姉の婚約者を奪いました
前略、姉の婚約者を奪いました。
私の姉、ローズマリーはとても美しい人でした。全てが華美で馬鹿な私と違って、女神様のような美しさでした。清く正しく、それでいて優しい姉が大好きでした。私たち姉妹は、貧乏な子爵家に生まれ、数年前に流行病で両親を失いました。亡くなった両親の分まで、この世の誰もよりも幸せになってほしいと思っていました。
だから、姉の婚約者を奪いました。
姉の婚約者は外見だけの良いクズでした。伯爵家の次男で、騎士団の副団長。地位が高く、お金もあります。けれど、女遊びが酷く、それが露見しようものなら金と権力で揉み消すようなクソ野郎でした。たまたまそれを知ってしまった時、この男を始末することを誓いました。こんな男が姉を幸せにできるはずがなく、姉にとって百害あって一利なしだからです。私たちから婚約破棄なんてできませんし、外面だけはいいものですから姉は婚約者を愛していました。だからまずは目を覚まさせる必要がありました。姉は優しいですから、徹底的に。
私は姉の婚約者を誘惑しました。
華美な美貌を振りまいて、押して、引いて、また押して。甘い言葉を吐いたと思ったら、手は出させず彼の元を去っていく。簡単に手に入らない女は初めてだったのか、婚約者はどんどん私にのめり込んでいきました。
そして姉との婚約を破棄させました。
姉の絶望した顔を初めて見ました。心が痛みました。でも、後悔していません。私がこうしていなければ、絶望から戻れなかったでしょうから。
それに、姉と私には幼馴染がいました。騎士だった幼馴染は姉に恋をしていて、戦果を上げることで叙爵を目指していました。その戦果も、姉も、姉の婚約者に横取りされてしまっていました。しかしその婚約者を奪った今、幼馴染は堂々と姉を慰められます。何も心配することはありません。
私は笑いました。例え最悪な笑顔だとしても、姉には私を覚えていて欲しかったので。
私の婚約者となった彼を殺しました。
幼い頃に姉と一緒に図鑑で見た、東洋のアサシンティーポットを使いました。ポットの取手にある穴を指で塞ぐことによって二種類の飲み物を出せるという優れものです。彼に毒を、私に普通のお茶を。貴方のために珍しいポットを取り寄せましたの、と言った時の婚約者の馬鹿面は忘れません。今頃、騎士団長の元には幼馴染の戦果を婚約者様が横取りした証拠が届いていることでしょう。夜、寝ている婚約者の腕から抜け出して、何日もかけて集めた証拠です。死人に口なし……これでもみ消すこともできません。私は罪人ですが、もう家を抜けています。姉と幼馴染は被害者です。
私は逃げました。
裏切り者、人殺し、家族も住むところもない罪人となって逃げました。ちょうど雨が降っていて簡単に追っ手を撒けました。天は私を祝福しているのだと思いました。
後の姉の人生に口は出しません。兄弟は他人のはじまりですから。
これは、私が墓場……いいえ、流浪人の私に墓なんてないでしょうから、地獄まで持っていく秘密です。私と共に消え去る事実です。
国境を超えて、知らない村のあぜ道を走って。ぬかるんだ土に足を取られて、転びました。
「ふふ……あははっ!」
惨めだなぁと思うと笑いが溢れました。でも、たった一人の肉親が、姉が酷い目に遭うよりずぅっといい。
馬鹿な私が地位と名誉に対抗するにはこれしかなかったのです。
お金は婚約者様からプレゼントされた宝石があります。これを売れば慎ましやかな生活とはいえ、生きていけることでしょう。
「これからどうしようかしら……」
けれど、もう死んでしまってもいいかもしれません。
やるべきことは全てやった。私に生きる目的は何もない。意味もない。
残ったのは、ひとりぼっちの馬鹿な女です。
「おねえちゃん……」
知らないボロボロと涙が溢れました。転んだりして痛い時、悲しい時、私は必ず姉を呼びました。そんな甘えたな妹でした。その度に、いつも優しく慰めてくれた姉を、守れたのですから、自分から守ろうとしたのですから、呼んだって、しょうがないのに……。
