5.
信じられない。
署名入り。
顔写真入りの半ページの記事。
ちゃんと掲載されている。
有楽町駅前の本屋で、鈴城美鳥は山積みの週刊誌を広げたまま硬直していた。手がぶるぶると震えだす。脇から何人ものサラリーマンが雑誌をつかんで買って行く。彼らをひっつかまえて、これは私の記事だ、私が書いたと叫びたい衝動に駆られる。
もちろん編集部と打ち合わせをしたし、ゲラも見たし、校正もした。だが、こうして発売され、店頭に並ぶまで信じられなかった。
署名入りの記事なんて何年ぶりだろう。昔は当たり前だったことだが、苦節のあげくの久々の署名記事に魂の奥底から震えてくる。
編集部にあった写真が若かった時代のものであるのは御愛嬌。だいたい今の鈴城美鳥の顔は、もう誰も知らないのだ。しょうがない。
「おっばさーん」
どーんと背を叩かれ、美鳥は振り返った。
思わずぎょっとする。
どこからどう現れたか、桃城山のタヌキこと、黒髪チビが立っていた。
確かに。
ぱっちりした黒い瞳と、こてっとかしげた首の角度が、信楽焼の狸によく似ている。
「その記事ひどーいじゃなーい、そんなつもりで協力したんじゃないのにサ」ぷううっとほおを膨らませている。今度はフグのようである。
「協力? どこが協力したっての、ぼったくっただけでしょ」
「だいたい写真が別人だし、サギだよ」
「失礼な。正真正銘の本物、本人。ちょっと昔なだけよ」
美鳥は言い捨てると週刊誌を山に戻し、店を出た。
紺野溝近には軽口をたたいてみせたが、本気で紺良宇大のことを書く気は、勿論、なかった。水戸部鉄士の真の動機のこともである。
ターゲットを長谷部時宗に向けた。
読みにくい文体で読者をバカにしている。
権威に惑わされて、批判しないマスコミは腰ぬけども。過剰に被害者遺族、加害者遺族と意識をし過ぎ。
あれだけの事件が起きて本心で反省しているのなら、印税をどこぞに寄付すると表明するのにしていない、教え子の死を金儲けにしている云々。
そして長谷部時宗の偉大すぎる経歴を茶化しながら、小馬鹿にして書き添えた。
目の前には「紺野溝近と食事」というニンジンがぶる下がっているのだから必死だ。
百回近く校正した。
毒舌で、小気味よく。
リズムもよくて読みやすく。
一文字、一句読点たりとも無駄はなし、誰が読んでも分かりやすく、かつ、説明的でもない。
皆が薄々思っていることを口火を切って言うのも手法である。本当に誰も考えていない、独自性に富んだ、まったく新しい概念だと、実のところ受け入れられないことが大半だ。
ブログの方には今朝から次々と、良く言ってくれたとコメントがついている。
予想以上の反響のようだ。
あとは紺野溝近からの誘いを待つだけ。
メルアドを残すなんて野暮はしていないが、あれだけの男ならどうやったって連絡をつけてくるだろう。
居酒屋で割り勘なんてことは、紺野溝近にはあり得ないだろう。久々に一流の店で完璧なエスコート、厳選されたワインのディナーのはずだ。
いや、そんな店云々はどうでもいい。
また会って会話をすることの方が重要だ。
あの打てば響くような会話の応酬を、紺野溝近を楽しんでいたはず。幾度も美鳥のことを感嘆していた。
そこらの小便臭い娘とはまったく格が違う知能と能力。それが美鳥の武器。
絶対。
絶対にあの男を落とさなきゃ。
それで人生が変えられる。
そしてゆくゆくは紺良帝国の会長夫人……意外と、美鳥には向いているかもしれない。盲目の夫をサポートできる知性と教養。苦労もしているから下々の者へだって気づかえる。
忍耐力もあるし、世知にも長けている。世間知らずな我儘娘より、よほどいいはずだ。
そしてときたま宣伝を兼ねた文筆業の仕事もして、と夢が広がって行く。
「ねえ、おばさーん、どこ行くの、無視しないで。
えー、コンノミゾチカには会った、んだよね?」
しぶとく桃城山のタヌキは追いかけてくる。
思わず美鳥は立ち止った。
「彼のこと知っているの」
「え、いやあ、別に、特に」
