4.
「わざわざ自宅まで来ていただき申し訳ありませんでした、あまり外出をしない身ですので」
目の前に現れた紺野溝近の美貌ぶりに、鈴城美鳥は腰を抜かしかけた。すこしばかり失禁したかもしれない。
見上げるほどの長身の身体。
がっしりと肩幅はあり、綺麗な逆三角形の胸。
彫の深い、目鼻立ちのくっきりとした顔に、艶やかな髪をほおの位置で切りそろえている。
濃く、コロンの香りが漂っていた。
ダブルのソフトスーツに金のアクセサリーも派手ながらも、気品がある。こんな美男子、バブルの真っ盛りでも見たことはない。
仕事だ、と思おうとしても、胸が高鳴る。こんなに胸がときめくのは何年、十何年ぶりだろう。
この美貌の貴公子が紺良帝国の跡取り?
悪名高き紺野溝近?
独身だったはずだけど、と、女の計算が頭の片隅で始まる。
「ええと……、そのう、紺野溝近さん、でしょうか?」
「生まれた時からその名前ですね、まあ、時々、偽名を使うこともありますが」紺野溝近はくっきりとした二重の瞳を細めて笑った。ぞくぞくと低く甘い声である。子宮に響く声、と言えば、女性ならピンとくるだろう。
「たとえばどんな?」
「山田太郎とか、クラーク=ケントとか」
「まあ」
美鳥が声を立ててことさら華やかに笑うと、紺野溝近はほおにえくぼを見せ、美鳥にソファーを勧めてから自分も着席した。堂々たる仕草である。
さすが超一流の男はマナーも一流。そこらの安物の男とは別格だ。
自分の、中古の紺スーツ姿が恥ずかしくなる。
渋谷区松濤の紺野邸である。ビルのような建物――さすがに紺良会長の家だけあって自宅も諸々のビジネスにも使われているようである、の一室。紺良宇大の事務局に問い合わせ、紺野溝近へのインタビューをダメもとで申しいれたところ、あっさりと自宅に招待されたのだ。
オフィスビルの応接室のようでいて、家具はイタリアものの豪奢なものだ。空調もほどよく効いているし、運ばれてきた冷抹茶も喉に旨みが広がる。
紺野溝近は背後に立つ男を指し、同席させるが気にしないでほしいと言った。引き締まった長身に黒いスーツを着、シャープなスポーツサングラスをかけた男だ。
みるからにボディガードだろう。
「いえ、こちらこそ、名も知らぬライターの、一方的な押しかけ訪問に、お会いしていただけるなんて考えてもみませんでしたから。紺良帝国の跡取りでしたら当然の御用心、そうしていただいた方が安心です」
「あ、いえ、そんな事情ではありません――女性と会うのにそんな野暮はしませんよ、彼は私の目なんです。
目が見えないもので」
「え……」
思わず美鳥は声を失った。
観察眼の鋭い美鳥ではあるが、それでも紺野溝近の動作や表情は盲人のものとは見えなかった。
それに紺良帝国の跡取りとして、盲人であると言うのはどうなのだろうか。大丈夫なのだろうか。
こんないい男なのにもったいない。
なにか助けてやりたいと、母性本能も刺激される。
「まあ、薄ぼんやりとは形は見えますし、家の中なら全て把握していますから。
それにしても」紺野溝近はソファーに深くもたれると、くっと喉の奥で笑った。「名も知らぬライターだなんてご謙遜を。あの鈴城美鳥女史がなにをおっしゃるのやら。テレビじゃ世迷い事を言う老人たちをばさばさ切り捨てて、爽快でしたよ」
「え……」
美鳥は声を失った。体の奥底から熱くなる。紺野溝近は見えないはずの眼をこちらに向けて、細めて笑った。どうしよう。嬉しい。掛け値なく嬉しくて意識が舞い上がる。
女性ホルモンがバンバン生成されていそうだ。生理が早まりそうである。
「いえ、そんな……過去の話です。
お恥ずかしい。世間知らずの小娘がと嘲笑っていたのじゃないですか」
「本当に面白かったですよ。
もうテレビにはお出にならないのですか」
「時代が変わってしまいましたから。
私みたいなのより、スポンサーに媚を売れて、邪魔にならず、安上がりなコの方が重宝されるんです」