雨が止みました。いいえ、違います。傘が……。
「君、大丈夫か?」
降ってきた低い声に、ハッと顔を上げました。背の高いその人は、私に傘を傾け、黒髪が濡れていました。鋭く青い瞳が私を見据えていました。
「俺は、この村で医者をしている者だ」
「お医者先生……」
膝に泥がつくのも厭わずに、しゃがんで目線を合わせて、小さい子に言い聞かせるように彼は言います。
「そんな格好でこんな夜更けに外にいるなど、襲われても仕方がないぞ」
確かにここはそこそこ栄えた村のようです。でも、ネグリジェ姿とはいえここまで泥だらけの女を襲う物好きもいないでしょう。ましてや、話しかけることすら……。
「……先生も、襲うの?」
「なわけあるか、俺は医者だ」
先生は少し苛立ってそう言いました。物好きと一緒にしてしまったからかもしれません。しかし、ならどうして……。
「君がそこで野垂れ死んだとして、片付けるのはきっと俺だ。それよりは、今の時点で処理した方がお互いいいだろう」
キツい言い方にも感じましたが、ちゃんと考えれば至極真っ当なことです。確かに、こんなところで死んでしまっては村の人に迷惑でしょう。
「それで、来るのか、来ないのか」
何より、いつまでも傘を傾けさせているわけにはいかなくて、彼の手を取りました。
彼の家は割と裕福なようで、使用人はいないものの、部屋が余っているようでした。彼は、体を拭くものと、服を貸してくれました。男物ですまないが……などと言っていましたから、恋人も奥様もいないようでした。
自分でも、危機感が死んでいるとはわかっていました。でも、明日死ぬような人間に、そんなものは無用だとも思いました。
……そのまま、泥のように眠りました。
「お世話になりました」
「……これから、どうするんだ」
翌朝、身なりを整えてそう言うと、先生が聞きました。どうもこうもありません。誰の迷惑にもならないところで死ぬのみです。山や谷底ならば、野生動物たちが私の亡骸を食べてくれるでしょう。しかし、お医者先生にそのことを言うのは、憚られるような気もしました。
「とりあえずその山を越えて違う村にでも……」
「その軽装備では、死にに行くようなものだ」
間髪を入れずに、ピシャリとそう返されます。
「嘘は言わなくていい。死のうとしていることはわかっている」
「それなら、なんで……」
ちゃんと、貴方の前以外で死のうとしていることも、わかるでしょう。
「死ぬくらいなら、いっそ新しく生きればいいだろう。名と立場を捨て、一からやり直せばいい」
なんて無責任な人なのだろうと思いました。やり直せるのは、持ち物がある人だけです。
「じゃあ、新しい名前は誰がつけてくれるの?」
「俺がつけよう」
「立場は、場所は?」
「俺が与えよう」
「どうして」
「君に、同情してしまったからだ」
同、情。この人が、私の何を知っているのでしょう。どこからか逃げてきた哀れな自殺志願者? だったら、ここまでせずとも元の場所へ戻るように言えば良い。
似たようなことは何度もありました。両親が死んだ時、私だけを引き取ろうとした者はたくさんいました。
「それは、同情なんかじゃない。私の見た目がいいからよ」
助けてもらったくせに、酷い言い草でしょう。けれど、事実なのです。社交界に出れば、皆私の近くに寄ってきて、姉は壁際で控えめに笑うだけ。本当に美しいのは姉なのに、賢い女はいらないと言って、姉の本質に気づかずに、馬鹿で軽薄な私に寄ってくる。
お医者先生なのでしょう。頭がよろしいのでしょう。あんな奴らとは違うでしょう。だから、さっさと見限ってください。怒って追い出してください。
「君は、難儀だな」
なのに、先生は通りすがりに私の頭を撫でて、「朝食にしよう」と言うだけでした。
用意されていた二人分の朝食を前に出て行くこともできず、食卓につきました。出て行く機会を見失ったとも言います。
