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15.

 あの指輪にはやはり本当に力があったのだろうか。

 外してしまえばすべておしまい、というのは本当だったのか。


 半月ほどたっても、紺野溝近からの連絡も、フォローもなにも入らなかった。うすぼんやりと、二度と会わないだろうと感じている。

 会ってもすべてなかったことのように、無視されるだろう。

 なにかを決定的に外してしまった。


 殺到した仕事の依頼も、ぱたりと途絶えた。

 やはりなにかがこの時代とはずれてしまっていたようだ。


 残暑で蒸した部屋の万年床で美鳥は寝返りを打った。なんだかなにをするのもおっくうで、ここ数日はまともに食べてもいない。水道水を蛇口からがぶ飲みするくらいだ。

 考えるのも文字を読むのもおっくうで、ネットにすらアクセスしていない。

 薄っぺらい布団の上でごろごろとし、風のピクリとも流れない部屋でだらだらと汗を流し続けている。


 ドアをノックされた。

 警戒もせずに開けてしまったのは、空腹で脳の働きが鈍っていたからだ。

 だから立っている男が誰かもすぐには分からず、家を間違えたのだろう、外見からすると他の部屋の水商売の女の家に入り浸っているヒモじゃないか、とぼんやりと眺めていた。


 破れたジーンズによれよれのTシャツ、口もとには無精ひげを生やし、短い黒髪を逆立て、じゃらじゃらと鋲のついたアクセサリーを身につけている。

 筋肉質の引き締まった体に、癖のある切れ長の眼――いかにも女に貢がれてそうな男だった。


「うわ……、すげぇ姿、というかすげぇ部屋。アパートもすごいが、室内も女のひとりぐらしの部屋じゃねェな」


 その声で、男が誰だかようやく分かった。

 思考回路が鈍っているからだけじゃない。

 外見の印象がまるで変わっていて、どうみても安っぽいチンピラかヒモだ。

 男はぼーっとしている美鳥の脇をすり抜け、勝手に部屋に入り込んだ。


「ま、チョイスは正解だったようだ。ほら、差し入れだ。

 本当は気取ったフレンチなんかよりこーゆー方が口に合うんだろ」


 甘い醤油を煮つめた匂いがしている。

 男が持ってきたのは、牛丼屋のビニル袋だった。牛丼の大盛りに卵、トン汁。それに冷えたビール缶半ダース。

 美鳥の腹が大きく鳴った。鳴りだすと止まらない。急速に空腹を感じている。

 男が歯を見せて笑った。無言でビニル袋を受け取る。

 卓袱台の前に座り込み、一口食べると止まらなくなった。噛むのももどかしく、ご飯粒を撒き散らしながら飲みこむように貪り食って、冷えたビールで流し込む。

 男は勝手に座りこんで、煙草に火をつけた。

 長い足を片足立てて、女の部屋で万年床だなんてありえねェ、うわ、なにあの薬缶とぶつぶつ悪態を吐いているが、背を壁にもたれくつろいでいた。ずっと前からこの部屋に入り浸っていたかのように自然体である。


「なにしに来たわけ」

「第一声がそれかよ、ありがとうとかごちそうさまとか先じゃね?」

「ごちそうさま……、一応」

「なんだよ、それ、素直じゃねェな」

「だってどうせ、アレじゃない。わたしの為じゃない、長谷部時宗がとか、男としてとかなんとかなんでしょ」


 男はビールの空き缶に灰を落とすと、くちびるの片端をつりあげて笑った。すでに自分は二本目を飲んでいる。自分の為に持ってきたようでもある。


「すこしは分かってきたようだな」


 整った顔立ちにワイルドな髪型、無精ひげを生やして、いかにもいきがって生きているチンピラ風なのだが、人懐っこい笑顔を見せられると、そのギャップにどきりとしてしまう。

 長い指の付け根に煙草をはさんで吸う仕草を見ていると、女にちやほやされて生きて来たのがよく分かる。おそらく水商売か風俗の、だらしのない女ばかりだろうけど。

 男が三缶目のビールをあけるのを見て、美鳥は二本目の缶ビールをひったくるようにして奪った。もう一本も取り上げて手元に置く。まごまごしているとこの男が先に全部飲んでしまいそうだった。


「ねえ、長谷部時宗って、本当にあの人?

 前にノーベル賞取った時って、もっと別のような人だった気がするんだけど。記憶違いかな」

「うわ、それ知ってるんだ、へェ、案外、ジャーナリストってのもダテじゃないんだな。

 オレは話を聞いただけだけど、当時、海外ですっげえ非難されたンだろ」

「何の話?」

「だから時宗さまだよ。

 ノーベル賞を取った時のことだろ、お前が言ってんの。

 日本のマスコミがわっと浮足立って授賞式に殺到したのはいいが、間違えてユダヤ人の経済学者に押しかけたんだ。よりによって、家族をアウシュビッツで殺害され、ナチスドイツの同盟国であった日本への非難を表明している学者に、だ。

 当然彼は怒り狂ったし、授賞式のスピーチでも日本の国民性について散々皮肉ったらしいな。

 でもマスコミは自分たちのミスだから、国内じゃ一切報道しなかったンだ。外務省や政府筋も穏便に済ませたかったからって、事を荒立てずにもみ消した。いまと違ってネットとか衛星放送もない時代だから、国民に対して完全に情報が遮断されたンだ。

