1話 闇に沈む声
夏が終わりに近づいたある夜、美咲は祖母の家の庭に立っていた。桜の木は静かに揺れ、夜風が髪をかすかに撫でる。月明かりが庭を淡く照らし、影の輪郭を銀色に浮かび上がらせる。
「…まだ、ここにいるの?」
小さな声が耳の奥で震えた。先日まで遊んでいた影たちとは違う、もっと深く、古く、切なげな囁き。胸の奥がざわつき、美咲は足を止めた。
廊下を通ると、家の中に漂う湿った木の匂いと埃の匂いが鼻をかすめる。足音を立てないように、そっと階段を上ると、天井の影がまるで生き物のように蠢いた。
「ここ…に…」
声はさらに近づき、廊下の奥から小さな影が揺れる。美咲は手に握った懐中電灯を照らすが、光が届く範囲では何も見えない。ただ、影の輪郭がぎりぎり見えるだけ。影はゆらり、ゆらりと揺れ、近づく度に息が詰まりそうになる。
「だれ…?教えて…」
返事はない。けれど、背後で小さな影が肩に飛び乗り、警告するように揺れた。美咲の胸は高鳴り、恐怖と好奇心が交錯する。もうひとつの声は、昔この家に住んでいた子どもたちの記憶かもしれない。
震える手で扉を開けると、そこには埃をかぶった古いおもちゃや、色あせた絵本がぎっしりと並ぶ秘密の部屋があった。影は静かに床に降り、扉の向こうを見つめている。
突然、部屋の奥で低い声が響いた。
「…助けて…」
美咲は思わず息を飲む。その声は悲しく、叫びとも囁きともつかない。体の奥がぎゅうっと締めつけられ、涙がぽろりと落ちた。恐怖は全身を支配するが、好奇心が勝り、美咲は一歩、また一歩と部屋の奥へ進む。
影は小さく揺れながら、美咲の背中を追う。暗闇の中、壁に映る影の輪郭が伸びたり縮んだり、まるで美咲の心の不安を映し出すかのようだ。
部屋の隅、古い箱の中から、さらに小さな囁きが聞こえた。
「…ここに…いないで…」
美咲の指先が震えながら箱を開けると、そこには古い日記と、紙で作られた小さな人形が入っていた。人形の目は、暗闇の中で微かに光を反射し、美咲をじっと見つめている。
「これ…誰の…?」
その瞬間、影たちは一斉に揺れ、廊下から階段まで、まるで生きているかのようにうねる。美咲は息を呑み、手に握った懐中電灯を強く握ったまま立ちすくむ。恐怖が全身を包み、逃げることもできず、ただ静かに震えるしかなかった。
夜の闇に沈む声と影、そして秘密の部屋――
美咲の夏休みの冒険は、今、さらに深い恐怖と謎の世界へと踏み込んだのだった。