あれ、その名前は
「なあ、おっさん。この森に魔王なんていないよな?」
不意をつかれて、木の椀を取り落とした。まだ空でよかった。
だいぶ鈍ってるなと思うが、それがいい。どうせもう、老いていくだけの予定だ。
水を注いで渡すと、子供は大人しく飲んだが、こっそり顔を顰めている。傷が痛むのだろう。
――水が傷んでいるわけではない、はずだ。
「魔王は倒された。この世のどこにもいないに決まってるだろ」
さりげなく汲み置きの水の匂いを確かめながら、何でもないことのように言う。
誰でも知っている、事実だ。
「そうだよな、まるで魔王みたいだって思ったんだ」
「なんの話だ? その怪我と関係あるのか?」
この子供は、森が闇がと大興奮で駆け込んできたのだ。喚くのを制して、左の額から噴き出ていた血を止めたところだ。
「森の中からすごく怖いものが出た来たと思ったら、黒い服着た女の人だった」
「はあ? それは……」
「え、なに、知ってんの、おっさん?」
思い当たるとしたら、魔女殿だろうか。
だが怖いもの、に当てはまるとは思えない。
「知ってるかもと思ったが、怖い人ならやはり知らんな」
「怖いっていっても、その人は別に何もしてないぞ。あいつが勝手に怖がって逃げてっただけだ」
登場人物が増えた。
子供の話は難解だ。
面倒になったところに、子供が妙に澄ました顔をした。
「まあいいや。全部解決したし! おっさん怪我したら困るから、森に探しに行ったりしなくていいからな! あと、おっさんもちょっと気を使ったほうがいいよ。ほら、一人で悠々自適に暮らしてるなんて思われて襲われたらバカバカしいじゃん!」
「はあ?」
言いたいだけ言って飛び出していきそうだったので、仕方なく、渋々、とってあった肉の煮込みを出してやった。
砂糖菓子だのタルトだの、ましてチョコだのは、子供には毒だ。
「食え、そして吐け」
「ええー! 吐いたらもったいないじゃんか」
「違う、話せということだ」
椀にたっぷりあった肉と引き換えに、村長の孫だかのバカらしい妄想の顛末を聞き出した。
なるほど、この怪我は、俺のためだったらしい。
「あー、俺は別にそいつが来ても困らないから、今度から普通に案内して来い。逆らってお前が怪我しても馬鹿馬鹿しいだろ」
「俺は、泥棒なんてしない!」
「あー、いやそれはわかってるが」
うまい言い聞かせ方がわからない。
ガシガシと頭を掻いた。
面倒だが、放っておくとこの子供はまた痛めつけられるだろう。きっとそのクソガキにも泥棒はダメだとか正論を言うに違いない。
子供の喧嘩と見過ごすには、額の怪我は深かった。
どうするべきか。
一番簡単なのは、ここではないところに移住してしまうことだが。
思案していると、ギッと扉が開いて、黒衣の美女が入って来た。
いつもは子供を避けるのに、珍しいこともある。
「あっ」
子供は、目をまんまるにした。
「えっ、おっさん、お姉さんと本当に知り合いだったの?
うるさくなった。
とりあえず、もう村に帰そうか。
「ねえ、お姉さん、名前は? おれテッド!」
馴れ馴れしすぎる。よし、帰そう。決して羨ましいわけじゃないが、魔女殿はうるさいのは嫌いだろう。
だが魔女殿は、少しの抵抗もなく答えた。
「ソラだ」
「え?」
つい声を上げたら、不思議そうにマジマジと見られた。
今日もバシバシとまつ毛が長い。
いやそうではなく。
驚いても仕方ない。何故ならすごい偶然だ。
それは、俺があの子猫に付けたのと同じ名だ。