「会ったことあるんだ」
ありえる。
紺野溝近が紺良宇大に来そうな学生を物色していたのなら、水戸部鉄士を介して他のゼミ生が会っていても不思議はない。
もしかしたら「桃城山のタヌキ」で本当に伝わってしまったのかもしれない。
「キミ、最近、身辺に変わったことは」
「ん? えーと、朝、なかなか起きれなくて」
「じゃ、大丈夫ね」
紺野溝近は、直接会った印象では、噂のような悪人には見えなかった。だが、万一と言うこともある。
噂は所詮、噂。
だけど、火のないところに煙は立たない。
四方八方に神経を張り巡らし、ありとあらゆることを考えるのが、女の知力だ。
美鳥は桃城山のタヌキの首根っこをつかんだ。
「キミ、溝近さんのこと、どのくらい知っているの、一緒に飲んだりした?」
「えー、ぜんぜん知らないよお。他人、まったくの、まーったくの赤の他人。
放してよ、おばさん」
「おばさんじゃないって何度言ったらわかるの」
「分かった、分かったってば、美鳥ちゃん、放して」
「なれなれしい……、ったく最近の大学生は」と呆れながら美鳥は手を離した。ごほごほとタヌキはこれ見よがしに、わざとらしく咳き込んでいる。
漆黒の瞳が美鳥を映した。
「美鳥ちゃん、コンノミゾチカのなにを知りたいわけ」
「べ、別に……大したことじゃないわよ、こんど食事の約束したから、どんなものが好きなのかなとか、お酒はなにが好きだとか」
「へぇぇぇぇぇぇ、食事ぃぃぃぃぃ」
にたぁと桃城山のタヌキは見透かしたような顔で笑った。邪悪な笑顔である。
ったく、近頃の学生は、と怒りがわく。
本音を言うなら、彼女はいるのとか、どんな女性が好みなの、とかを猛烈に知りたいところだが、このタヌキには聞く気になれないし、聞いてもまともに答えそうもない。
もっともこの貧乏くさい少年が、紺野溝近のことを知っているとも思えないが。
「そうだ」と桃城山のタヌキはぱあんと手を叩いた。「この近くで僕の友だちが開運グッズ売っているんだ。なんでも願い事が叶うんだよ」
「な、なに、そのいかにも胡散臭いキャッチャーは」
「すぐそこだって、行こ行こ」
「ふざけないでよ、そんなのに引っかかるワケないでしょ、私をいくつだと思ってんの」
「見たまんま、アラフォー」
思わず声に詰まる。にんまりとタヌキが笑う。
「行こうよぉ、ミゾチカさん独身だし、美鳥ちゃんお似合いだよぉ」
「え」心がぐらぐら揺れる。紺良帝国会長夫人になれるなら、それこそ怪しげなグッズや宗教にすがりたいほどの心境ではあるのだ。「い、い、い、い、言っとくけどおカネないわよ、原稿料だってまだまだ入ってこないし」
「大丈夫大丈夫、僕のカオが効くから」
桃城山のタヌキはくるりと踵を返すと、勢いよく手を振り、晴海通りを銀座交差点へ大声で歌いながら歩きだした。
白ヤギさんからァ、とはじまる有名なやぎさんゆうびんの童謡である。
見事なほど音程を外してうたっている。
いまどき、ここまで音痴なのも珍しいだろう。
大学生なのにカラオケへ行ったりしないのか。というか桃城山にはカラオケが存在していないのかもしれない。
さすがに銀座のど真ん中だけあって、誰も振り返ったりはしていないが、一緒に歩くのは羞恥プレイかと思うほど恥ずかしい。
一番が終わると、黒ヤギさんから、とまた続いて歌い出す。
「し、しいいっ、小学生じゃあるまいし、街中で歌わないのっ、山奥じゃないんだから」
「あ。ごっめーん」
「ほんと、桃城山のタヌキね」
「なにそれ……あ、ここ、ここ」
タヌキが立ち止ったのは、銀座中央通に面した超高級そうな店だ。
黒御影石のエントランスが品よく奥まっている、ということは、これだけ馬鹿高い地価がすべて商品に上乗せされているはず。
小さなディスプレイに飾られているのは宝飾品。
Liebeという装飾文字がさりげなく刻まれていた。
「こ、ここ?」
こんなカジュアルな服で入れるわけない、と止める前に、桃城山のタヌキがざあっと自動扉を開けて店に入って行ってしまった。