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18.

 ぷぷぷっと藤木海が笑った。手を口元にあて、意味ありげにまなじりを下げた、いつもの邪悪な笑みである。


「桜樹も自立してないもんねー。チョー過保護にされているし」

「過保護じゃないよ。オレ、家から捨てられたんじゃない。

 当面4年間の生活費を渡して、一切連絡するなって」

「当面4年間の生活費? おぼっちゃまなんだ」


 思わず美鳥は口を挟んだ。ふつう、無一文で追い出されるか、生活費は自分で稼げと言われる。4年間大学生の生活費というなら数百万円になるし、それをポンと渡してくれるならよほど裕福な家のはずだ。

 だが桜樹はむっとしたように美鳥を睨みつけた。


「違うったら。

 だってこっちから連絡できないようにしててさ、藤木くん、知ってるくせに」

「でもさー、桜樹がお漏らししたってったら、兄さんたちがすぐにパンツ1か月分持ってかけつけてくれるじゃない。いいよなァ、僕もあんなお兄さんが欲しいなァ」

「お漏らし? パンツ? 大学生が?」


 またまた話を作って、大げさなんだから、とタヌキの出鱈目発言かとも思ったが、志摩津桜樹は居心地悪そうにもじもじとしているし、ゼミの他の生徒やあからさまに長谷部時宗も聞こえないふりをしている。

 本当のようである。


 なんなんだ、このガキは、と美鳥がドン引きしていると、柊がカンカンカンとマーカーの後ろでホワイトボードを叩いた。

「藤木くん、真面目に」とでかでかと書かれている。


 藤木海は肩をすくめると、体を前に乗り出した。


「さっきの。

 平安時代と現代で切り分けるべきか、ってヤツ。

 僕はさほど区切りは必要じゃないと思う。

 平安時代ならば貴族の生活で言うならば、天皇家、藤原家をのぞけば、通い婚の女系相続、入り婿が中心、女官たちもきちんと給与をもらって自活しようとすれば自活できたし、不倫したり、恋愛したり、それも自由だった。武家社会の男系社会と違ってまだ女性の地位も財産も保障されてた時代だもの。

 むしろ精神的な自立ってことでしょ、稲岡が言いたいのは」

「うん、そう。藤木くん、ありがとう」


 稲岡碧がにこっと礼を言うと、藤木海は露骨にでれでれと照れて頭を掻いた。


 うーん、と呻って、榛名は両手を頭の後ろで組んだ。


「どうもピンとこないなあ。

 いや、稲岡の主旨は分かるよ。でも自立ってのが。

とっさに源氏物語で浮かぶなら六条御息所なんだよなあ。年上で、しっかりして、美人でプライドも高い、でしょ。けど実際には生き霊になって葵の上に憑くんだから自立とは程遠いよなあ。

 すると女の自立ってのは何を指しているのかなって。経済的なことじゃないんだよなァ」

「女って限定もいらないと僕は思うけど」

「そうか? 男は自立しているじゃないか。

 古今東西いつだって」

「えーっ、じゃあ、桜樹が自立しているっての?」


 タヌキが素っ頓狂な声を上げたので、美鳥は資料をまるめてタヌキの後頭部から思いっきりはたいた。

 小気味のよい音が響いたが、音だけでさほど痛くはないはずだ。だが、タヌキは痛い痛いと大げさに騒いで頭を抱えている。


「痛ぁ……、なにすんの。美鳥ちゃん、酷いじゃなぁい」

「殴られて当然でしょっ。人が人生について真剣に語っているのに、アンタ、さっきからなに茶化してばかりいるの。

 それとそっちのメガネっ。

 いつ男が自立してたっての?

 ひとりじゃ洗濯物もしまえない。靴下がどこにあるかもわからない。食べた食器も片づけないで、子どもの教育もご近所つきあいも親戚づきあいも自分の親の介護までぜんぶヨメにおしつけて、仕事仕事というけれど、定年退職後には友人もなく趣味もなく、妻につきまとってウザがられるだけ。あげくのはてに自分がひとり遺されるのは嫌、介護してだの看取ってだの、何様のつもりよ。

 女に立ててもらわなきゃ自尊心だって維持できないくらいか弱いから、偉そうに振る舞って、なけなしのプライドを維持してるんでしょうが。そんな軟弱で役立たずな生き物のどこが自立してるっての?

