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彩子は女子バスケ部で、一年生だからボールの片づけや体育館の掃除をしなくてはならない。壁時計を見ると、約束の七時を十分くらい過ぎている。
まあ、元々少し遅れるかもと大橋先生には話ししてあったから、それを見込んで適当に待ってくれているだろう。
二年生や三年生は先に帰ってしまう。先生さえも、とっとと職員室に戻ってしまう。だから、いつもはダラダラと雑務をこなしているのだが、今日は彩子だけ異常にはりきっていた。
小さい体で、前が見えなくなるのにボールを三つも抱えて、かごの中に戻していた。
他の部員はおしゃべりしながら掃除しているけれど、彼女はモップで体育館を駆け抜けていた。徒競走でもしているかのように汗だくになっている。普通、部活が終わった後に汗をかくことなんて、先生や先輩に怒られたときの冷や汗くらいしかない。でも、彼女の汗は熱かった。
「今日はどうしたの?」
と、他の子に訊かれた。
「用事があるの!」
そう叫びながら、モップのほこりを払い落とす。
「もしかして、デート?」
誰かが言った言葉に、えー、マジで? とうとう? と嘲笑する声がささやかれる。
「違う! 先生とお話!」
「あー、男の先生と大事なお話があるんだ。いいね~」
クスクスと笑われる。
「うるさーい! 黙って掃除して!」
興奮して、いつもはおとなしい彩子が怒鳴り散らす。
「ほーら。否定しないっていうことは、そういうことだ」
白状しなさいよー、とだんだん部員がニヤニヤしながら集まってくる。
「もう、違うったら!」
本当のことを言えば日高先生への想いがバレるから、それ以上何を言われても無視した。
さっさと終わらせて、誰よりも早く更衣室に向かった。
校門前で待っていると、五分くらいして大橋先生が現れた。
「お待たせ。何か、六時くらいに仕事終わっちゃって、後は暇してたの。だから、他の先生とおしゃべりしてたわ」
フフッと笑いながら楽しそうに言った。
「彩子ちゃん、行きましょうか。あそこのタクシーに乗りましょ」
先生は、百メートルくらい離れたもう一つの校門前に止まっているタクシーを指さした。
「あれ、先生ってたしか車乗ってましたよね? 乗っていかないんですか?」
「当たり前じゃない。今日はお酒飲みたいもの。車は、学校に置いていくわ」
学校に車を放置していていいのかと彩子は思ったが、本人がそれでいいのなら、気にしない。
タクシーの中では、お互いスマホをいじっていて、特に会話はしなかった。運転手がいると、二人だけの話はしにくい。
十分くらい走ると、飲み屋街の一角に着いた。そこは焼鳥屋の前だった。焼鳥屋も居酒屋のうちに入るのかな。お酒なんて一回も飲んだことのない彩子は、ふとそんなことを思った。
タクシーの支払いは、当然のごとく先生が彩子を制して行った。
「女子高生にお金を使わせるなんてこと、させないから」
やはり、ウインクが可愛い。いつかこんなセリフが言えるくらいお金を持ちたいものだ。
店内は、まるで山小屋を思わせる造りになっている。テーブルやカウンターのイスは丸太の形をある程度残したような形をしていて、手作り感が伝わってくる。
二人は、四人が座れる部屋に入った。床は畳で、ローテーブルの下は足をぶら下げられるよう四角にくり抜かれてある。
「何飲む?」
メニュー表を渡され、少し悩む。そう言えば、ノンアルコール飲料って未成年が飲んでもいいのだろうか。でも、お酒って苦いって誰かに訊いたことがあるから、わざわざ頼むこともないか。
「カルピスにします」
彼女はメニューを指さして決めた。
その言葉を待っていたかのように、先生はコールボタンを押した。
「ご注文をお受けいたします」
若い男性店員がメモ紙を持ってやってきた。
「カルピスと、ビールをお願い。後は……」
食べ物は、串物のセットを頼んだ。全種類の串が一本ずつ載っているらしい。
「かしこまりました。ご注文は以上でよろしいですか?」
「いいわ」
「失礼いたします」
店員は戸を閉めた。
