第1章 ゴール下
誰も居ない家、最初の頃は寂しかったが慣れるとかなり快適だった、親父に気を使わずにやりたい事が出来る、あんな事やこんな事、親父に言えない事までも……
「そろそろ行くかな……」
時計の針は18時45分丁度を差しており、今から出ればゆっくり向かっても間に合う。
ざっくりと部屋を片付けて、夏の割には澄んでいる空気を感じながら、学校へと自転車を走らせて行く。
今日はやけに空気が冷たく感じる、これが噂の冷夏ってやつか。
校門が見えその前には2つの人影、まだ19時20分だというのにミトラとナイアスが既に到着していた。
「遅い、貴様は何を考えてやがるですか? 15分前行動は基本だと思いますが」
「ミトラちゃん19時10分にはもう着いてたんだって、ベリアルも見習わなきゃね」
好き勝手言ってくれるぜ、30分集合なんだから10分前に到着でも早いだろうが、俺だってヒマじゃねぇんだ、ヒマだけど……。
「いいじゃねぇか、逃げるもんでもないだろう。時間に間に合っただけ褒めて欲しいもんだぜ」
「うるせぇです、さっさと行くですよ」
「ミトラちゃんこの門登れる?」
校門へ足をかけ、忍者のようにするすると昇りながらナイアスは下で見上げているミトラへ声をかける。
「ちゃん付けは止めやがれです、登る必要なんてない、こっちから行けばいいのですよ」
ナイアスを尻目に校門横にある小さな扉を引くと、金属の軋む音を軽く立てすんなりと開いた。
「この時間は先生だって残ってるじゃねぇですか、どうやって帰ると思っていたのですか? 脳は思考する為にあるのですよ」
呆然とするナイアスと俺を置いてさっさと門の向こうへ行くミトラ。
「そう言えばそうだよねー……昨日ベリアルに同じようなセリフ言ってたけどそこで気付けばよかったじゃん……」
「あぁ……俺達バカみたいだな……」
ナイアスは校門から降り、俺はミトラの開けた扉をくぐり、その後を追いかけて行った。
今日は体育館と旧校舎を先に探索する事になっていたので校舎には向かわず、校庭を斜めに突っ切り体育館へと向かう。
校舎と体育館は渡り廊下でのみ繋がっているので正面からは入れない。
そのまま体育館の裏手に回り、俺が壊した窓へと辿り着いた、窓越しに中をうかがってみるがもちろん人の気配は無い。
俺は窓枠を揺らして鍵を外し、中へと入り込んで行く、ナイアスが続き、ミトラは手を引っ張られて入り込む。
「問題の体育倉庫ですがね、ウチが掴んだ情報によると期待しない方がいいと思う」
「そうなの?」
「まぁ昨日の事があるから俺は大して期待して無いけどな」
体育館の暗闇を懐中電灯で照らしながら倉庫へと向かって行くが……
……あぁ……ううぅぅ……ああぁあ……
近付くにつれて若い女の呻き声らしき声が聞こえてくる、しかしベリアルには聞き覚えがある呻き声。
おいおい……勘弁してくれよ……
「ね、ねぇこれって……」
「恐らく貴様等の考えてる通りだと思う、ウチはそんな経験ねぇですがね」
ナイアスを照らすと顔を耳まで赤くして俯いていた。
俺は倉庫の扉に張り付くと中から聞こえる声に集中する。
「あん……だめぇ、そんな激しくしたら……あっあっあああぁ! 駄目っダメぇえ!」
「でかい声出すと誰かに聞こえちゃうぞ? ほらほら! ここが駄目なのか?」
……ふぅ…………
「帰ろうぜ」
扉から身を離し、ナイアスとミトラの肩を叩く俺、すこし前かがみになりながら。
ベリアルの耳に聞こえてきたのは、そう、男女の営みだったのだ。
今は夏、若い男女、体育倉庫、お盛んな事だ……