 そもそもありとあらゆる生物で、繁殖能力のあるメスの方が機能的に優れているの。人間はね、役立たずのオスを有効利用するために、おだてて働かせているだけなのよ、勘違いするんじゃないっ」


 呆気にとられた複数の視線が美鳥に突き刺さる。

 ああ、またやってしまったと思うが、ここでひいたらおしまいだ。虚勢で胸を張る。


「ああ、そっかあ」とのんびりした声を発したのは志摩津桜樹だった。「つまり誰かを稼がせて経済的に依存してられるのは、こっちが優れているからなんだ。

 だからオレたちも自立しているってことじゃない。

ね、稲岡」

「え、ええと、うーん、そうかなあ、なんかビミョーに違う気がするんだけど……。んー、あたしちょっと良くわらかない。

 まどかちゃん、まとめられる?」


 稲岡碧が困った顔を向けると、三つ編みの少女も悩ましげに眉根を寄せて首をひねっている。

 タヌキがぐしゃぐしゃと後頭部をさすりながら、顔を上げた。


「ダメ、ダメ、稲岡がこんなアラフォーの負け犬の話なんか聞いちゃダメだよ。

 ぜんぜんトシも可愛さも違うんだから」

「アンタ、もう一回殴られたい?

 だいたい、いつもいつも他人をおちょくって、自分は何なのよっ」


 美鳥が丸めた資料をふりかざすと、うわあっとタヌキが叫んで、両手をこちらに向けてばたばたと振る。いつもながら真剣味は感じられない。


 いきなり華やかな笑い声が響いた。

 稲岡碧が腹をかかえて、けたけたと笑っている。周りは呆気にとられているが、ひとり、なにがツボにはいったのか、数分間笑いつづけ、体を起こすと息を整えながら涙をぬぐった。

 やけにすっきりした表情で、んんっと両手をくんでのばす。


「――うん、分かった。

 わたし、鈴城さんみたいになりたい」

「え?」


 からかっているのかと思ったが、稲岡碧はほおを上気させ、大きな瞳でうっとりと美鳥を見つめている。

 同性ながら心の奥底がくすぐられる、保護欲をそそる瞳だ。素直というか、従順そうというか。

 不思議な事に、満更でもない自分がいる。


「えー、稲岡、僕の言うこと聞いてないの。だからね、こんな負け犬になっちゃだめだって」

「藤木くん、いい加減にしなさい」タヌキが勢い込んで言うのを、長谷部時宗がたしなめた。「稲岡くん、具体的にどういうところを見習いたいか、言えるかな?」

「えー、なんていうのかな。

 ちゃんと自分の考えを持っているところ。芯があるっていうか、言う時にはちゃんと言って、強く出れるところ。引かないところ。

 うん、そう、源氏物語を読んでいて思ったの。前半は紫の上は理想の女性じゃない。でも女三宮が降嫁(ふよめ)してきてから、言いたいことも言わないし、出家だってしたかったのに反対されて寝込んでしまってそのまま亡くなったでしょう。

 その時、自分の意見を通せばよかったんだと思う」


 あ、と美鳥の脳裏に閃いた。

 幼馴染の恋人。水戸部鉄士の違和感に気づかないはずはない。でも、見て見ぬふりをした。恋人を信じていたというのもあるだろうが、すべてを任せて寄りかかっていたからだろう。

 もし稲岡碧がその時に水戸部を問い詰めていたら? つっこんで話をしていたら? こんなことにはならなかったのだ。


 静まり返ったゼミ室に、チャイムが鳴った。長谷部時宗は朱を入れたレポートを稲岡碧に手渡した。


「やや内容が粗いから再提出だ。今日の内容を反映させなさい。入院中で不自由なところは、柊くんが助けてやってほしい。

 では気をつけて。お大事に。くれぐれも無理はしないように」

「はい。ありがとうございます」


 稲岡碧はぶあついレポートを大事そうに胸に抱き、眼を細めて嬉しそうに笑う。レポートの再提出と言われて、喜ぶ子も珍しい。

 素直な子なんだろう。自分はどうだったかと思わず考え込んでしまう。再提出なんて言われたら、プライドを傷つけられて、攻撃に出ていただろう。そもそも再提出などと言われないように、予防線を張っていた。いま、客観的に見てみると、素直に再提出をした方が当人の力になるはずだったのに。

 正直、美鳥の方が稲岡碧を見習いたい。


 がたがたと生徒たちが荷物をまとめているのを見ていると、鈴城くん、と長谷部時宗が呼んだ。

 思わず体が強張る。


「せっかくここまで来たのだからだから、時間があるなら大学を見学していったらどうだ? 志摩津くんが時間があると言うから案内させるが――ああ、不安だから守屋もついていってくれ」

