16.
ゼミ開始の十分前。
力任せに古い引き戸をドアを思いっきり開けると、前回と違って、すでに生徒は着席していた。山奥の古い小学校をそのまま再利用した校舎の二階。教室を半分に区切った、長谷部時宗教授のゼミ室である。
ロの字に配置された机には、少女二人、少年三人が着席、すこしはなれて窓に向かった大きな机に長谷部時宗がいて、椅子ごと体を生徒たちに向けている。時宗の横には長い髪を首の後ろで括ったのっぺりとした顔の青年が立っていた。
計七組の視線が美鳥に突き刺さる。
「やあ」
第一声を発したのは長谷部時宗だった。すこしばかり眼を細めて、嬉しそうに美鳥を見る。
「よく来たね。見学していきなさい。
守屋、椅子を用意してあげてくれ。あと資料も」
青年はうなずくと、ゼミ室の端にたたんであったパイプ椅子を広げ、用意してあったぶ厚い紙の束を美鳥に手渡した。
美鳥は無言で会釈をして着席した。
「えー、教授、なんでえ。
だってその人……」
ほおを膨らませて文句を言ったのは、前回、ゼミ室で会った長身の、おつむの軽そうな少年である。その横には桃城山のタヌキがいる。美鳥のことは見て見ぬふりをしながらも、いつになく神妙な面持ちである。なんとはなしに、長谷部時宗にとっつかまったときの、紺野溝近の表情に似ていなくもない。
コイツか?
小悪魔の正体は? 美鳥を溝近のところへ行かせたそもそものきっかけは、コイツだった。美鳥を溝近とくっつけようともしたし、銀座のど真ん中で山羊さん郵便を歌いだしたのも、溝近とコイツの間を行ったり来たりしている、美鳥をおちょくっていたともいえる。
だがコイツは誰なんだ?
その正体を知りたくて、ここに乗り込んだ。長谷部時宗には事前に連絡を入れた。たった一言だが、「アポを入れてからくるように」と時宗がいった言葉に賭けてみた。
長谷部時宗が本当に、あの黒服の男が賛美するような男だったら、他愛のない一言でも必ず守るとの読みがあった――それはつまり、美鳥の認識の土台がすべて間違っていたということだし、あの黒服の男が正しかったということにもなる。
そして、ゼミを見学させてくれと依頼したらあっさりと承諾された。だから、それならばそれで、負けを認める。どうせ、こちとら失うものもない立派な負け犬なのだ。
長谷部時宗は今日も西部劇の俳優のようなコットンシャツにジーンズ姿で、長い足を組むと、ゼミ室をぐるりとみわたした。
「彼女は鈴城美鳥さん――現役のジャーナリストだ。独自の視点や、無駄のない文章力には力がある。プロのジャーナリストに接するのは、君たちにもいい刺激になるはずだ」
「でもぉ……」
長身の少年はふふくげにほおを膨らませている。その視線の先には少女がふたりいる。
ひとりは包帯だらけの、痩せこけ、青い顔をしたショートカットの女の子だ。もうひとりは今どき珍しい三つ編みの、つるりとしたおでこの少女だ。この子は傷だらけの少女を労わるように寄り添い、友人の震え続けている手を握っている。
ああ、この子か。
顔を見るのははじめてだが、この怪我の様子、事件の流れから、稲岡碧と名前が浮かぶ。
幼馴染で恋人であった水戸部鉄士が連続殺人鬼となり、彼に殺されかけた少女。
まだ包帯を生々しく撒いている状態で、ゼミに参加していることが驚きである。
生き延びたことが、こんなに残酷な少女もいないだろう。
将来を約束し、信頼しきっていた相手が連続殺人犯であったのもショックだろうし、その恋人に殺されかけた。そのことは世間に面白おかしく知れ渡っている。
好奇に曝された中で、彼女はこれからどうやって生きていくのだろう。名を変え、過去を消し、故郷を捨て、嘘に嘘を重ねて生きていくのだろうか。
だいたい事件からの日数、怪我の状況を見ても、まだ授業に出れるような状態ではなさそうだ。
しかも連続殺人の舞台となったこのゼミだ。よく顔を出せていると思う。
それとも。
これも長谷部時宗がなにか意図を持って、そうさせているのだろうか。
稲岡碧は青褪めた顔をきっと上げた。
痩せこけた顔のなかで、ひと際目立つ大きな眼で、ぐるりとゼミの生徒たちを見る。
二重の、ぱっちりとした瞳だ。
ほおがふっくらして、健康だった時にはかなり人目を引く美少女だったろう。
「じゃあ、今日の発表はわたしから――あまり、準備できてなくて、まどかちゃんにも手伝ってもらったんだけど――でも、ぜんぜんで……、ゴメンナサイ。
あ、えっと、タイトルはそこに書いてあるとおり、『紫の上の晩年にみる女の自立』……デス」
碧が舌ったらずな声で言うと、ゼミの男子どもは真剣な面持ちでうなずき、資料をめくった。
ひしひしと彼女を守るぞという騎士道精神が満ち溢れている。
桃城山のタヌキもいつになく生真面目な顔だ。
つまり男ってのは若くて可愛い女のコには、無条件で弱い、ってワケ。