「つまらない時代ですね。
つまらない国になった、そう思いませんか」
「ええ、本当に」思わず身を乗り出してしまう。
打てば響く、いい男だ。
最上級の男。
知識も教養もセンスもルックスも、なにをとっても最高だ。
なぜ、自分はもっと若く輝いていたころにこの男に、こういった男に出会えなかったのだろう。地団駄踏みたいほど、悔しい。この男はどんな女性が好みだろうか。アイドル系と言うことはないだろう。目が見えない以上、外見にもこだわるとは思えない。その身分にふさわしい、しとやかな日本女性、大和撫子、名家の深窓の令嬢といったところだろうか。もしくは刺激的で頭のいい女……。
それとも。
もしかしたら、今まで美鳥が独身だったのはこの男と出会うためだったかも、と妄想が疼きだす。
「それで今度はターゲットを知の巨匠に向けたのですか。長谷部時宗さまが出版された本の書評を書かれる件で、私にお話があるのでしたよね」
「ええ。でも、まさかその話でインタビューを受けていただけるとは思っていませんでしたけど」
普通に考えれば何の話だ、何も関係ないとしらばっくれるはずだ。
そのつもりでインタビューを申し込んで、反応を見るつもりだったのに、いきなり紺野邸に招待されたのだ。
紺野溝近は喉仏を曝して笑った。
その男らしさに陶然と見惚れてしまう。
そうだ、この男は、昨今の草食系男子とは別種の生き物のように、男臭い。かといって男尊女卑の昭和の閉塞感もなければ、体育会系の不器用さもない。
あごをひいてにやりと笑う顔も、悪役っぽいが、どこか甘さもある。
「心当たりがある、だがやましいところはない、それに情報の入手経路に興味がある……それでお分かりいただけますか」
美鳥はうなずいた。うなずいただけでは伝わらないと気づき、あわてて「ええ」と言った。本当に紺野溝近は視線の配り方も、表情も、盲人とは見えないので、忘れてしまいそうになる。ということは、そう演じるためにこれだけの男が日々水面下で努力しているのだろう。感服する。
「つまり水戸部鉄士と面識があったのは事実と言うことですね、でもあの桃城大連続殺人事件には関与していない、それらは紺良宇大絡み、との理解でよろしいでしょうか」
「さすが鈴城女史、話が早い。
紺良宇大の建設計画や手続きの為、何度も現地に行き、地元の学生の声も聞きたいので、地元のクラブや遊び場にも出入りしていました。その時、水戸部君と知り合いました。彼は非常にまじめだし、きびきびした好青年でしたけど、長谷部ゼミでは居場所がなかったようですね、紺良宇大が開校したら転入したいと熱望していました。
だが、大学は開校できなかったんですよ」
「リーマンショックで、紺良グループですら資金調達が出来なかったのですよね」
「表向きはそうなっていますが、内情はすこしばかり違います。
その前に法規制を掛けられたんですよ、県の環境問題がらみで。その法規制の先頭に立ったのが椎県議会議員。
大幅な計画変更をしようにも、土地買収に反対運動を繰り広げたのが地元の大地主であった野瀬家です。
紺野宇大に回ってくるはずの助成金も、いつの間にか桃城大へ回されてしまいましたし。八方ふさがりになったところにリーマンショックがおこりました。さすがに仕切り直すため、開校延期をせざるを得なくなりました。
私は視力を失った時に、当たり前と思っていた未来がなくなるのも、人に裏切られるのも、手痛く体験しまして慣れているのですが、水戸部君は私なんかよりもずっと深く傷つき激しく憤っていました。
今から思えばもっと彼の気持ちを汲むべきでした。私があっさり諦めたことも、後から考えれば、彼を追いつめてしまったのだと思います」
「え……、では、では、水戸部鉄士の真の動機は」
「彼の純粋さと正義感に心が痛みます。彼は椎や野瀬の存在そのものが許せなくなったのでしょう。彼の気持ちを汲んでやれなかった、自分自身のふがいなさも身に染みました。
