17.
紫の上とは、誰もが知る源氏物語に登場する最上の女性である。幼女のころに光源氏に引き取られ、すべてが彼の好みになるように躾けられ、美貌、教養、作法、人柄すべてが完璧という、理想の女性だ。
美鳥はぶ厚いレポートをめくった。
稲岡碧は舌足らずな甘ったれた声で、レポートを読みあげていく。描かれている文字も、手書きで丸っこくて誤字だらけで読みにくい。中身も飛んでいたり、無理があったり、破たんしている個所も多い。
これが天下の長谷部時宗ゼミの生徒の文章かと思うと、全身の力が抜けそうになる。
が、一方で脳の片隅がびりびりと刺激されている。
――面白い。
レポートの中身ではない。
いま、この時期に、稲岡碧がこのテーマを選んだことが面白い。
女性の理想像のように扱われることの多い紫の上だが、晩年は華やかではない。
事実上の正妻ではあったとはいえ、きちんとした正妻は他に居るので立場は不安定である。また実子もなく、源氏が他の女に生ませた子を養育する。
そして無常を感じ、出家を望むが源氏に許可されないまま三十七歳で亡くなる。
若い。美鳥よりも若いうちに亡くなっている。いまとは寿命が違うかもしれないが、それでも若すぎる気がする。
稲岡碧は舌足らずな声で、完成度の低いレポートを読みあげていく。紫の上の人生は誰のものだったのか。理想と言われる女性は本当に幸せだったのか、と。
レポート自体は拙い出来なのに、奇妙に心に響いてくる。
幼馴染で恋人であった少年と、一緒に生きていくつもりだった少女。彼にずっと守られて生きていくつもりだったはず。だがその少年は殺人鬼で、彼女のことすら殺そうとした。
――生きたい。
つっかえながら読み続ける声から、悲鳴のような想いが聞こえてくる。
生きたい。どうにかして生きていきたい。生き方を探したい。
誰かの理想の姿であるより、自分の力で生きていきたい。
紫の上は誰かの理想の姿を生きていただけ、その虚しさを本当は当人は知っていたのじゃないか。
稲岡碧も――おそらく、ずっと幼馴染の少年に依存しきって生きてきた。そしてその呪縛からなんとかして逃れたいと、もがいているのが聞こえてくる。
たとえ美貌と才能と地位を誇る当代一のイケメンに愛されたって、自立しているほうが幸せなんじゃないか――と稲岡碧がしめくくると、桃城山のタヌキはウンウンと大げさに首をふって頷いた。
「そうだよねえ、本当にそうだよ。
稲岡の言う通り。ウン、賛成」
あまりに軽いコメントでずっこけそうになる、ってか、お前、絶対に稲岡碧に気があるだろ、とその丸めた背中を美鳥は睨みつけた。
「藤木、そりゃ、あまりにも乱暴な括りじゃないか」とメガネ男子が中指でメガネを持ち上げながら言った。手元の資料では榛名雄一と名がある。ちなみに桃城山のタヌキは藤木海という名だった。「まあ、概ね意図はわかるけど、時代も違うわけじゃない。平安時代と現代と、いまの稲岡の話を聞いているとごっちゃになっている気がするんだけど」
「うーん、そう? そうかなあ、そこは深く考えてないんだけど、志摩津くん、どう思う?」
稲岡碧は長身の少年に顔を向けた。名は志摩津桜樹とある。オツムのわりには立派な名だ。
桜樹はなにも考えていなかったようで、うーんと三十秒ほどだまりこくった。
「えと、えーと、よく分からないンだけど、女だから、男だからって関係なく、なんで自立しなきゃいけないの? 自立しなくたっていいじゃない。
誰かが生活の面倒見てくれるなら、それでいいじゃん。それがダメになったら死んじゃえばいいんだし。
なんで自立しなくちゃいけないのかなあ? そこまでして生きなきゃいけないのかなあ、そんなの面倒臭いじゃない」
ゼミ室がしんと凍りついた。
桃城山のタヌキが少年の足を蹴っ飛ばすが、当人は分かっていないようで、きょとんとしている。
どうしてこういう無神経な事を言うのか。
だから男ってのは、とギリギリして、思わず碧が口を挟もうとした時、稲岡碧はごくしぜんな動作で体を捩じり、長谷部時宗へ顔を向けた。
ぱちりとした瞳を時宗へ向け、可愛らしく小首をかしげる。
――うまい。
これだ。
これが自分には欠けていた、と思わず感嘆する。
これをとっさに美鳥にはできない。
助けを求めるよりも、自分で手を出してしまう。がむしゃらに自力で頑張ろうとしてしまう。そして助けを求める時には、時宗のような男ではなく、変な、クセのある、役に立たない男に助けを求めて男に振り回される。
自立していない女は自立してないなりに、優れているところもあるんじゃないか。ガキのくせにやるな、と舌を巻く。
離れたテーブルでほおづえをつきながら、生徒たちのやり取りを見ていた長谷部時宗は苦笑した。
「すこし話が散らばっているようだな、柊くん、板書をして整理してくれ。藤木くん、もうすこし真面目に。榛名くんの指摘は一理あるからそこをまず皆でまとめるように。
それと志摩津くんには稲岡くんが、自分のことばで答えなさい」
三つ編みの少女、柊まどかは友人の手を離すとすらりと立ちあがった。ホワイトボードの前に立ち、女子大生らしくない美しい文字で要点を箇条書きにする。
稲岡碧はその様子を眺めていたが、色のない乾いたくちびるを舐めると志摩津桜樹に顔を向けた。
「あのね、志摩津くん、そんなに簡単に死ねないんだ。
あたしも何度か死のうとして、病院の屋上に行ったり、夜中気づくとナイフ持っていたりして、でもできなかったの。
……ほら」
稲岡碧は左手首の包帯をほどいた。まだ赤く盛り上がった傷痕がいくつか走っている。
志摩津桜樹の顔がさっと強張った。ありありと動揺して、傷ついた顔をする。ようやく今回のテーマで稲岡碧がなにを言いたいのか分かったらしい。
素直にうなだれて、頭を下げる。
「ごめん」
「だから、やっぱり、自分の力で生きなきゃいけないんだよ」
稲岡碧は一音一音はっきりと言って、片手で包帯を巻き直そうとしたが、柊が板書を止めて器用に結び直している。彼女は自立といいながら、人の手助けを借りるのがものすごく上手い。
同性としては、良くも悪くも、看過できない。