彼女には、日本平手打ち協会から表彰されるべきであろう。もちろん、そんな組織は存在しないが。
拓也の顔は、自分の右側に思いっきりグリッと横に振られた。首の骨が脱臼するかと思った。打たれた左頬が、砂漠の砂のように猛烈に熱い。そして、たくさんの針で刺されたかのようにジンジン痛む。思わず、床に座り込んでしまう。
「だ、大丈夫、ですか?」
拓也の衣擦れで彼が腰を下ろしたと分かった千歳は、自分も正座して様子をうかがう。近づくと、かろうじて相手の輪郭は見える。
「は、はい。予想していたよりだいぶ痛いですが」
彼は、ハハハと小さく苦笑した。自分の左頬をさする。
「すみません。わたし不器用で、力加減をするのが苦手で……」
ペコペコと何度も頭を下げて謝った。
「いえ、これくらいしてもらった方が満足です。ありがとうございます……」
拓也は座ったまま一礼する。
彼らは、夏休み中に交わした約束を果たすため、図書室がまだ開いているにもかかわらずこうして準備室にこもっていた。
「一発殴らせてください」
千歳は、ドーナツ屋の帰りにそう言ったのだ。それは、拓也が彼女の全裸写真を隠し持っていたお返しなのだ。
彼は決してドMではない。あくまで、罪滅ぼしのために平手打ちを受けた。
それにしても……
「東さん、どうして夏休みにした約束を、ここまで引き延ばしたんですか? 僕は、いったいいつになったら仕返しが来るんだろうと、ずっとドキドキしてたんですよ?」
彼は、スッキリした声でそう尋ねた。
「あの……、他人に暴力を振るうというのは、たとえ合意の上だとしても、どうしてもためらってしまって……。自分の中で、決心がつくのを待ってたんです」
遠慮がちに彼女はボソボソと答えた。
「僕が悪いんですから、気にせずボコッてもらってよかったのに。体中を殴られ蹴られても仕方ないと思ってたくらいですから」
「そ、そんな! 大事な北見くんの体に傷は付けたくありません!」
「僕の体って、そんなに大事ですか?」
ちょっとカマをかけてみる。
「当たり前です。あなただっていずれはお婿に行くんです。そんな時に傷があったら困るでしょう?」
「……僕は、誰かのお婿になれると思いますか?」
「もちろん。絶対あなたの魅力に気づく人は現れます。わたしが保証します」
千歳は素直すぎて、いじるのが可愛そうだ。そうそう、もう一つ気になることがあった。
「そう言えば、何で今日だったんですか? 何かきっかけでも?」
十秒ほど間が開くと、彼女は、ええと、と口を開く。
「テレビの運勢を見たんです。そしたら、大事なことを実行する絶好なチャンスって出てたんです。あ、これは今日しかないなって思いました」
毎日運勢を見てきっかけをうかがっていたんです、と付け足した。
「でもまあ、とりあえずお返しをもらって、これで心がスッキリしました。感謝します」
「いえ、わたしも人を殴ったのは初めてだったので、少し楽しかったです。ありがとうございました」
お互いに頭を下げた。
コンコン、と準備室の戸を叩く音がした。
「あのー、本を借りたいんですけど……」
女の子の小さい声がした。二人は慌てて立ち上がって、電球が切れて暗い準備室を出た。
3へ続きます。