だが、これは人には言えない。
言えば、世間大衆から私が水戸部君を買収してやらせたと思われますから。
それじゃあ意味が違う、彼はあくまで彼自身の純粋な正義感で……」
そこまで饒舌に話していた紺野溝近はいきなり言葉を切った。
見えないはずの眼を、美鳥に向ける。
「長谷部時宗さまの本、お読みになって率直なところどう思われました」
美鳥に迷いが生じた。
平凡な市民でいたいなら、率直に言わない方が無難だ。
インタビューアーとしてはどうなのだろう。情報を引き出したいが、まだ紺野溝近の話もすべて信用するのは危険な段階。脳の後ろの冷静な部分では、まだ紺野溝近は危険な男である可能性も計算している。
だが、女としては紺野溝近の関心を得たい。
「裏に何かある、そう思いました」
ほう、と紺野溝近が感嘆した声を洩らす。
本心からのようだ。賭けに乗れたようである。
「長谷部時宗氏がこの時期、これだけの本を、しかも今さら日本語で出版されたのはあきらかに不自然、作為的です。わざと難解に、読みにくく書いているフシもあります。
明らかに事件そのものを収束させるために書いたと思いました。事実、ゼミの生徒たちもそう考えているようです」
「成程」紺野溝近は考え込む顔になって、親指でくちびるをこすった。
「それは……そう、私もあらすじをざっと聞いて同じ感想を持ちました。
まあ、私もこのまま終息してもらいたいのが本音ですので、そこには便乗するつもりでしたが。
それで、貴女はどういう書評書かれるおつもりですか」
「無難なヨイショ記事を書くよう、はじめから念押しされています。
それでもジャーナリストのはしくれとして調べられることは調べたかったのです。
本当に今日は、お付き合いいただきありがとうございました」
美鳥は立ちあがって一礼した。
この手の男にはまとわりついてはいけない、引き際が良すぎるくらい早めに引くのが、最も効果的なのだ。
「あ、待って下さい」と紺野溝近が呼びとめた。
来た。
ガッツポーズを取りたくなるが、意識して無表情を保つ。
「掲載するのはxx社の週刊xxでしたよね」
「はい」
「好きに書かれたらどうでしょうか。あそこは……たぶん、そうですね、手を回せると思います。
鈴城美鳥とあろうものがヨイショ記事だなんて、名がすたるじゃないですか」
「あら。
私に自由に書かせたらなにを書くか分かりませんよ、なにせ狂犬ですから、紺良帝国に噛みつくかもしれませんし」
「面白ければなんとでも。
この時代にはいささか飽き飽きしているのですよ、退屈で息が詰まる。
この閉塞感を吹き飛ばしてください」
紺野溝近は立ちあがると優雅にドアを開けて、美鳥をエスコートした。
付け焼刃ではない、本物の貴公子だ。
「ところで、私の名はどこで知りました、と聞いても答えてはいただけないのでしょうね」
「まあ、そんなところです。桃城山のタヌキからとでも言っておきます」
ぶっと紺野溝近は吹き出した。タ、タヌキ……とうわごとのように呟くと、長身をまるめてしゃがみ込み、全身を震わせている。
腹を抱えて、声を出して笑うのをようよう堪えているようである。
「若」と黒服の男が背後から手を貸して立たせているが、美貌を紅潮させ、ひーひー、喉の奥で笑っている。溝近は深呼吸をくり返し、息を整えた。
「す、すみません、なんだか信楽焼の狸の顔を思い出したら、無性に可笑しくなってしまいまして」
「はあ……」確かに。信楽焼の狸のあのきょとんとしてすっとぼけた顔と、黒髪チビが似てなくもない。とっさにタヌキと言ってしまったが、まさかそこまで伝わるものなのか。
もし伝わったのであれば、以心伝心、赤い糸で結ばれた運命の相手かもしれない。
「失礼しました」と溝近は澄ました顔に戻ると「よい記事ができた暁にはお食事でも。
楽しみにしていますよ」
にやりと癖のある笑みを見せた。