2.
桃城大は田舎にある。
延々と続く山道を走るバスに乗りながら、美鳥は身にしみて実感した。
身にしみて、というより、懐の圧迫ぐあいに実感した、というのが正確だろう。
はっきり言って、交通費だけでバカにならない――とうてい電車には乗れないので、ネットで情報を調べまくり、格安のバスチケットを使用した。それでも何度か行く必要はあるだろうから費用捻出を考えるだけで頭痛がする。
極力回数は減らしたいが、まがりなりにも一世を風靡したコラムニストの、これからの人生を賭けた大勝負だ。
慎重に、神経を張り巡らし、絶対に悪事を暴いてみせる。
正面切って取材を申し込んでも警戒されて断られる可能性が高いと判断して、まずは飛び込みで長谷部時宗に押しかけることにした。
幸いにも著書には事細かにゼミや桃城大の事情、自分自身のバックグラウンドについて記載してある。いささか詳細すぎるほど――なにか大掛かりな嘘をつくときに他のところは細部にまでわたって緻密に情報提供するという、古典的な手法の匂いがぷんぷんする。だが情報を引き出すために読む本としては、正確で詳細な記述は重宝する。不本意ではあるが、『21歳』を図らずも読みこむことになってしまった。
よく書けている、読みにくさは別として――それが本音としての感想である。
もしまったく著者名を知らずに読んだら、これだけの調査、執筆をする情熱に感嘆したはずだ。若い、情熱的で正義感の強い青年を、著者としてイメージするだろう。
もしかしたらゴーストライターがいるかもしれない。
長谷部時宗が他に日本語で出版したのは四十年近く前、まだ学生時代の話である。その時は初々しい純文学の小説だった。比べようにも文体が似ているとも似ていないとも言い難い。
やはりすべてがちぐはぐな印象である。
絶対、これは何かがあるはずだ。
ゼミは毎週土曜日の夕方と記述されている。それまでの時間を使用して、事件について可能な限りの情報を集めて分析してある。
桃城大連続殺人事件についてはその猟奇性から大々的に報道もなされているし、一か月前の事件なので、資料を集めるのは容易であった。
世間の目を集めた一番の理由は、容疑者水戸部鉄士の動機が不明瞭だからだ。
写真で見る顔は理知的でアクのない笑顔を浮かべ、いかにもいい家庭で育ち、そつなく社会に溶け込んでいる印象だ。無難に出世し、波風の立たぬ家庭を持ち、恵まれた老後を過ごしそうな人物像。昨今の無差別事件の容疑者、加害者のように、社会に鬱憤があるわけでもなければ、殺害したゼミ生たちに強い恨みを持っていたわけでもない。ましてや恋人とは相思相愛、互いの家族にも紹介済みで大学卒業して数年後には結婚を、と誰もが考えていたようだ。
快楽殺人犯と決めつけるには、あまりにギャップのある顔立ちと環境。友人知人口をそろえて、そんな人物とは今でも思えないと言う。
マスコミでは、ゲーム感覚、現代社会が悪い、ゆとり教育の弊害、核家族化の影響と分析をしていたが、どれもこれもしっくりこない。
それに対して長谷部時宗は、水戸部はごく普通の青年であり、ただ人よりはやや自意識と責任感が強い一方で多感であったが故、古今東西、誰もが陥る可能性がある闇に落ちてしまったと記述している。
――ゲーム感覚、社会ガ悪トハ甚ダ愚鈍ナ考察、人類史上何時如何ナル時代ニ於ヒテ人心全テ平安ナル時ガ在ッタカ、小生浅学寡聞ノ身故、見聞至ラズ、又、ゲーム感覚等ト言フ甚ダ曖昧ナ語ニ頼リ、万事得心シタ風ニ欺ク報道諸君モ笑止千万、ゲーム感覚トハ何ヲ以テ言フ、若、其レガ現実感ガ無ヒト言フ事ヲ指示スナラバ、人類史上全テノ反体制運動、民衆運動、独立運動、革命、テロリズムハ其ノ時代ニ於ヒテ現実否定デ在ル。水戸部鉄士君ノ行為ヲ是トスルノデハ無ヒ、唯唯、才智長ケタ有望ナ青年ヲ導ク事ニ損ジタ小生ノ未熟サ其ノ罪科大ナリテ……。
