2話 忘れられた声
夜の祖母の家は、昼間の柔らかな光をすっかり失っていた。窓から差し込む月光はわずかで、廊下は影に支配されている。美咲は懐中電灯を握りしめ、足音を立てないようそっと階段を上った。
「…だれ…?」
暗闇の向こうで、低く震える声が囁いた。最初はかすかな響きだったが、次第に近づき、頭の後ろで、耳元で、何度も反響する。美咲の背筋をぞくりと冷たいものが走る。
廊下の壁に映る影が、まるで生き物のように蠢く。影の輪郭はぎこちなく歪み、壁から床から天井から、美咲を取り囲むように伸びたり縮んだりする。
「こっち…来て…」
声は一つではなく、二つ、三つ…いや、もっと多くの声が重なり合い、低く冷たい空気の中で共鳴する。美咲の呼吸は荒くなり、体が思うように動かない。足を前に出すたび、床板が悲鳴をあげる。
扉の向こう、秘密の部屋の箱の中から、かすかに小さな光が揺れた。人形の目が、暗闇の中で不気味に光り、美咲をじっと見つめる。その瞬間、背後から冷たい風が吹き、影たちの輪郭がぐんと伸びて、美咲を押し込むように迫った。
「やめて…!」
叫ぶ声は、闇に吸い込まれ、返事はない。ただ、影の動きと囁きが、全身を縛るようにまとわりつく。息が詰まり、心臓が凍る感覚。目の前の影が、まるで笑うかのように歪んだ顔を浮かべ、ゆっくりと手を伸ばしてきた。
美咲は懐中電灯を振りかざすが、光は影を切り裂くどころか、揺れる影に反射して、ますます不気味さを増すだけだった。
「逃げられない…」
廊下の端、階段の手すり、天井の梁…あらゆる場所に影が伸び、ゆらり、ゆらりと蠢く。まるで家そのものが、美咲を飲み込もうとしているかのようだ。
そのとき、美咲の耳元で囁き声が最高潮に達した。
「…ここに…ずっと…いる…」
冷たい指先が肩に触れたような感覚に、美咲は震えながら倒れそうになる。しかし、意を決して、手を伸ばす。光を握りしめ、目を凝らして箱の中を覗き込むと、人形が微かに動いた――まるで生きているかのように。
「誰…?誰なの…?」
答えはない。けれど、影たちの揺れ、囁き、冷たい空気の中で、美咲は恐怖に押しつぶされながらも、好奇心と決意を胸に、次の一歩を踏み出すしかなかった。
夜の祖母の家は静まり返る。けれど、美咲の背後で、影たちはまだ揺れ、囁き、次の瞬間を待っている――。