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北見拓也のクラスでは、おとなしくて寡黙な人間は放っておかれる傾向にあるようだ。
彼は図書委員をしているだけあって、読書をするのが趣味で、学校の休み時間はたいてい本を広げている。今日は、最近発売されたばかりの新書だ。
タイトルは、「メタファーの奇跡」。経済の入門書で、メタファーとは何か他のものに例えることをいうらしい。つまり、今既にあるものを抽象的に捉え、新たな形にして世の中に送り出してヒットさせた経営者の話である。
それはともかく、うつむいて静かにそんな本を読んでいる彼に話しかけてくる生徒はほとんどおらず、数人の友人が「よっ」「元気かー」と声をかけていくくらいだ。その後、話しが進展することはない。
別に、彼はさびしいとは思っていなかった。元々一人は好きだし、ワイワイガヤガヤと自分に関係ない話しが飛び交っているこの空間では、かえって集中できる。静かすぎると、少し落ち着かない。
そもそも、彼と他の子とでは、趣味が全然違う。たいていの生徒は、流行りのアイドルグループやスポーツの話しをしている。でも、拓也に「好きなものは何?」と訊いたら、「日経新聞」や「NHKニュース」と答えが返ってくるだろう。もしクラス中が「昨日の首相の発言さー」とか、「日経平均株価パネエー!」とかで盛り上がっていたら、彼の声が一番大きくなるはずだ。それでいいと思っている。無理に合わせる必要はない。
昼休みの終盤近くで、「トイレ行こうか」と誘う女子や、「宿題早く見せてくれ」と頼み込む男子が出てきた。次の時間は社会だ。新聞記事を読んで感想を原稿用紙最低一枚は書いてくるという課題だが、毎日のように新聞を読んでいる拓也にとっては朝飯前だった。
授業前にトイレ行っておくか。そう思って立ち上がろうとした時、
「ちょっといいかい」
と、横から太くて低い声に話しかけられた。この声は、
「…………」
相撲部所属の、士別泰造だ。彼とは中学も一緒だった。後ろには、取り巻きの二人がいる。その二人は細身だ。
「北見、お前また彼女できたのか?」
士別は、ニヤッと口の端を曲げた。
「彼女? いや、できてないけど」
拓也の視線は、未だ本に向けられている。
「ウソつけ。俺、外で休憩してた時見たぞ。お前と、例の女の子と一緒に下校しているところを」
「例の女の子って?」
ようやく拓也は顔を上げて士別を見た。
「決まってるだろ。あの全裸写真の女だよ。話しはしてなかったみたいだが、並んで歩いてたぞ。なかなかいい仲なんじゃないか?」
士別は、一歩拓也に近づいた。
「ああ、東さんのことか。彼女は同じ図書委員なんだ。だから、帰りが同じ時間になるだけだよ」
彼は淡々と返答する。
「あの先輩、東っていうのか。図書委員? あれって全員が図書室で活動してるのか?」
「そんなわけない。僕がダラダラ仕事してるから、監視役で東さんがついてるだけ」
「へえー。顧問の先生も粋なことするねぇ。わざわざあんな可愛い子をお前と一緒にするなんて。もしかして、先生に頼み込んだか?」
士別は鼻を鳴らして、ニヤケている顔を拓也に近づける。
「いや、先生には何も言ってない。今までの図書委員だったら僕の監視ができないと考えたんだと思う。東さん、最近入部したばっかりだし」
だんだん返事するのが面倒くさくなってきた。士別の荒い息が顔にかかって気持ち悪いから、本に視線を戻した。
「で、本当のところどうなんだ?」
士別はなかなか話をやめてくれない。
「何の話し?」
「だからー、お前と、その東さんはできあがってるのかってことだよ」
「そんな事実はない。ただの図書委員だ」
パラッとページをめくった。興味深いサブタイトルで、意識がほとんど本に移っている。
「ウソだ。お前も全裸写真見ただろ? その写真思い出しながら東さんのこと見てたんじゃないか?」
写真の話しに及んだので、拓也は再び顔を上げる。
「もう、あの写真のことは忘れた。あれはなかったことだと思って、付き合ってる」
「おー! 聞いたかお前ら。付き合ってるってよ。ヒュー、おめでとう!」
話しが、あらぬ方向に進んでいる。
「付き合ってるというのは、図書委員として行動を共にしてるということ。決してそんな関係じゃない」
「はぐらかしても無駄だぞー。で、教えろよ。どこまでいったんだ。生の彼女の裸は見れたのか?」
さらに近づいてきた彼から爆弾発言が飛び出した。
「いい加減にしろ。そんな関係じゃないって言ってるだろ」
こんな時は無視するに限る。再び本を読み始めた。
これ以上しゃべっていても話しが進まないと察した士別は、チッと舌打ちをすると、
「つまんねーの」
と、その場を離れていった。仲間の二人も、一緒についていく。
話を聞くだけで疲れることがある。今もそのうちの一つだった。
トイレに行く前に、何となく士別の行き先を見た。彼は、次のからかう相手を見つけたようで、拓也と同じように一人で本を読んでいる男子に声をかけている。
その読書男子は拓也と違っておくびょうのようであり、士別の大きい体に圧倒されて縮こまっている。ああ、これはしばらく話しに付き合わされるパターンだな……。
読書男子と拓也とは教室の端から端くらいに離れているが、その男子が泣きそうな顔をしているのは見える。辺りがガヤガヤ騒がしいせいで話しはきちんと聞こえないけれど、よっぽど士別にとって面白いネタなのだろう。ゲラゲラと笑っている。取り巻きの男子二人も一緒に腹を抱えている。
読書男子には可愛そうだが、自分の尿意の方が優先だ。拓也は、騒々しい教室から静かに姿を消した。