「じゃあ、僕も」とタヌキがデイパックをしょって、いそいそと立ち上がる。

「藤木くんは仕事があるだろう。給料分はちゃんと働きなさい。ほら、整理する蔵書がたまっているし、あと渡したいリストもある。残りなさい」

「えーっ」


 タヌキは絶叫すると、ゼミ仲間に助けを求めるような目くばせしているが、みな気づかぬふりをして、タヌキの傍らを素通りしていく。


「仕事って?」

「ああ、彼は図書館のアルバイトですから。でも勉強熱心なので教授が特別にゼミに参加させているんですよ。時々、仕事をサボる癖があるので、教授がそこも指導しているんです。気にしないでください。

 大学の本校まで、ちょっと離れているので車を出しましょう」


 守屋がにこやかに言って、車の鍵をとりあげた。

 アルバイト?

 ただの大学のアルバイトだったんだ……。

 やはり年を取ったか。眼が狂ったようだ。

 がくりと脱力する。


「あのう、わたしたちも一緒に行っていいですか。

 なんかもっとお話ししたくて」


 ほおを赤らめて、おずおずと稲岡碧が申し出た。傍らには三つ編み少女もいる。

 ちらりと守屋を見ると、どちらでもまかせるという顔をした。


「わたしは構わないけど」

「やったーっ。なんか嬉しい。

 名前もおなじミドリだなあってさっきから思っていて。なんだか偶然とは思えなくて。

 あ、うちの学食、けっこースイーツ系がいけるんだよ。ミドリさん食べてって」


 しゃべりながらするりと碧は細い腕を、美鳥に絡ませてきた。視線を合わせてにこりと笑う。美鳥にはそのケはないのだが、思わずどきどきしてしまう。

 ホント、この子は甘えるのが上手い。昔はこういう女が嫌いだった。でも年が離れているせいか、稲岡碧ならば素直に認められる。

 それに同性から慕われるってのは、人生が認められているようで、悪い気がしない。

 この子はいずれ立ち直ったら熱が冷めて、いい男を見つけて、しぜんと疎遠になるかもしれないけど、この子ならばそれはそれで許せてしまいそうだ。

 むしろこの子には幸せになってもらいたいとごく自然に考えている自分がいる。いままでなら、同性の、とくに若くてかわいい子の幸せなんてぜったいに許せなかったのに。


「じゃあ、オレもいく。オレ、実はファンで、ミッドナイト・クレイジーでずばずばおっさんたちを切り捨てていくの。テレビが部屋に無かったから、こっそりラジカセで夜聞いていたんだ。

 なーんかさっきの迫力、ぜんぜん昔と変わってないなあって、ア、本もぜんぶ持ってるんだ。ちょっと美鳥さんに教えてもらいたいことがあるんだけど、後でいーい?」


 榛名に古い話をいきなりされてむせ返るが、稲岡たちはなになにと色めき立っている。

 わいわいと集団になって、校舎から出ようとして、はたと気づいた。


「ゴメン、忘れ物。ちょっとまってて」

「え、なんですか? 取ってきますよ」守屋がビックリした顔をする。

「大丈夫、すぐだから」


 守屋が動こうとするのを止めて、階段を駆け上った。

 教室では、夕陽を背景に、長谷部時宗と藤木海がなにやらリストを見て話していた。ふたりとも不思議そうに戻ってきた美鳥を見る。


「あ……、その、ありがとうございました」


 思い切って頭を下げた。何に対しての礼だかは言わないが、長谷部時宗は目を細めた。


「むしろこちらが借りができたようだな」

「相殺でしょう?」


 長谷部時宗は夕陽を背に、木製の椅子に深くもたれたまま微笑したが、返事はなかった。


「長谷部教授、ひとつ質問させてください。

 時代の変化についてどうお考えですか」

「一概に答えるには難しい質問だな。

 だが森羅万象ありとあらゆるものは変化する。変化を止めると言うことは、成長を否定することであり、死を意味するとわたしは考える。

 そして良い変化があれば、悪い変化もあるし、その良し悪しの評価も流動的であり、時代によって変わる。

 表現者としてのスタンスについての問いならば、こう答える――どのような時代になろうとも、自分の居る場所は見失わないようにしていきたい。

 人としての生き方ならば、流れに流されず、されど流れに逆らわず、ただし人知れず時代をねじ曲げる」


 ハ……、やはり、このクソジジイ、一筋縄じゃいかないじゃん、と美鳥が絶句すると、時宗は彫の深い顔でにやりと笑った。


「わたしのゼミは月に一、二回くらいだが、来てみないか? 大学の仕事で文章を書くものもあるから回せるだろう。交通費と聴講料で相殺になるくらいの金額にしかならないだろうが」


