怒りの理由
行儀悪く両足を卓の端に引っかけて、椅子を斜めにぎしぎしと漕ぐ。
どうしても、胸のもやもやが晴れない。
テッドは「魔王みたいな女」と言った。それは結局は魔女のことで、テッドの勘違いだとわかっている。
そもそも、彼女からは魔力をあまり感じない。魔女というのも、薬師が多少呪いの力を持ったくらいの自称だと思っている。
なのに「魔王みたいな」だと?
魔王。
最悪最恐の魔物の王。
ごく一般の村人であれば口にするのも避けるはず。
理不尽な暴力の場に、突然あれほど雰囲気のある美女が現れたら、やましさや気まずさを感じるかもしれない。だが、恐怖まで感じるだろうか。
魔王、と冠をつけるほどに?
しばらく悶々としていたが、テッドの「おっさん」「お姉さん」呼びを思い出して、考えるのをやめた。
テッドは深くは考えていないのかもしれない。
ここらで一番人間を殺しているのは、低級中級の魔物たちだ。その魔物たちも、今は遠い存在になった。
だから、怖いものはみな「魔王」なのだろう。
「魔王がいるはずないしな」
ちらりと仕舞い込んだ剣の在処を横目で見て、立ち上がる。
魔力の残滓があれば直ちに感知できる。何が起こったのか推測することもできるだろう。気になるなら、現場を確かめればいい。
現役の頃はその対応の早さが生死を分けた。
今はただ。
「暇だからな。自由だし」
魔力だって、毎日有り余っている。
自分の隠遁暮らしに使う気は全くないが、好きに使ってもいいはずだ。
なにしろ、天下に誇る無職である。
男は、胸を張った。
ソラは、ようやく辿り着いた陽だまりにペタリと座り込んだ。
あちこち木の枝で引っ掻いたし、ベタつく葉っぱがくっついている。人の姿で森を歩くのは楽じゃない。
そんなボロボロの姿も気にせず、ソラは柔らかな草の上にそっとチョコの包みを置いて、いそいそ広げようと手をかけた。
「こんなところに!!」
びくり、と手が止まった。
けれど、それがいけなかった。
キイキイと耳障りな声をあげて上空から突っ込んできた鳥が、チョコの包みを足に引っ掛けて飛び去った。
あ、とソラの唇から力のない声が漏れる間に、蓋の開いた箱から、バラバラと茶色い塊が土の上に落ちた。
「このような! 勇者の匂いのぷんぷんするものを喜ぶとは!」
憤慨した鳥が頭上の羽を逆立てて枝からソラを見下ろした。
「嘆かわしい! 情けない! 魔王の娘ともあろうものが! 聖剣を手に入れることもできず勇者の施しを受けて!」
ゥギイイイイッと、鳥は止まっていた枝をガツガツ嘴で突いた。
その勢いそのままに、ソラの心臓に穴を開けようとばかり、言葉が槍のように降る。
「魔族もこれで終わり! 貴女のせいで! 我らはみんなおしまいだ! なぜそんなに呑気でいられるのか? なんと緩い頭! 誇り高き王の娘であるべきなのに、なんと無様で役に立たぬことか!」
ソラは、ぼんやりと鳥を見上げていた。
怒っているのはわかる。それはもう、怒り狂っている。
だが、何故怒られなければならないのかわからない。ずっとずっと、わからなかった。
わからないまま、他に何もないから、喧しく言われたことに従っていただけだ。
この鳥に、怒られるいわれは、ない。
怒る理由があるのは、ソラの方だ。
大事に運んできたチョコを無惨に土に落とされたソラが、怒るべきだ。
「私は聖剣は欲しくない」
鳥を否定すると、何故かビキビキと胸が痛んだが、ソラは構わなかった。
「欲しいものは自分で手に入れればいい。私を使うな」
ビキキキと、胸が引き絞られる。
脂汗が、額をぬめらせてた。
「なん、なん、貴女まさか、養い親の契約を……。いや、破れるはずがない、赤子のような貴女には。でもね、腹の立つ反抗をしたのですから、お仕置き、しますからね!!」
鳥は一層けたたましく鳴いて、小さな電撃の球を空へと放った。
それは、魔力をほとんど持たないソラにとっては驚異だ。鳥の仕置きは必ずソラに届くはずだから、きっと酷い目に遭う。
そのはずだった。
「お前は、私の親などではない! 私に、構うな!!!」
引き絞られていたモノが、バチリと激しく千切れた音がした。
その瞬間、雷球がソラに当たり――。
ソラの白い肌にギザギザの熱傷が走る代わりに、辺りに激しい雷光を撒き散らして、球が飛散した。
「なっ、弾いた!? 幼体は本能的に攻撃無効のスキルを持つとはいえ、親からの攻撃は弾かないはず。まさか契約を破棄したのですか!?」
チリチリと小さく枝分かれした雷が、無防備な鳥を掠めて枝から落とした。
ぼとりと伏したその小さな魔物の前に、ソラは立ち塞がった。
チョコ、返せ!!!
土に落ちたチョコを指差したが――。
ゴウ、と巻き起こった風に煽られて、一瞬目を瞑った。
次に目を開けた時、そこには触れれば切れそうな、剣呑な目つきの男が、凄まじい殺気を纏って立っていた。
「勇者!!」
「ミャーーーー!!」
跳ね上がった鳥が逃げ出すのを、空中で難なく掴んだ勇者が、悲鳴のような猫の鳴き声にふいと殺気を消した。
「……ソラ?」
「ミャアアア! ミャア!!」
「あっ、おわ、なんだ!?」
雷に撃たれて弾いた時か。いつの間に猫の姿になったのか、ソラ自身にもわからない。
なんでもいい。子猫の姿で、ソラは毛を逆立て背中を丸めてフシーッと威嚇音を放った。
勇者に向かって。
なぜなら、そこにあったチョコが、今はもう、跡形もないからだ!
ソラは怒っていい。
怒っていいのだ。
怒れる子猫に猛然と足に齧りつかれた勇者が力加減を間違えて、鳥はキュゥゥと気を失った。