「先生の名前は、なんていうの?」
「グレイソン・ハワードという」
「じゃあ、私は?」
「そうだな……ヴァイオレット。ヴァイオレットにしよう」
ハワード先生は、私の瞳をのぞき込んでそう言いました。母譲りの桃色の瞳である、姉とは違う父譲りの紫色の瞳。奇しくも変わらない花が由来の名前に、笑みがこぼれました。
「ヴァイオレットに、医局の植物の水やり係を命じる」
「……水やり」
「そうだ。働かざる者食うべからず。しっかりやることだな」
私は、医局の水やり係になりました。医局には薬効のある草花や先生が趣味で育てている植物がたくさんありました。村の人には、王都にいた頃の助手だと紹介されました。
ハワード先生は常に真顔だし、なんなら眉間に皺が寄っているし、ちょっと扱いづらい人でした。
「ハワード先生、なんで独り身なの?」
「妻ができそうな性格に見えるか?」
「まだ若いし、いい出会いがあれば」
「それは過大評価だ。自分でも性格に難があることは自覚している」
とある日の昼下がり、なんとなく聞いてみると、先生は眉間を抑えてそう言いました。
「でも、女遊びはしないし、暴力も振るわないじゃない」
「そいつは結婚すべき人間ではないし、暴力に至っては豚箱にぶち込まれるべきだ。今からでも」
「もういないわ。私の手で殺しちゃったから」
まるで自分のことかのように苛立つ先生に、ついそう言ってしまいます。先生はもっと眉根を寄せて、ため息を吐きました。
「……過去の話はしない約束だろう、ヴァイオレット」
小さくごめんなさいと言って、お茶を入れにいきました。でも、なぜでしょう。良くないことしてしまったと思っているのに、なんとなく浮き足立っている気もしました。真偽はわからないにしろ、人を殺していると言ったのに、無視してくれたからでしょうか。それとも、私のために怒ってくれたからでしょうか。もしかしたら、両方だったのかもしれません。
「先生、今のお客さんで最後よ。お疲れ様」
「そうか、君もご苦労」
この奇妙な生活にも慣れてきました。先生の隣は安心できて、私はとにかく先生の側にいました。椅子の隣に座ったり、頭の上に顎を乗せたり、膝の上に乗ることもありました。先生はそれを咎めるどころか、たまに思い出したように頭を撫でてくれました。ふとした時に自分が人殺しの裏切者であることを忘れてしまうくらい、穏やかな生活でした。
「……私派手で馬鹿だけど、役に立ってる?」
「別に馬鹿じゃないだろう。知識が偏ってはいるが。君は常々そうやって見た目などを卑下するが、それは自傷行為だ」
「じしょーこういって何?」
ハワード先生は、こんな村にいるのが惜しいくらいに頭が良い人でした。それに、遠くにいるという元患者さんたちからよく手紙が来ました。先生は、それを読んでは、棚の上から二番目にしまっていました。返事は書きませんでした。
村の人たちが言うには、領主様の末息子で、幼い時から王都で研究をしていたそうです。けれど、突然帰ってきて、ここで医局を始めたのだとか。王都で何かあったのだろう、そしていつか戻るのだろうと、噂していました。
「……そろそろ追い出さないの?」
「追い出されたいのか?」
「そうじゃなくて、先生がって話」
もう随分と時が経ちました。お人好しにつけ込んでいるというのは、居心地の悪いものです。
先生は盛大にため息を吐いて言いました。
「君は愛することが得意なのに、愛や情というのを受け取らない悪癖があるな」
得意も何も、愛に理由はいらないし、愛してもらった分、返しているだけ。悪癖って一体……。
「いや、言い直そう。俺が、追い出したそうに見えるか?」
「っ!」
そんなわけありません。先生のコーヒーを挽く匂いで起きて、顔を洗って、おはようと言って、美味しい朝ごはんを食べて。ここまでしてもらっているのに。
「じゃあ私がずっとここに居座っていたらどうするの?」
「ずっといればいい」