……とまったく読む気のなくなる文章だが、読み進めていくと、水戸部鉄士はどの時代にもいた将来有望な青年で、非は彼を指導しきれなかった自分にある、とすべて自分の責任としているのだ。
一方で被害者の生徒たちは、やや奇抜な外見でエキセントリックな気質の少年少女だが、根は純朴で才能あり、努力家でもあった。客観性に無頓着なため、ともすれば社会からはみ出しがちになりそうなかれらの才能を生かしながら導くのは教育者としての本懐であったが、その時に普通に優秀であった水戸部のことまで目が行き届いていなかった、そのことが自意識と感受性の強い少年を追いつめたのではないか、としている。
素直に読むならば、水戸部にも被害者にも非はなく、すべてが自分の指導の至らなさとしている長谷部時宗は大人物、指導者の鏡であろう。被害者遺族、加害者遺族がほっとして救われたと言うのも分からなくもない。
だが、あの偏屈な老人がこんな素直なはずがない、と美鳥はわだかまる。
絶対になにか裏がある。
社会は、世の中は、あの老人の昔の狼藉を忘れ、騙されているのだ。
それを記憶に留め、暴き、世間に曝さしめるのもジャーナリストの使命。
桃城大前でバスを降り、本に記載されている通りに長谷部時宗のゼミが行われる分校へ向かう。廃校となった小学校をそのまま使用していると言う。車道から延々と舗装されていない道を上る。
運動不足の、四十路手前の身には息が切れる。
それでも雑草の生い茂った、黒土の荒れ地に建つボロボロの木造の校舎の前に立った時には、これが事件の現場だと身震いがした。
本の通りに二階の教室へ向かう。
ゼミのはじまる三十分前だ――確実に教授も生徒も身柄を押さえられるだろう。
脳がピリピリと緊張する中、運命の瞬間と気負って引き戸を開けると、教室半分を使用して作ったゼミ室には誰も居なかった。
(ま、まあ、これから来るのよね……)
美鳥が学生のときだって、こんな集合だったと思う。もっと真面目に勉強しておけばよかったと、後々には思ったけれど。
二度の殺人事件の現場となった場所である。
中央に長机があり、周囲にぐるりとパイプ椅子が配置されている。壁に沿ってぎっしりと本棚や書き物、レポートがつまった箱が置かれている。
窓側に、教授用らしい机が設置されている。
デジカメを構えてシャッターを幾度か切り、奥の、長谷部時宗の私室と言う部屋のドアをノックした。
返事はない。
不用心にも施錠されていないようで、あっさりと開いた。
こざっぱりとした部屋である。
シンプルな木製家具と、簡易キッチンのある部屋だ。ベッドメイクされたベッドに、カジュアルなジャケットがハンガーに掛けられている。
机の上には執筆中らしい手書き原稿――英文である。
「何してるのっ」
鋭い声に、美鳥は振り返った。
学生らしき少年ふたりが教室に入って来ていた。
長身の童顔の少年に、チビの黒髪の少年だ。ふたりとも本を山ほど抱えている。
「キミたちは長谷部時宗先生の生徒さん?」
先手を取って美鳥は堂々と言った。
このへんは年の功。
ひるんだり、謝ったりした方がやりにくくなるのだ。
「そうだけど」長身の少年が本を机に置きながら舌っ足らずな声で答えた。すらりとした手足に、甘ったれた子どもっぽい小顔の少年である。
「今日はこれから長谷部先生のゼミがあるんだよね? 先生にお会いしたいんだけど」
「ないよ、休講だもん、教授、忙しいからしょっちゅう休講なんだ」
「え……?」休講? せっかくここまで来たのに休講? 目眩がしそうである。あのクソじじぃ、勝手にサボるなってんだ。授業料返せ――って生徒ではないけれど。