先生は、スマホをいじり始めた。どうやら、お酒を飲まないと話しを始めないつもりらしい。仕方なく、彩子もスマホを取り出す。
飲み物が来ると、急に先生の表情が明るくなった。
「さあて、二人の出会いに乾杯!」
彩子のグラスに自分のジョッキを当てた。高い澄んだ音をたてる。
先生は、最初の一口で三分の一ほど飲み干した。ゴクゴクと喉を気持ちよさそうに鳴らす。
「よし、彩子ちゃんの話を聞こうじゃない」
ジョッキを置くと、先生は両手で頬杖を突いた。
え、このテンションで? まだ飲み始めたばかりだというのに。何か、楽しそうにしている先生に決闘を申し込むのがちょっと気まずい。
「ええと、最初に別の話をしませんか?」
あわてながら、話題を逸らそうとする。
「あれ、緊張してるの? 肩の力抜いていいんだよ。……まあ、いいか。じゃあ、わたしからお話ししてあげる」
そうして始まったのは、職場の愚痴だった。つまり、あの先生は会議で全然しゃべらないとか、この先生はムッツリスケベだとか、自分の化粧に文句を言ってくる先輩教師のことだとか、どんどん出てくる。もう少し彩子が積極的に相づちを返せば、先生全員の話が聞けるのでは、と思うくらいだ。
一時間以上、二回、三回とビールをお代わりしながら話し続けた。どんどん舌が回らなくなってきている。そのくせ、話しが止まることはない。この人、完全に彩子の話を聞くという本来の目的を忘れている。
「それでね」
と、なんと日高先生について話し始めた。
「知ってる? あの先生、妻子持ちなんだよ」
すらすらと言ってのけた。
「え?」
思わず声が漏れた。「妻子…持ち…?」
「奥さんも子どももいるってこと。教頭と校長とわたし以外、誰も知らないことよ」
彩子は、谷底へ放り投げられた気持ちになった。底のない谷へ落ちていく感覚だ。
「それなのに、いろんな女と付き合って、深い男女の仲になってるの。思春期のあなたなら、何のことだか分かるでしょ? 実は、わたし彼に言い寄られたの」
「そ、そうなんですか……?」
声が震える。
「そうよ! 一緒にお酒を飲んでたら、彼、全部洗いざらい吐いたわ。自分がいろんな女と付き合ってきて、わたしともそういう関係になりたいっていうことも。もちろん、丁重にお断りしたわ。そんなの、女としてバカにされて悔しいもの」
先生は、フンと鼻を鳴らした。
「で、でも、いつも日高先生と仲良く話ししてるところ見てますよ?」
まだ、そんな話し信じられない。ウソであってほしい。
「ああ、あれ? 先生としては彼、優秀だから。理科と数学って何かと教え方似てるし、参考にさせてもらってるの。それだけよ」
もし、彼に言い寄られたんなら、絶対断りなよ。
先生のその言葉を最後に、彩子はその後何について話しをしたか忘れてしまった。
翌日の朝、彩子は舞を隣の空き教室に連れていった。
「舞、とても残念な話があるの」
「え、何?」
舞は深刻そうな表情をする。
「日高先生、女好きのダメな人だった……。まさか、そんな人だとは思わなかった……」
彩子は、崩れ落ちるようにイスに座った。
「……その話、誰から聞いたの? 本人から?」
「ううん、大橋先生。先生も、日高先生から声をかけられてたみたい。あたしに忠告してくれたの。絶対近づいちゃダメって。危なかったわ。妻子持ちだったなんて」
はあ、と彩子は重いため息をついた。そして顔をうつむかせる。
「そう。残念だね」
舞は、淡々とそう言った。
「うん、本当に残念」
オウムのように、舞の言葉をくり返す。
「彩子、あなたには失望したわ」
彼女は、吐き捨てるように言った。
「え?」
聞き間違いでもしただろうか、とうつむいていた顔を上げる。
「陰で見てた。彩子ったら、どうして大橋先生と仲良くなるのよ。作戦失敗じゃん」
「ご、ごめん……。せっかく色々手立てを教えてくれたのに……」
「私の復讐はどうなるのよ!」
舞が突然声を荒らげた。二人しかいない教室に反響する。開けっ放しになっているドアから廊下にも声が漏れ、女子が二人こちらを少しだけ見た。
「ふ、復讐?」
「そうよ! 私は、大橋先生よりも先に日高先生に近づいたの。入学してからすぐに告白しようとしたの。そのために、彼といっぱい話をする機会をつくった。数学で分からないことがあるって言ったら、職員室に招いてくれて休み時間中ずっと話を聞いてくれた。
