14.
ち、と忌々しげに舌打ちしたのは、黒服の男だった。サングラスを苛立たしげに外すと、さきほどまで紺野溝近が座っていた席に座る。
なにごとも無かったようにナイフとフォークを取り、無言のまま食事をはじめた。
最上級のフレンチ、メインの肉料理を相手にがつがつと格闘でもするような雰囲気で、一気に食事を平らげていく。
その悪夢のような光景に、美鳥は茫然となった。
いったいこれはなんなのだ?
心地よかった酔いも一気に醒めてしまった。
あまりにシュールなこのシチュエーションは、テリー・ギリアムのアニメか何かのようである。
黒服の男は顔を上げることも会話をすることもなく、肉料理を平らげた。
薄いくちびるについた肉汁を、舌でぺろりと舐めると、ワインクーラーから自分でワインのボトルを取って、手酌でワインをがぶ飲みした。一本十数万円のワインが、安酒のような扱いだ。
美鳥が両手にカトラリーを持ったまま茫然としていると、男は眉根をひそめた。
「おい、喰わないのか」
「食欲、あるわけないでしょう。だいたい料理を食べたいんじゃないの、こういう店では雰囲気を味わって、楽しく会話をして」
「じゃ、行くか」
男は給仕を呼んでチェックをすると、立ち上がった。
いちおうエスコートをするつもりはあるのか、美鳥に向かってひじを出す。
もしかしたらそのまま、バー、ホテルと溝近のピンチヒッターとして回るつもりなのか。もしかしたらあわよくば美鳥の体目当てかもしれない。
ふざけんじゃねえ。
なんで、わたしがこんな男とSEXしなきゃいけないンだ?
こんな、マナーもデリカシーもない、肉体労働の男と一緒に居るだけだって、プライドが傷つくというのに。
「帰る」
「そうか」
男は無表情のまま「送る」と言った。送り狼になるつもりなのだろうか。こちとら女歴40年だ。若造になめられてたまるか。
「やめてよ、ついてこないで。自分で帰れるわよ」
「分かった、タクシー乗り場まで送ろう」
「ほっといてよ」
ショルダーバッグを振り回すと、男の腕にぶつかり中身が飛び散った。100均の化粧品にボロボロのナイロンの財布が毛足の長い絨毯の上に散乱している。
超高級料理店の煌びやかなエントランスホールである。
見送りに出てきた店員が、それがマナーとでも言いたげに眼を逸らして見て見ぬふりをした。
惨めだ。
ついさっきまで、溝近にエスコートされて天国に居ただけに、惨めさに拍車がかかる。
「痛い女だな」
止めを刺すように黒服の男が呟いた。
こんなサイテーの男にまで馬鹿にされるだなんて。食いしばった歯の隙間から、嗚咽がこぼれる。
ちゃんと生きているじゃん。
がんばってちゃんと生きてるのに、なんでわたしばかりこういう目にあうわけ?
なにも考えずに身勝手に貪欲に生きている女がオトコにたかって専業主婦になってごろごろ太ってトドのようになったりしてるのに、懸命に独りで、歯を食いしばって生きている自分がなぜこんなみじめな目に遭わなきゃいけないんだ。
くちびるを前歯で深く噛み、しゃがんだ。
泣いてもはじまらない。
じっとしていても誰も助けてくれない。
自分の足で立って歩いていくしかない。自分で動き出すしかないんだから、いつも、いつだって、いつまでだって。
ちらばった小物に手をのばした美鳥を、男がぐいと強い力で引き上げた。
「え……」
美鳥が突っ立っていると、男は無言で散らばった小物をかき集めて、美鳥のバッグに戻した。
重い息を吐く。
「時宗さまに任されたからな。車を回す」
黒塗りの運転手つきの車の後部座席に、美鳥は落ちつかないまま座っていた。
すこし離れて、黒服の男が並んで座っている。溝近の運転手つきのリムジンを、勝手に使っているらしい。
よくよく見ると、切れあがった涼しいまなじりに、薄いくちびる、鼻筋の整った美男子だった。
車内の沈黙が重苦しかった。
「あの、サ、さっきの男が長谷部時宗って、ホントウ?」
男はなにを言っているんだとばかりに、露骨に顔をしかめた。嫌悪がありありと浮かんでいる。その表情から彼がこれっぽっちも美鳥に好意を持っていないのがありありと分かった。
「アンタみたいな薄っぺらな女にゃ、分かんないのか。
対峙しただけで分かるだろう。あの気迫。あの迫力、存在感。まともな男なら自然と頭が下がっちまう。じっさい、あの紺野溝近だって仔猫のようだったじゃないか。
他にいるか、あんな男が」
だって、美鳥の記憶と違うし……いいたいことはいろいろあるが、うまく伝えられる自信もない。
この男の言っている言葉も半分以上、意味不明だ。だがその理由を聞いても、この男は馬鹿にした顔をするだけだろう。
だいたい、この男はなんで主君である溝近を呼び捨てにして、長谷部時宗に「さま」とつけるのだ。
「知りあいなわけ?」