「ねえねえ、おばさん、誰?」黒髪のチビが言った。黒ぶち眼鏡の、どこにでもいそうな少年だが、こまっしゃくれたと言うか、どうにも油断できない目つきをしている。
「おねーさんはフリーライター、長谷部先生の著書の書評を書くので先生にお会いしたかったの」
「むーぅ、なんか怪しいなあ、なんでアポもとらずに勝手に入ってきてんの、どこに載せる記事?」
美鳥が雑誌名を答えると、それでも信用ならないと言うように、じーっと美鳥を凝視している。黒目がちの、かなり色の濃い瞳だ。
ふつうの大学生としては、どこか、なにか、変わっている。なにが変わっているのか、多種多様な人物と接触してきた美鳥にも、とっさに分からない。犯罪者風ではない。頭の回転もよさそう。身なりはごく普通の、ありきたりな安い服に安そうなナイロンのデイパックで、一見、どこにでもいそうな少年だが、なにかがひっかかる。
さすが長谷部時宗教授の教え子だけあって、一筋縄ではいかないようだ。
美鳥はパイプ椅子をひきだして、勝手に座った。
長谷部時宗の『21歳』を取り出す。
「キミたちはこの本読んだ?」
「はいはーい、読んだァ」黒髪チビは片手を上げて勢いよく言ったが、長身の少年は気まずそうな顔になった。
「キミは読んでないの?」
「だって文字ばっかで読みにくいんだもん。教授、なんであんなに読みにくい本書いたのかなあ。
いつもはアレだけ、文章は簡潔に、分かりやすく書け、読まれない文章には意味がないんだ、ってくどくど言うのに」
「先生がふだん書く文章ってどんなの」美鳥はほおづえをついて、何気ない口調で言った。体に力を入れてはいけない。神経を全身にはりめぐらせる。視界の片隅で、黒髪チビがじっと美鳥を凝視していたが、気づかぬふりをする。
「えっとねえ」
長身の少年ががさごそととりだしたのは、今時珍しい手書きのレポートだ。踊ったような丸文字で書かれたレポートに、しっかりと朱書きで添削されている。達筆だが楷書の、読みやすい文字だ。
コメントも確かに簡潔で、分かりやすい。だが箇条書きで、今一つこれだけでは文章の癖までは何とも言えない。
「長谷部先生ってどんな方?
すごい立派な経歴の持ち主なのに、この本を読む感じだと、今どき珍しいくらい生徒思いの先生に思えるんだけど」
「うん、そんな感じ」
長身の少年がにこにこと答えた。警戒心なく答えてくれるのはいいが、どうにも底が浅いと言うか、おつむの出来がよくないのか、あまり得るところはなさそうである。
「おばさん、なに調べてるの。教授のこと? だけじゃなさそうだね、事件のこと――だったりして」黒髪チビがいきなり言った。
漆黒の瞳でじいっと、やはり美鳥を凝視している。
「えええっ」と長身の少年がびっくりしたように声を上げた。露骨に顔を歪め、「なんで今さら……、やめてよ、もうマスコミは嫌だよ、酷いよ、勝手なことばっかり言ってさ」
「そんなに酷かったんだ」
「そうだよ、酷いんだよ、みんな友だちだったんだ。みんな傷ついてる。なのに、よく知りもしないのに、勝手に色んなこと言って。だから教授は」
「オウジュ」黒髪チビが遮った。静かな声だが、不思議と響く。
長身の少年ははっとなって、両手で口を押さえた。全身をこわばらせ、ぜったいにもう何も言わないオーラを、全身から発した。
「だから長谷部先生はこの本を出版した、――もうこれ以上、マスコミが勝手に発言できないように、ってこと?」
黒髪チビは長身の少年を背に、机を挟んで美鳥に向き合った。体をかがめて、腕を机に乗せる。
漆黒の瞳が美鳥を凝視した。
意識がすいこまれそうな瞳だ。
「コンノミゾチカって知っている?」
言って、黒髪チビはにいっと笑った。