でも、そうしていたら、彼を狙っていた大橋先生に目をつけられたの。突然進路相談室に呼び出されて、制服の着方がだらしないとか、担任の先生から『授業中の態度が悪い』って聞かされているとか、どうでもいいことでいちゃもんをつけてくるの。
最初はほとんど気にしてなかったんだけど、だんだんエスカレートして、そして疲れて、気がついたら日高先生を好きになる力が残ってなかった。他の先生には相談できなかった。分かるでしょ? 大橋先生の言ってること、全部本当のことだもの。私、クズだから」
そこまで話して、舞はハアハアと息を絶え絶えに吐いた。
「ちょっと待って。大橋先生は、日高先生に言い寄られたって言ってたよ」
「そんなの、自分が振られたからウソを言ったに決まってるじゃない。噂に聞いたんだけど、『一人の生徒にそんなにストレスをぶつけて楽しいか?』って言われたみたい。私にずっと怒ってたの、日高先生は知ってたの」
舞の声が震えている。目には涙がにじんでいる。
「それじゃあ、あたしに色々大橋先生へのいたずらを教えてくれたのは……」
「もちろん……私の代わりに……痛めつけてもらう……ため。偶然にも、彩子は私に相談してきてくれた。……チャンスだと……思ったの」
舞は、言葉を発するのも辛そうに喘いでいる。
目の前で涙を流す友人を見て、彩子は少し考えていた。この友人は、自分を使って大橋先生を懲らしめようとしていた。自分で行う力などなかったのだろう。心のどこかでは、自分を利用した舞を許せないでいた。しかし――
「泣いていいよ。あたしを使って復讐しようとしたこと、許してあげる。気持ちは分かる。恋に破れるのって、とっても辛いもん。自分より綺麗な人を相手にすると、なおさらね。だから、あたしの中で泣いていいよ。あなたは泣き声が大きいけれど、気にしなくていい。もう、慣れたから」
彩子は、イスを舞の隣に持ってくると、彼女の肩を抱いた。それはまるで、子をなぐさめる母親のようであった。
日高先生は、本当に妻子持ちで女好きなのだろうか。そんな話し、大橋先生からしか聞いたことがない。ただ、皆に優しく接しているだけなのではないだろうか。
つい最近知り合った先生と、幼稚園からの幼なじみ、どちらの話を信用するか、彩子は迷うことはなかった。
日が暮れかけている頃、ケンは人形店に戻ってきた。
「あら、今日はダメだったの」
店の扉を開いて入ったばかりだというのに、奥のイスに座っている杏子は、クスクス笑いながらつぶやいた。
「ああ、今日は収穫なしだ。すまんな」
ケンはスーツの懐から黒いハンカチを出すと、汗を拭いた。
「いいえ、気にしないで。寿命はまだ足りているから」
彼女は、片手で自分の胸を擦った。
「いや、別にそんな心配はしてない。君は、そんなことで悩むほど小さい存在ではないだろう?」
フッと彼は静かに笑った。
「そうね。ただ、言ってみただけよ。……そうそう、彩子って子に渡した人形、今夜にでも回収しておいて」
「どうした? 失敗したのか」
「今、彼女に渡した人形から部屋の様子を見ているんだけど、何かすっきりした顔をしているの。恨みの感情がほとんどないわね。人形を使うことはなさそう」
「分かった。その、彩子って子が寝静まったらこっそり回収しておくよ」
「後、数日前に東千歳と一緒に店の前まで来ていた男の子、分かる?」
「ああ、ちょうど店にいたからな。あの子がどうかしたか?」
「変なの。彼から、あたしに対して恨みの感情を感じたの。何か、おかしいと思わない?」
クスクス笑いながら話す彼女を見て、ケンはやれやれという顔をした。
「杏子、もしかしてまた面白いものを見つけたというのかい?」
「当たり前でしょ? あたしへの恨みを抱く人間なんて、久しぶりだもの。しばらく、彼のこと見ていたくなっちゃった」
クスクスクスと笑った。
「でも、出来れば店に来てほしいわ。この人形たちを、ぜひ彼にも見てほしいな」
日が落ちて、店の中を闇が支配する。
第三話は終了です。引き続き第四話をお楽しみください。