返事を期待していなかった。また嫌みを言われるだろう。
だが、男はそわそわとして、落ちつかなげに鼻の頭や、首の後ろをてのひらで何度もこすった。
「――知り合いじゃない。
勿論、こちらからは顔も名もよく存じ上げている。だが、正直、オレごときを知っているとは思わなかった」
「それにしては仲良さそうじゃない」
「時宗さまがそう接して下さっただけだ。
あの人は別格なんだ。お前みたいな女のことですら、ちゃんと気づかって……お前、自分がどれだけ助けられたのか、ぜったい分かんないだろうな」
「分かるわけないでしょ。
人の一生台無しにして。とってつけたようにあんたみたいな男をよこして送らせたって、ぜんぜん計算が合わないじゃない」
「一生?」
黒服の男は意味不明、という顔をした。
数秒間を開けて、露骨に顔をしかめた。
「――まさか、お前、紺野溝近の愛人にでもなれるとでも思っていたんじゃないだろうな」
「そ、そんな、そんなこと、あるわけ、あるわけないじゃない……っ」
美鳥が絶叫すると、男は緊張していた両肩の力を抜いた。露骨にホッとして、「だよなあ、いくら女だからって、そこまで馬鹿な勘違いしないよなあ」と呟いた。
愛人なんかじゃない。
紺野溝近夫人になりたかったのだ。
それですべて手に入れられる。
向こうだって満更じゃなかったはず。
じゃなければこんな高価な指輪をプレゼントしたりしない。絶対に。
それをすべてあの男が、あの長谷部時宗という男が台無しにした。
「ねェ、長谷部時宗の娘ってホントにブスなわけ? それで溝近さんに押しつけたがっているの」
「そんなわけあるか。
長谷部の人間が紺良と縁戚関係になるなんて、あの一族が滅びたってあり得ない。
だいたいあそこは美男美女で有名な血筋だ。それに加えてあの時宗さまの娘婿になれるってなら、ニートだろうが、性格が悪かろうが、男ならふたつ返事で了承するさ」
「なによ、アンタが結婚したいような口ぶりね」
「オレには無理だ、オレは亡霊だからな。それにやらなきゃいけねェことがある、オレしか始末できないことだ」
「どうせくだらないことなんでしょ」
美鳥はうんざりして会話を打ち切った。
男だとか女だとかばかり繰り返す。イマドキこんな時代錯誤の男も珍しいだろう。明治生まれのジジイなみだ。
黒塗りのリムジンが不似合いな、東京の外れの裏通りの古い木造アパートの前で、美鳥は車から降りた。「うわぁ、ボロいアパート、女の住む所じゃねェな」と顔をゆがめながら、黒服の男が一緒に降りる。
「ちょっと! 勝手についてこないでよ、警察呼ぶわよ、警察」
「はァ?
なに妄想に走ってんだよ。
オレはお前を無事に家まで、送り届ける責任がある。男として、時宗さまに顔向けできねェ真似はしたくないからな。だから室内に無事に入るか確認するだけだ。
それにしても周囲のことも、現実も、マジで見えてないんだな。そこまでなにも見えてなくて、よくジャーナリストなんてやってられるな。だから干されたのか。
お前さ、小さいころ少女マンガにはまっていたクチだろ。で、いつか王子さまが、って勘違いしたまま40年間生きて来たんだろ。
賞味期限切れのシンデレラ願望の女なんて、痛いを通り越して妖怪だな」
黒服の男は腰で車にもたれると、自分で自分のセリフに満足げにうなずいた。
上手いこと言ったとでも言いたげな顔だ。
それはちがう。
アンタは女のことをなにも分かっていない、あらゆる女は王子様を夢見ている。だがそれを隠し、かけひきが巧妙な女が上手くやっているだけだ。自分はただ素直で真面目なだけ。だがそれを反論する気力もなかった。何を言ったところでこの男は美鳥の話を真面目に聞くはずがない。女ごころを理解する気もないはずだ。
背を向けて、ぼろいアパートに重い体を引きずりながら戻った。
部屋に入ると全身から疲労が吹き出す。
靴を脱ぐ気力もなく、玄関で靴を履いたまま前のめりに倒れ込んだ。体が動かない。真っ暗な部屋で、このまま孤独死するかも、と不意に暗い予感に襲われた。
誰でもいい。
誰か側に居てほしい。
意地を張っている場合じゃない、あの男に助けを求めようか、すくなくとも長谷部時宗に頼まれていた以上、嫌がりはしても美鳥を助けてくれるはずだ。
だが。
重い体をようようもちあげて、ドアを開いた時には走り去る車のテープランプがみえた。
「この役立たずっ」
思わず罵る。
いや。
いつだってタイミングを逃すのはわたしだ。
賞味期限切れのシンデレラか。
もう分かった。
充分に分かった。
それでもいいから。
じゃあ、その後。
舞踏会が楽しくて、ちょっとばかり羽目をはずして、25時まで踊り続けてしまったシンデレラはどうしたら王子様を呼び戻せるのか。物語の続きを誰か、教えて。