 思わず時宗を凝視した。

 仕事をもらえる? しかも長谷部時宗のゼミも受けさせてもらえるというなら、直属のアシスタントのようなものじゃないか。あんなに出版界に顔のきく長谷部時宗のアシスタント? いや、それ以前に、時宗自身から学ぶことの方が遥かに大きい――。


「宜しくお願いします」


 美鳥は素直に頭を下げた。前だったら、斜に構えたり、下心があるんじゃないかと疑ったりして、いつもチャンスを逃していた。すこしばかり碧をみならってみようと思う。




 鈴城美鳥たちが乗ったニ台の車のエンジン音が遠ざかると、ふうっと藤木海は長い息を吐いて教室の扉をきっちり閉めた。

 黒ぶちの伊達眼鏡を外して、艶やかな黒髪をざっとかきあげる。


「やーれやれ。美鳥ちゃん、けっこう鋭いんだもん。ヒヤヒヤしちゃう」


 長谷部時宗はトントンと人さし指で机を叩いた。


 藤木海こと津久見夏惟――津久見グループの御曹司であり、長谷部家にとっては数千年にわたり仕えてきた主君筋の末裔だ。いまは世間から身を隠し、お気楽なバイト生活を満喫している。

 大切な主だからこそ、道を踏み外した時には教え諭すのも時宗の役割だ。


「年上の女性に向かって、そういう態度はいかがなものですか」

「えー、でも美鳥ちゃん、独身だし、精神年齢は乙女だし」


 夏惟はぷっとむくれて、あらぬ方を見て言った。それでも、殊勝に立ったままでいるのは、それなりに後ろめたさは感じているようだ。


「そもそも、ああいうやり方で女性の人生を弄ぶのは感心しませんね」

「でもぉ、美鳥ちゃん、溝近さんとお似合いだと思ってぇ、溝近さんもそろそろお年頃だしぃ。美鳥ちゃん野心家だから紺良帝国次期女帝でもいいじゃん」


 時宗がこれ見よがしに深々とため息を吐くと、夏惟も観念したかのように「ゴメンナサイ」と呟いた。


「紺野溝近と飲みましたが、少々、イメージが違っていましたね。

 彼にも同情すべき点は多々ある」

「ないっ」


 夏惟が瞬間的に叫んだ。

 ほおを紅潮させ、ぎらぎらと瞳を燃え上がらせている。


「アイツは許さない。

 アイツだけはぜったいに許せない。僕の大切な物をぜんぶ壊す。奪っていく。アイツが過去にしたことだけは、ぜったいに僕は許すことができない」


 古いガラス窓の外では、赤い燃えるような太陽が山の端に沈みかけている。時宗は立って、体ごと窓に向けた。

 赤は嫌な記憶を思い起こさせる。冷酷に時宗を見つめ続けた瞳。そして肌に絡みつく白い肉体。

 時宗を怒らせ、自らを憎悪させることにより支配しようとした実の弟。

 あの存在を思い出すだけで、自我が崩壊しそうな屈辱と、臓器を腐敗させ爛れさせるような自己嫌悪が、瞬時に蘇る。いまだに怒りと憎しみが体内の細胞を震わせる。

 若く未熟だったとはいえ、時宗はすべてから逃げ出すために日本から出た。家を捨て、肉親を捨て、過去を捨て、名前を捨て。

 そして捨てきることができずに、また日本へ戻った。

 どうにもならない後悔だけが、まだ燻り続けている。

 

