10.
夕暮れの紀尾井町のホテルで車を降りた。運転手つきのリムジン、正面玄関で溝近にエスコートされて両脚をそろえて気取ったマナーで降り、まっすぐに背をのばして立つ。
頭を下げるベルボーイも、ホテルのスタッフや客たちも、すべてが格下に見えてくる。
フレンチの名門店にはすでに予約済、店が開くまですこし時間つぶしをしようと誘われ、アーケードをぶらぶらと歩いた。
ぶ厚い絨毯を踏みながら、溝近と腕を組んで歩くと途方もない優越感が胸の奥底からじわじわとこみあげてきた。通りすぎる着飾った女性が、振り返っては値踏みするように美鳥を見て、腹立たしげに顔を歪めるのも、麻薬のように気持ちいい。
ずらりと並んだブランドショップの店員も、店の中からすぐに気がつき、溝近が見えないのを知ってか知らずか、深々とふたりに向かって頭を下げる。
やはりこの男は紺良帝国のプリンスなのだ。
甘ったるい優越感で、鼻の穴が膨らむ。
一緒に居る男次第で、これだけ世界が変わる。
ぜったいに、この男からは離れられない。死んでも離れるものか。これが本来のわたしの姿、わたしにふさわしい居場所なんだ。
一軒の店の手前にさしかかると、ドアボーイがいきなりドアを開き、隙のない化粧をしたボーイッシュな女性が出てきた。いまや小学生ですら名を知っているだろう、超有名な宝飾品ブランドである。
紺野溝近へ直角に頭を下げる。
「溝近さま、いつも大変お世話になっております」
溝近は足を止めるとなにやら考え込んだ。
「そうだ。
せっかくのお祝いに手ぶらというのもみっともない。なにかプレゼントさせてください。なにかお薦めの新作はありますか」
「勿論ですとも」
女店員は満面の笑みを浮かべ、恭しい動作でふたりを招き入れた。
店内のカウンターではなく奥まったソファーへ案内されて、次々と今シーズンのコレクションが並べられる。
眼の奥でちかちかと星が瞬いた。くらくらとした酩酊状態になり、エスコートされるままに奥のソファーに腰を下ろす。
もちろん、美鳥はバブル時代には一世を風靡していたのだから、ここのブランドのアクセサリーもいくつか持っていたことはある。でもそれは海外で買いあさったり、男に貢がせた真贋不明のものだったりで、日本の正規店で、ましてやソファーに座って店員に傅かれて買い物などしたことはない。
女店員は最新作、定番のもの、お薦めの品をずらりと美鳥の前に並べて、にこやかな表情を崩さないまま美鳥をほめちぎり、ひとつひとつ勧めてくる。
しつこさもなければ、言葉づかいも柔らかいトーンで穏やかで自然である。
これがブランド物のステータスだ。
モノだけもってたって、意味が違う。
こういう買い物の仕方を出来る人だけが、ブランド物を持つのにふさわしい。それこそ、わたしみたいに。
「どれかお試しになりますか」
二十年来の知己のような笑顔で、女店員に言われ、美鳥は現実に返った。
とうてい、今の自分で買えるような代物ではない。
もちろんいずれは自分にふさわしいもので、すぐ手に入るものだが、ここであからさまにねだって紺野溝近に「男にたかる女」と愛想をつかされては元も子もない。
「あ、いえ……、そのう、わたしにはちょっと……」
慌てふためいてちらりと横の溝近の顔色をうかがう。目も見えないのだから、退屈なのだろう。ソファーに深くもたれて、肘掛けにほおづえをついていた。
「どうかされましたか。
あまり良いものがなかったのですか」
「そんなわけでは……」
「確認させてください」
溝近は身を乗り出した。
手探りでテーブルの上に並べられていた、アクセサリーの表面を撫でまわす。
その顔がさっと強張り、こめかみに血管が浮き出た。
「……ずい分と安っぽいものばかりだな。
わたしが見えていないからと、馬鹿にしているのか」
押し殺した、冷酷な声。殺気が放たれた。
体の中心が、瞬時に凍てつき、トリハダが一気に立つ。息すらできない。
女店員も、真っ青になって硬直している。
店内の従業員たちも硬直している。
「すぐにまともなモノを持ってこい」
「は、た、ただ…………」
返事すらできないほどに青褪めた女店員は、どたどたと音を立てて慌てて、去っていく。
張りつめた緊張のなかで、美鳥はちらちらと溝近の横顔を伺った。
またゆったりとソファーにもたれて、くつろいでいる。
艶やかな髪をほおにかけて、顔半分を隠した無表情であごの下をこすっている。
すこしばかり、悪評の、恐怖の噂の部分を垣間見た気がする。たしかに怖かった。ちょっとばかり気に入らないことがあると喚き散らすようなチンピラとは、ぜんぜん別次元、別格の恐怖だ。そこらのやくざの比ではない。これから先、一緒に居たら、もっと恐怖を感じるかもしれない。
でも、男らしい。
ものすごく男らしい。
――惚れた。
本気で。
この男に惚れた。
こんな男と一生、共に居たい。この男のことをもっとよく知りたい。
美鳥の視線を感じたか、紺野溝近はすこしばかりバツの悪そうな表情で、ほおを撫でた。
「すみません、お見苦しいところをお見せしました」
「あ……いえ、あのう、すみません。
あの、あのですね、わたしはこんな高価な物、身につけられませんし、いただくなんてもってのほか。
もっと早くに言えれば良かったのに。ごめんなさい」
「そういう遠慮はやめていただきたい。
わたしと共に居る以上は、それにふさわしい身なりをしていただかないと、恥をかくのはわたしなんです」
毅然と言いきると、溝近は口をつぐみ、苛々とした仕草でひじ掛けを指先で叩いた。
周囲を遮断しており、話しかけられる空気ではない。
今の言葉はどういう意味なのだろう。
いくらにでも解釈できる。
美鳥の今の身なりを恥ずかしく思っているのか。眼が見えないとはいえ、周囲の者からそれなりにどんな服装だかを聞くことは出来るだろう。
だが溝近には美鳥と居る義務はない。
だから一緒に居たくなければ、いなければ良いのに、自分が恥をかかないようにとこんな高価なアクセサリーを買い与えようとする。
――一緒に居たい。
その考えが、ぱあっと頭の中に広がった。
好きだとか、つきあってとかは言われていないが、すくなくとも溝近の意志で美鳥と一緒に居たいのは間違いない。この年ならばつきあうなどと言わずに、なあなあなのもあることだ。
胸がドキドキしてくる。
本当に自分なんかでいいのだろうか。
眼が見えないとはいえ、紺良帝国のプリンスであり、こんないい男で、年下で、男臭く洗練された極上の男だ。
気後れして溝近の顔すら見れなくなる。
「お、お待たせして申し訳ありません」
息を乱し、ひたいに汗を浮かべた女店員が、ジュエリーケースを手に戻ってきた。