「ウチが掴んだ情報によると、この倉庫には裏口があり、なおかつ裏口の鍵が複製されて近くに隠してあるのです。若いサル共はそれを片手にこの倉庫で夜な夜な行為にふけっていやがるそうです」
「そ、そういう事は……先に言って欲しいよぉ……」
「まぁ、何と言うか。そうだな」
俺達は無言のまま扉から少し離れた所に移動した。
ナイアスはまだ下を向いたままで、微かに聞こえる女性の声をBGMにして俺は近くのバスケットゴールの柱にもたれかかっていた。
「俺の学校の7不思議がこんなくだらない事だとは思わなかったぜ……愛剣 シャドーソードが泣いていやがる」
俺がため息をついた瞬間だった。
体育館に吹くはずのない風が吹いた、強風などでは無い、生温かい微かな風。
それと同時に襲ってくる悪寒、見ればナイアスも無表情なミトラも怪訝な表情で周りを見渡している。
床に置かれた懐中電灯の明かりが照らす周りには何も無い。
「ひゃん!」
目の前に居たナイアスが突如大声を上げ床に倒れる。
「何やってんだよ……」
起き上がらせようと手を伸ばすが、
「ちょっと! 変な冗談止めて! どこ触ってるのよ! え、嘘止めて!」
その光景を見た俺は、何が起きているのか理解出来なかった。
懐中電燈の僅かな光に照らされたのは体育館の床へ徐々に呑み込まれていくナイアスの姿。
「んなっ……まさか! おいウソだろ待てよおい!」
必死で這いだそうともがくナイアスを見ながら叫ぶが、足が床に縫いつけられたかのように体が動かない。
ナイアスの顔は恐怖に歪み、パニックのせいか声もあげずに抵抗している、しかしそれも虚しくその体はずるりと木製の床へ吸い込まれてしまった。
「ナイアス! 嘘だろ! 何がどうなってんだよ!」
弾かれた様に彼女を呑み込んだ箇所を力いっぱい殴りつけるがやはり堅いいつもの体育館の床だった。
「これは……闇に導かれし悪魔か魑魅魍魎の類か……さてはウチの呪いで……」
俺が混乱している横で淡々と呟いているミトラ、怒鳴りつけようと顔を照らしたが、その顔もまた恐怖で歪んでいた。
生温かい風は吹き続いており、段々とその風速を高め、背筋に這い寄る悪寒もその感度をあげている。
やばい、と本能的に感じた刹那、ミトラの声が暗闇に響いた。
「ベリアル! 助けやがれちくしょう! なんなんだコレ離しやがれですううう」
慌ててミトラを照らすと、その華奢な体の一部、腰から下が黒い霧の様なものに包まれずぶずぶと床へ沈み始めているのが見えた。
「手を伸ばせミトラ! なんだよこれ! なんだよこれ!」
俺は咄嗟に霧から出たミトラの手を掴み、力いっぱい引っ張るがその小柄な体躯はどんどん床へ呑み込まれていく。
「これが本当の怪奇現象ってヤツかくそったれ!」
半ば狂いそうになりながらも引き込まれまいと足掻くが、ミトラの全身は床に消え、ベリアルの腕も肘まで床へ沈みこんでいる。
その時行方不明になった母さんの顔と悲しみに暮れる親父の顔が頭をよぎった。
俺は残った腕で床に置いてある木刀を取り、ベルトの間に挟み込み、ポケットから携帯を取り出し、急いで簡易メールを打った。
宛先は親父、我ながら素早い行動だと思う。
もう肩が半分沈んでしまっている、時間が無い。
『おやじすまない行方不明かも俺ないあすもなるたいくかんごおるした』
めちゃくちゃな文脈だが仕方ない、親父ならきっと分かってくれるはずだ、送信ボタンを押し、携帯を放り投げ、頭が沈む、ひんやりとした感触が顔の皮膚を撫でる。
視界が闇に染まり、呑み込まれた全身は麻痺したかのように全く動かない、声を出そうとしても喉が張り付いたかのように機能しなかった。
――そこで俺の意識はぷっつりと途切れた。