7話 桜の下の約束
夜が深くなり、祖母の家の庭には冷たい風が吹き抜ける。桜の木の影が長く伸び、地面に黒い波紋のような形を落としていた。美咲は懐中電灯を握り、秘密の部屋への扉を開けたまま、静かに廊下を歩く。
影たちは待っていた。二つの影。ひとつは去年遊んだ、柔らかく温かい影。もうひとつは、寂しさと怒りに支配された影。両方が、ゆらりと揺れながら美咲を見つめている。息が詰まりそうになる。
「逃げる…?」美咲は心の中で問いかける。しかし、足は動かない。影たちの視線が、まるで心の奥まで見通すようで、全身の力が抜けそうだ。
廊下を進むごとに、影は揺れ、形を変え、ささやく。
「ここに…ずっと…いたい…」
「遊ぼう…もう帰さない…」
美咲の胸の奥で、恐怖が膨らむ。しかし、肩に乗った温かい影が小さく跳ねて励ますように揺れる。美咲は深呼吸をして、心の中で決めた。
「もう、逃げない…」
扉の奥の小部屋に入ると、古いおもちゃや絵本が静かに光を浴びている。影たちは部屋の隅に佇み、ゆっくりと形を落ち着ける。美咲はその間を歩き、そっと手を伸ばす。
「怖くないよ。もうひとりぼっちじゃない」
その言葉に、寂しさの影が小さく揺れ、まるで涙を流すように消え入りそうになる。美咲の胸も熱くなる。長い間、誰も助けてくれなかった孤独な存在が、初めて安心を手にした瞬間だった。
外では夜風に混ざって、桜の花びらがひらひらと舞う。月明かりが庭を銀色に照らし、影たちの輪郭が溶けるように揺れた。美咲は影たちをそっと抱き寄せる。
「また来年も、会えるかな…?」
影は答えることはなかったけれど、肩に飛び乗り、嬉しそうに跳ねた。まるで「約束だよ」と言っているかのように。
美咲は窓の外の桜を見上げ、深呼吸する。冷たい夜風が頬を撫でるが、胸の中は温かい。影たちの不安や怒りは消え、静かで穏やかな光に包まれた。
夏休みの最後、庭で美咲は影たちと最後のかくれんぼをする。
「もう隠れないからね!」
「みーつけた!」
笑い声が夜空に響く。恐怖は遠くに消え、代わりに心地よい余韻が残る。美咲は影たちと目を合わせ、静かに頷く。
「来年も、また一緒に遊ぼう」
影たちは小さく揺れ、光の中に溶けていく。美咲はその姿を見届けながら、桜の花びらが舞う庭に立った。
そして、夜の闇が完全に消え、月明かりだけが残った。美咲の胸の奥に、確かな約束と、影たちとの冒険の記憶が光として残った――。