9.
鈴城美鳥は紺野邸の応接室で、スマートフォンを惰性で弄んでいた。ここに通されてからもう三十分が経過している。
紺野溝近は美鳥に会う気がないのだろうか。いや、会わない気ならもうとっくに帰されているはず。いや、これは帰れということを暗に示しているのではないか。美鳥が察して、自ら帰るのを待っているのではないか。
不安と期待とで心臓が爆発しそうである。
雑誌の発売から半月待っても紺野溝近からは音沙汰がなく、美鳥は思い切ってアポなしで押しかけて来た。
昔のDCブランドのなかでも、まだ地見目でこんな時の為に残しておいた一張羅の、胸の大きく開いたボディコンスーツに赤いピンヒールである。二時間かけてヘアメイクを整えた。意外にいけるかも、と自分では思っている。
ここに歩いてくるまでも、すれ違う男たちのうち何人かは振り返った。左手薬指にファンシーな指輪をしているのも、ご愛嬌である。
無意識のうちに指輪を右手でいじってしまう。
大丈夫。
この指輪があれば。
この指輪さえ外さなければ。
なんでも願いはかなうはず。
紺野溝近も、紺良帝国会長夫人の座も、なにもかも手に入れられるはず。
あんなに仕事が舞い込んできたのも、すべて物事がスムーズに運ぶようになったのも、この指輪の御利益。
だから大丈夫。
そう自分に言い聞かせる。
「失礼、だいぶお待たせしてしまいまして」
いきなり扉が開くと、息を切らして紺野溝近が飛び込んできた。いきなり深く頭を下げる。髪も乱れている。
そのあわてた姿に暗雲のごとく立ちこめていた不安が、さあっと晴れていく。こんなにあわてて飛び込んでくるのだから、美鳥を意図的に待たせたのではないのだろう。
今日はひとりであの黒服の男を連れてきていないのも、良いサインである。美鳥に心を許したか、信頼できると思ったか、二人きりになりたかったか、とにかく悪いことではない。
「え……いえ、こちらこそ、お約束もなしにお邪魔しまして、そのう、ご迷惑なら出直しますが」
「そんなとんでもない」
「でもお仕事だったのでは」
紺野溝近は美鳥と向かい合わせに座ると、艶やかな髪を揺らして、子どもっぽい、笑顔を見せた。
「寝てました」
「寝て……」予想外の答えに声を失う。もう夕方である。
「申し訳ありません、そんな理由でお待たせして。なにぶんにも自由な身の上ですので」
紺野溝近は両手をひざにおき、深々と頭を下げる。そのいさぎよさに胸がキュンとなる。
これだけの男が、こんなことの為に頭を下げるだなんて。
本物の男だ。
これが本物の男である。
自分はやはり、この男と出会うためにいままでひとり身で来たのである。
「そんな突然訪ねてきた私の方が悪いのですから、こちらこそ、安眠を妨げてしまって申し訳ありませんでした。
なんだかずい分慌てさせてしまったようで……」
「ああ、やはり分かります? すみません」
溝近はあわてて、乱れた髪を両手で撫でつけた。
前とは違って、服も乱れ気味でどことなくだらしがない。付き人がいないと気づけないのだろう。眼が見えないというのはやはり不自由なのだ。
「あ、あとネクタイも」
美鳥は立ちあがって、テーブル越しに手をのばして、溝近の首元に手を触れた。曲がっていたネクタイを真っ直ぐに戻す。
紺野溝近の貌から表情が消えた。
なにかを堪えるように、感情を押し殺した無表情だ。
馴れ馴れしすぎたのかもしれない。あわてて身を引いた。
沈黙が続く。
見えない眼をじっと彼方に向けている溝近の表情からは、何も読み取れない。
「ごめんなさい、つい……。差し出がましいことを」
溝近ははっとなって整った顔を美鳥に向けた。とってつけたように笑顔を作り、大きな手で顔を撫でた。
「いえ、すみません。
ちょっと昔を思い出してしまって。昔、家に居た親類の子もいつもそうやって直してくれていたのですよ。小学生のくせにませていて、いつも私の身だしなみばかりチェックしていてね。すこしでも歪んでいたら許せなかったらしくて」
