7.
この美貌の店員が美鳥の安普請のアパートを訪れたのは、翌日の午後だった。
例によってゆだる暑さの中、ごろごろと転がっているところを、ドアがノックされた。
居留守を決め込む。
たいがいロクな話じゃないからだ。
セールスか宗教かNHKか、どれもお断りである。
「……困ったな、鈴城さん、鈴城美鳥さん、リーベの者ですが、いらっしゃらないのでしょうか」
はっと気がついて、あわててドアを開けた。
真夏にもかかわらず、ネクタイを締めたスーツ姿ですらりと立っていた。美鳥を見てほっとした笑みを浮かべる。
「いらっしゃって良かった。香紀がどうしてもすぐに渡したいと、昨日徹夜で作ったものですから。
私も本日中にお渡ししたかったので」
「ど、どうも、すみません」
思わずぺこぺこ頭を下げて受け取ろうとするが、店員は「お邪魔します」とするりと入った。
万年床引きっぱなし、卓袱台に、やかんを畳に直置きした、オヤジ部屋である。
だいたい、美鳥自身がすっぴんでタンクトップにショートパンツ、首にはタオルを巻いたままだ。
「す、すみません、そのう、仕事中で散らかっていまして」
「いえ、私は構いません。
ただ、中身を確認していただきたいのと、お話したいことがありますので」
「お話したいこと……」
美鳥はごくりと唾を呑んだ。追加料金とか発生するのであろうか。それならばこの貧しい部屋を見てもらった方が、むしろいいかもしれない。
「どのような」
「注意事項といいますか……外さないでいただきたいのです」
「はあ」
「まあ、詳しくはおいおいご説明いたします」
店員は黒地にオレンジの文字でLiebeとかかれた小さな袋を卓袱台に置いた。美しい手つきで、小箱と領収書を出す。金額は確かに五千円、受領済と記載されていて、ほっとする。
小箱も同じく黒。
開くとほっそりした銀の指輪が入っていた。
「あらっ」
思わず声を上げてしまう。
とても可愛らしい細工だ。細い銀の螺旋。白色からピンクの貝の欠片がいくつも張りつけられて、グラデーションを作りながら、ダリのモチーフのようにうねったハートの形を作っている。
素材は確かに安そうだが、技術料は高そうである。センスも構成もばっちりだ。
「これを私の為にわざわざ徹夜して……?」
「はい」
胸がジーンと熱くなる。
やはりあの子はいい子なのだ。あのタヌキとは大違いである。
店員が美鳥の手をとり、左手の薬指にはめた。
ぴたりとはまる。
まるで以前からそこにあったかのように手に馴染む。
少女趣味っぽいが、アラフォー女子に少女心は必須である。なんだか、色々前向きに取り組みたくなるような意欲がわいてくる。やはり部屋も生活ももう少し女性らしくしよう。未来の紺良会長夫人なのだから……とか。
「気に入っていただけましたか」
「ええ、勿論、すごい……ありがとうと、よろしく伝えてくださいね」
「その指輪なんですが、香紀がつくるオリジナルのアクセサリーは特別な力を持つんです。
強い運命の力を引き寄せるんですよ」
突拍子もない発言に、美鳥が絶句していると、店員は色白の顔でほほ笑んだ。
「けれども外してしまえばその力は失われます。
反動が起き、一挙に不運に襲われると言われています。
ですから決して外されないように。宜しいでしょうか」
「にわかには信じられませんけど……。
まあ、そのくらいなら出来ると思います」
ふ、と店員は薄いくちびるに皮肉げな微笑を浮かべた。
「でも、現実のところ難しいのですよ。
私の場合は自分が幸せになるために他人の心を踏みつけることができなくて、自ら外してしまいました。
自分自身の力であることを確信したくて、外した芸術家もいます。
いちばん賢い少年は、受け取ってすぐに外してしまいました。そうすればただのアクセサリーですからね。あの子はけっこうしたたかに、今でも自分の才覚で生き抜いていますね」
「私はどうしても欲しいものがあるのです。ですから外しません、絶対に」
店員はうなずいた。
「それはそれで良いと思います。
さまざまな欲を抱くのが人間の本質であり、それを気まぐれに叶えるのが神の仕事でしょうから」
「神、ですか? 香紀くんが?」
「あ、いえ、香紀のことではないですけれど。
そのう、一般論として。人々がお参りして祈願して、お守りを身につけるようなものです。
でも、一度はめた以上は決して外さないでください。宜しいでしょうか」
「分かりました」
店員が帰って行くと、美鳥は万年床にまた寝っ転がって指輪を眺めた。
良い指輪である。
ブランドの刻印もされている。
五千円ならばお値打ちなんだろうけど……この美鳥の極貧生活からすれば、やはり痛手だ。
それにしても強い運命の力を引き寄せるって……。
やはり信じがたい。
まあ、紺野溝近を手に入れられるのであれば、イワシ頭だって信じるけれど。
携帯が鳴った。
メールだ。
昨日発売された週刊xxの編集者からで、美鳥のコラムが大反響だったので急きょ次週にも半ページ作った、時間がないからネタはなんでもいい、至急書いて送ってくれとある。
うだっていた脳がぴしっと醒める。
チャンス。
もう何年も待ち続けていた再起をかけたチャンス。
この日が来ることだけを夢見て、こんな極貧生活に甘んじていたのだ。
少なくとも今の美鳥には、不遇時代の苦い経験が嫌と言うほど財産として蓄積されている。
――なんでもいい?
――なんでもいいわけがない。
こういうときが正念場だ。編集者の口車に乗ってはいけない。
最低でも同じレベル、もっといいものを数本書き続けれるかが運命の分かれ道だ。
あわててネタ帳をめくる。
日々、ブログに罵詈雑言を掲載しているから、時事ネタはすべて押さえてある。どんなのに反響があるか……雑誌購読者と、ネットの住人とでは差があるだろうが、それでも、世間一般の興味の方向には敏感だと自負している。
同じような犯罪事件、猟奇事件をとりあげるか。
スポーツ、芸能人のゴシップ、政治、雇用問題と考え、社会現象になっているアイドルグループに決めた。
一部マニアで熱狂されていたのが国民的に認知され続けても、どこか、昔のアイドルの席巻の仕方とは違う……そのあたりから、世代格差へ、もちろんおじさまたちにも分かりやすく辛口でアイドルのプロフィールを書きつつ、と考えていたところに電話が鳴った。
長いこと音信不通だった、というより一方的に居留守を使われ続けていた編集者だ。
「みっどりちゃーん、健在だねえ、なーに、あのコラム、すごいじゃない。あの切り口はさすが鈴城美鳥よねえ、他の人じゃムリムリ。こっちじゃ評判いいのよお。つれないじゃない、あーゆー記事は週刊xxなんかじゃ評価してくれないでしょ、ウチに言ってきなさいよ、ウチに」
はらわたが煮えくりかえりそうになりながら、ええ、不義理をしてすみません、断れない事情がありまして、と大人の対応をする。
毒舌コラムで政治不信を、と言われ、二つ返事で引き受ける。
またメールが入って来た。
別の知人からで、仕事が紹介出来そうだけどどうする、という打診のメールだ。
思わず小指の指輪を見てしまった。
少なくとも。
この三つの仕事の報酬で、指輪代は軽く超えてしまったのは確かだった。