 自分自身も発展途上のままなのだ。

 答えを探して生きる探究者のひとりにすぎない。

 けっしてありえないと知っている理想郷を追いもとめながら、一方で現実の清濁すべてをみとめ、受け入れながら生きている流浪人。


 だからこそ、若い者たちを手助けする。

 彼らが道を外さぬように諌め、時には踏み出す後押しし、そしてすこしだけ良い未来を切り開いていけるように。更なる後進者へ想いを伝えていくことに希望を持って。


「みゅうがいないっ」


 悲鳴のような声に時宗は現実に戻った。


「誰も戻ってこない、みゅうも碓井も長谷部も。

 みんなみんないなくなった。

 アイツのせいだ。ぜんぶぜんぶあのカバのバカのせいなんだからっ」


 夏惟は肩を震わせ、くちびるを前歯で強く噛んでいた。

 漆黒の瞳がみるみるうちに潤み、涙が浮き出ると、宝石のように煌めきながらほおを流れおちた。


 時宗は夏惟の前にひざまずいた。

 片手を取って、指先にくちびるをおしつける。


「始末しましょうか」


 主君を試すわけではない。

 夏惟が本気で望むのなら、紺野溝近を自らの手で始末することもやぶさかではない。

 だが、誰よりも夏惟自身が紺野溝近の必要性を知っている。どれだけ相手を攻撃しても、直接当人には出さないのが、津久見夏惟と紺野溝近の不文律らしい――その分、周囲に被害は拡大し、このふたりの周辺どちら側でも、とにかく接触させないことが最善策と警戒態勢をとっている。


 夏惟は時宗の言葉にぶるりと体を震わせた。夕陽を浴び、赤く染まった顔でくちびるをかたく結んで、強く首を振る。


「違う、違うの、僕……、僕は……。

 教授、僕はただ…………」

 

 重心をくずして体がよろめくのを、時宗は受け止めた。肩によりかかってくる重みを強く抱きしめる。

この体温が、なによりも時宗に安らぎをもたらしてくれる。過去の忌まわしい記憶を溶かしてくれる。救われているのは時宗の方なのだ。


「嘘。いまのは嘘。

ほんとうは僕が……。僕が悪いんだ。ごめんなさい、ごめんなさい」


 夏惟は時宗のくびに腕をまわしてしがみつき、幼子のように泣きじゃくった。その髪を撫でながら、大丈夫、と囁き続ける。

 

 大丈夫。

 すべては過去のこと。

 もう悪夢は終わったのだ。

 坊や、もう、

 安心してお眠りなさい。


「大丈夫。あなたさえ揺るがなければ、いずれすべてが落ちつきます。

それに、慧斗はそんなにやわじゃないですよ」


 時宗の言葉に夏惟が体を強張らせた。

 体を離して、濡れた漆黒の瞳が用心深く光り、時宗の真意を探ろうとする。

 末の弟の顔を思い出し、時宗は含み笑いを洩らした。

 今はまだなにも言う時ではない。時が来ればおのずと現れるのだから。


「まだその時期が来ていない。

 それだけです」


 夏惟はしばらく考え込み、いきなぱっと身をひるがえした。


「僕も美鳥ちゃんたちとスイーツ食べてこよ、っと」


 表向きはけろりと立ち直ったようで、黒ぶち眼鏡をかけてまた茶目っ気たっぷりの顔に戻り、部屋から出て行こうとするのを、時宗はあわてて捕まえた。

 机の上に残されたままのリストと蔵書の山を突き出す。


「まだ藤木海としての仕事があるでしょう。

 返却本を図書館まで運びなさい。あと、このリストの書物の手配をすぐにとりかかってください」

「えーっ、明日やるぅ」

「ダメです。社会人はそんなに甘くありません。きちんと働いて、おカネを稼ぐのも大事な勉強なのですから。

 それと最近、志摩津くんに手伝わせているでしょう。自分の仕事は自分でやりなさい」

「だって桜樹ヒマだもん。

 桜樹の方が、僕より、社会勉強必要そうだしぃ。あそこまでダメダメってのも珍しいよねえ、僕、自分に安心しちゃったもん」

「夏惟さま」


 時宗が教室のドアの前に立ちふさがり、睨み下ろすと、夏惟はがっくりとうなだれた。

 恨めしげに時宗を睨みあげ、はあい、とふてくされたように小さく呟く。


「じゃあ、このリストと本を」


 時宗が本の山を抱えて渡そうと顔を上げた時には、夏惟は足音軽やかに逃げ出していた。

 慌てて教室から飛び出し、階段の上から怒鳴りつけるが、当然、もどってくる気配はない。


 長谷部時宗は手を腰にあて、深くため息をついた。


 津久見夏惟としても藤木海としても、まだまだたっぷり指導は必要そうである。武道の名門志摩津家のおちこぼれもいるし、桃城大連続殺人事件の被害者である稲岡碧が社会復帰できるようにするのも時宗の役目だし、そろそろ柊まどかも本来の姿に戻してやりたいし、榛名雄一にも彼の才覚が生きる道を探さなくてはいけないし、クセのあるアラフォーの生徒も拾ってしまったばかりだ。


 やれやれ。

 この社会はいつまで年寄りをこき使う気なのだか、まだまだ楽隠居には程遠い。惚けるわけにはいかないらしい。


 時宗は肩をすくめ、くっくと笑った。


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