 まあ、一説によると、顔も知らずに授賞パーティーに押しかけて、その中でいちばん不細工な小男に声をかけたようだ。

時宗さまはまだ二十代であの通りの長身で眉目秀麗、とうてい日本人には見えなかったんだろ。日本のマスコミは国際問題になったとたん、自分の責任じゃないってストックホルムから泡を食って逃げ出して、時宗さまひとり、後始末で各国に謝罪して回ったらしいぜ」

「ああ、そう、そうなんだ……」


 体から力が抜けていく。

 なんだ。

 あの男じゃなかった。

 いったい美鳥は何に対して、誰に対して、何を怒っていたのだろう…………。


 男は短くなった煙草を薄いくちびるで咥えたまま、切れ長の瞳を細めた。じっと美鳥を凝視する。抉るような瞳だ。


「あの指輪、処分しといてやる。どうせ使うあてなんてないんだろ」

「指輪ってまさかあの指輪?

 いきなりなに言いだすの、まさか猫ババしようってんじゃ……」

「するか、つか、できるか。

 どうせ質屋かネットで売りさばくつもりなんだろ。やってみろよ、あんな限定品を紺野溝近の名義で買ってんだぜ? そんな世にモノが流れたら溝近は笑い物だ。あの男のメンツつぶしてただですむと思っているのか」

「え、でも……」

「あの男のメンツをつぶすためなら、ありとあらゆる手間を惜しまないって小悪魔(グレムリン)がいるんだよ。互いに相手が先に手を出したと、譲らないのは子どもの喧嘩並みだが、どちらも莫大な権力と資金があるだけに、どうしようもなくタチが悪い。

 ま、時宗さまが仲介に入ってくれるなら、今回はひとまず収まるだろう」


 美鳥があっけにとられていると、男は眉根をしかめた。


「まだ分からないのか。

 お前は紺野溝近への嫌がらせの道具にされていたんだ。あの男がもっとも苦手とするタイプだから眼をつけられたんだよ、お前は」

「嘘ぉ……、だって…………」


 あんなに話が弾んでいたじゃないか。あんなに積極的にエスコートしてくれて、笑顔を見せて、他にももっと……。

 あァーっ、っと男が苛立たしげに髪をかきむしった。


「だからっ、これは世間に言うなよ、言ったらお前もおしまいだからな、紺野溝近は正真正銘のゲイで、しかもターゲットは一回り以上年下のガキだけ。

 アイツがいちばん苦手なのが、お前みたいな肉食系年上独身女なんだ。ま、たしかに見ていても気の毒になるくらい、肩書きと資産めあての女にハンティングされ続けているからな。

 しかも適当にあしらえればいいものを、そこは紺良帝国の後継者だけに、女性は完璧にエスコートするのが脊髄反射になっているらしい。でもなァ、も少し肩書きがあって、外見ももっと磨き上げた雌豹のような女が多くて、お前みたいに勘違いも甚だしい、欲の皮の突っ張ったババァってのははじめてだが……って、オイ、聞いているのか」


 久々のアルコールが急激に美鳥の体内を回りはじめていた。ぐるぐると、薄汚い天井が回り出す。

 ゲイ?

 ゲイだって、あの男が。嘘だ、この男の嘘に決まっている。それで指輪を巻き上げるつもりなんだ。これは詐欺の一種に決まっている。


「っるさいわねっ。

 わたしは違うの、そんな打算的な女たちとは違う、彼の本質に惚れたの、紺野溝近っていう男の内面とか本性とか」

「あ。そのセリフ。毎回聞く。どの女も同じこと言う。

 ホントに似たタイプばっかりに狙われるんだよなァ、アイツも気の毒に。

 つかさァ、本質に惚れたなら見て分かるだろーよ、アイツが女性に興味なく、貴公子を嫌嫌ながら演じているだけだって。

 お前だってそれなりに観察眼があるなら、本気で惚れた男の好みのタイプや過去の女性遍歴くらい、すぐに気付くんじゃね?」


 美鳥はずるずると畳の上につっぷした。

 あー、すべてがかったるい。

 もうなにかを考えるのも、おっくうだ。

 美鳥が四肢をだらりと投げ出すと、男が煙を細く吐き出した。


「なに、それ。誘っているのか? 欲求不満?

 一回くらいなら相手してやってもいいぜ」

「うるさいうるさいうるさい、さっさと帰ってよ、どうせまた、時宗がどうとかってんでしょ。

 そんなの、貢がせてる女にサービスしてやりなさいよ」


 いきなり男が笑いだした。

 煙草をおき、腹を抱えてゲラゲラと笑っている。


「ほら、やっぱり。

 お前、興味あるオトコのことならちゃんと見抜いているじゃないか。ホントは紺野溝近なんて興味ないんだろ。

 サッサと指輪出せよ。

 そうだな、これを処分してやるのはオレの個人的な好意だ――けどな、オレに惚れるなよ、オレには使命があってだな……」


 美鳥は起きあがると、紺野溝近から買ってもらった指輪を取り出して、男の顔めがけて投げつけた。自慢の顔に傷でもつけばいいと思ったのだが、左手で余裕で受け止めていた。

 その取り澄ました二枚目面が異様に腹立たしい。美鳥は叫んだ。


「出ていけ、このアナログ男っ。

 もう、なにもかも、うんざりよ――っ」


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