「ひょっとして葵信也ですか? KJOの」
「よくお分かりですね、どうして分かったのですか」
「そりゃあ有名な話でしたから。
孤高で高飛車な天才少年、葵信也は実は紺良一族のおぼっちゃまで、両親を事故で亡くしているのは本当だけれども、紺良本家で贅沢三昧、甘やかされていたとか……でも、そのわりには意外にも腰が低くて性格も真面目、だからやはり名門の家できちんと躾けられていたらしいと」
すこしばかり、言葉を選んで美鳥は言った。
もともと、KJOなどという甘ったれのアイドルグループには興味はなかった。すこしばかり調べたのは、葵信也が交通事故で亡くなったときである。小学生と言う配慮をさっぴいても、それまでの過熱ぶりからして、葵信也の突然の死に対するマスコミの扱いはいきなりのトーンダウン、静かすぎ、不自然であった。
その時に葵信也の背後には、紺良グループがいること、KJOが紺良をはじめとする大企業をバックに活動していたことを知ったのである。
「そうなんですかねえ……。
けっこう甘ったれで、わがままというか、ずるいところがあったのですけれども」
「いえ、評判良かったですよ。信也くん、実際に一緒に仕事をした人たちは、キャラと違っていいコだって、大絶賛していましたから」
「そうなんでしょうか。
美鳥さんはKJOの中では誰が好きでした」
「え……」名前を呼ばれて、頭が真っ白になった。
なんだろう。このいきなりの距離の詰め方。
うまい。さすがというか、上手すぎる。そこらの付け焼刃の青年社長やホストとは格も品もまったく違う。
紺野溝近はにやりと癖のある笑顔を見せて、身を乗り出した。
「ほら、流行ったじゃないですか。
あの中で誰が好きかによって、その人の好みのタイプというか、性格が分かるって。
もう、忘れちゃいましたか、誰がいたかなんて」
「え、いえ……、ええと、BJとか」KJOのスポンサーであったはずの溝近に、興味がないだなんて知られたくはない。とっさに記憶をたどって、覚えている中で、いちばん名の知られていなかった少年を思い出した。
「BJ」
びっくりしたように溝近が呟いた。
しまった、奇をてらいすぎたかもしれない。
美鳥は自分でもおかしいと思う、不自然な高い声で笑った。
「へ、変ですよね、いえ……、あー、ちょっと、わたし、変わっていて……」
「いえ、すごくいい。
さすが目の付けどころが違いますね。わたしも仕事とか、事業とか、ビジネスに巻き込むならば彼を選びますね。
まあ、アイドルには向かなかったタイプですが」
「す、すこし、地味だった……ような?」
どうにでも解釈できるようなあいまいな表現をすると、溝近はツボにはまったようで豪快に笑った。とりあえず、クリアできたようだ。よくは知らないが、BJという少年に感謝する。
「ところで、美鳥さんこのあとご予定は?
もしお時間があるようでしたら、この前の記事のお祝いをさせてください。お付き合いいただけるでしょうか」
「嬉しいですっ。
でも、割り勘で行けるような店にしてくださいね。男にたかって生きている女と思われたくないので」
紺野溝近は立ち上がると、腕を曲げて美鳥に差し出した。
「それだけはご勘弁を。
わたしが女性に勘定を払わせたりしたら、世の中で笑い物になって、祖母が枕元に立って説教しますよ。
そんなことより、今日はわたしの目になってください。あまり眼が見えないことを人に知られたくはないので。隠しているわけではないのですが、色々とうっとおしいのですよ、詮索されたり、同情されたりするのが」
「は、はいっ」
美鳥は溝近の腕に、右手をかけた。想像以上に筋肉質の太い腕だ。
こんな腕に抱きしめられたら、このたくましい胸に顔をうずめられたら、と思わず妄想してしまう。
でも、それは夢ではない。
実現するかもしれないのだ。
この指輪がある限り。
美鳥は左手をきゅっと握りしめた。