そんな優しい顔で言われてしまえば、勘違いしてしまう。
「先生は知らないだけよ。私の過去を全部知っても、そう言うとは思えない」
「君はヴァイオレットだ。過去はどうでもいい。が、知って尚こうしているとしたら?」
え……。
「君を拾ったあの日、錯乱状態でずっとぶつぶつ呟いていた。姉の婚約者を奪い、裏切り、その婚約者を殺したのだと懺悔するように言っていた」
あの時、私はどれだけ狂った女だったのでしょうか。
「だが、俺は君が悪だとは思えなかった。君は、君なりに大事な人を守ろうとしただけだろう」
先生の青い瞳が、私を射抜きます。冷たくて、でも奥にじんわりとした温かさのある私の好きな瞳です。
「最初に言ったはずだ、同情してしまったのだと」
先生は、全部知った上で私を置いてくれていたのでした。
「やっぱり、お人好しよ。先生って」
その温かさがどうしようもなく苦しくて、先生の顔を見ていられなくなります。
「そんなことはない。俺は、基本人を信用しない。君とは逆に、裏切られてここにいるからな」
「……じゃあ、なんで」
「君の一途な愛を知って、感化されたからだな」
でなければ同居なんてしない、こんな至近距離にいることを許していない……とか言っている先生に、目が点になります。え?
「俺は、君を愛しているんだ。そして、君も同じ気持ちだと思っていたんだが」
「えっと、その、ハワード先生?」
「俺は、恋人から先生と呼ばれたくない」
照れるように抱きしめて、さっきまでとは逆に顔を見せてくれない先生の首裏は真っ赤でした。
そうして月日は経って、ハワード先生はグレイソンになって、私はヴァイオレット・ハワードになりました。
*
「アイリス?」
もう何年も聞いていなかったその音に、思わず振り向きます。
「……お姉ちゃん?」
サラリと風に揺れる金糸。桃色の瞳。大好きな姉の姿が、そこにありました。
お互いに駆け寄って、それで。
「っこのお馬鹿!!」
ぶった。お姉ちゃんがぶった。今までぶったことなんて、一度もないのに。
「私が、どれだけ心配したと思っているの!?」
あまりの衝撃に買い物袋を落としてしまいます。お、お姉ちゃん……?
「婚約者を、奪ったのに? お姉ちゃん、ショックを受けてたじゃない」
「ショックを受けて当たり前よ。あの人が浮気ばっかりのクズだなんて、わかっていたんだから。どうして、貴女がって」
賢い姉が、知らないはずもありませんでした。姉は、知った上で愛しているフリをして、結婚しようとしていたのです。……きっと、私の生活のために。
「でも、お姉ちゃんが苦しむことになってたのは、変わらないじゃない。だったら、私が」
「そんなところまで似なくてよかったの。それに、後から幸せになる方法はいくらでもあったわ」
確かに、馬鹿な私より、賢い姉の方がよっぽどやりようはあったのでしょう。
私がしたことは姉の邪魔だったのかもしれません。それでも、今姉が幼馴染と共に歩いているところを見るだけで、間違っていなかった気もします。
「……ううん。まずはこう言うべきだったわね。ありがとう、アイリス。でも、もうしないで。勝手にそんなことしないで」
姉に抱きしめられました。暖かくて、安心します。
「帰りましょう。私たちは個人の旅行で通りかかっただけだから、貴方一人くらい隠せるわ」
けれどそれは、グレイソンに抱きしめられた時と同じでした。
「ううん。お姉ちゃん、私、ここに大好きな人がいるの」
幸せになってほしい、したい人は一人ではない。
「……そう。アイリスが私の幸せを願ってくれたように、私も貴女の幸せを願ってることを忘れないで」
「大丈夫、もうわかってるから。その大好きな人がね、教えてくれたの」
そして、それは逆もある。
姉の婚約者を奪った時は、こんなに幸せになれるなんて思いませんでした。
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