◆1 それから、地獄の日々が始まりました。
【プロローグ】
雪が降る、冬の日ーー。
ここハイプ王国の王宮内にて、舞踏会が開かれていました。
今宵の舞踏会は、私の婚約者オドル王太子が主催したものでした。
ところが、私、エミル・グレアノ公爵令嬢は、婚約者の王太子にエスコートしてもらえませんでした。
そればかりか、私は、黒服の修道女たちによって会場に連れ込まれただけの、強制参加だったのです。
現に、今の私は、修道院でのお仕着せをまとっただけの服装をしています。
とても、ダンスを踊る雰囲気ではありません。
正直、私はこんな場所に来たくはありませんでした。
私は知っていたのです。
どうせ、ろくなことにはならない、と。
この時の私は悲惨な状況だったからです。
お父様に見捨てられたうえに、嫌な女どもに家を乗っ取られていました。
そして今、婚約者までもが乗っ取られようとしていたのです。
私の婚約者である王太子は、嫌な女ーー義姉のタマルを胸元に抱き寄せていました。
案の定、オドル王太子は、彼女に寄り添われながら、大声をあげたのです。
「エミル嬢。貴女との婚約は、破棄させてもらう!」
衆人監視の只中で、私、エミル公爵令嬢は、呆然としつつも、お決まりのセリフを口にしました。
「どうして……?」
待ってました、とばかりにオドル王太子は、胸元にいる義姉タマルにちょっと目を向けてから、答えました。
「エミル嬢。貴女が、ほんとうはグレアノ公爵家の娘ではない、と判明したからだ!」
そして、オドル王太子は、遠く、私の背後に向けて指をさしたのです。
「エミル嬢の母君ーー今は亡きサラ公爵夫人が、グレアノ公爵に内緒で密かに付き合っていた男ーーエミル嬢のほんとうの父君は、そこにいる男だ!」
王太子が指さした先には、ふてぶてしい面構えの髭を生やした男が立っていました。
オッサンは、大袈裟に両手を広げて声をあげます。
「ああ、エミルーー我が娘よ!」
「どなたですか? 私は知らないーー」
私が目を白黒させていると、オドル王太子が生唾を飛ばします。
「エミル嬢!
この期に及んで、まだシラを切るのか。
年に一度は会っていると、この者から聞いたぞ!」
そんなことを言われても、まったく見知らぬオッサンです。
深窓の令嬢が尊ばれるこの世界ーー。
貴族令嬢は、みだりに表を出歩くのは忌避されています。
それでも、今は亡きお母様にもキツく言われていた、外出必須案件がありました。
十五歳の成人式以来、年に一度、私の誕生日に、一人で森の中の教会に出向くことになっていたのです。
グレアノ公爵領にある、小さな教会でした。
優しいお爺さん神父様が迎え入れてくださり、お母様のご実家から、プレゼントの宝石をいただくことになっていました。
それなのに、その一年に一度おこなう一人の外出が、王太子の解説によると、まったくの別物に変わり果てていました。
私は一人で、王都の裏街道にあるバーに出向いており、待ち受けるのが、私の父親だと主張する、この中年男、バーのマスターであり、私が親子水入らずで密かに面会し続けていた、というのです。
でも、私はこの中年男を知りません。
まったくのでっち上げです。
「私は知りません。あなたは誰? 会った時ないわ」
私がそう言うと、見知らぬオッサンが、わざとらしく涙目になって言い募ります。
「嘘をつくな。お父さんだよ。いつも会ってただろ」
「あなたなんか、知りません!」
しばらく押し問答をしていたら、オドル王太子が中年男に水を向けます。
「エミル嬢の父親としての証拠がある、と言っていたな!?」
「はい。こちらに」
中年男は大きな袋を開きます。
中から取り出したのは、赤ん坊のおくるみでした。
私が赤ん坊の時に包んでいたものだといいます。
実際、お母様のご実家の家紋が刺繍された布地でした。
そして、ベビーリングです。
白金のリングに〈愛するエミル〉と刻まれています。
たしかに、どちらも見覚えがありました。
なぜなら、我が家にあったものだからです。
(これらは、お母様が持っていらしたもの……!?)
オドル王太子の隣で、私を見て蔑んでいる一団がいました。
私の父グレアノ公爵と、義母バール、そして義姉タマルです。
私、エミル公爵令嬢は叫びました。
「これらのものは、あなたたちが母の遺品から勝手に盗んだものでしょう!?
なんで、こんな見ず知らずの男にーー!?」
家族たちはニヤニヤしながら、何も応えません。
義姉タマルは、綻んだ口許を扇子で隠しつつ、黙っています。
オドル王太子は真面目な顔で宣言しました。
「次期国王たる俺は、こんな素性の知れない女とは結婚できない。
『王家として、グレアノ公爵家の娘と結婚しなければならぬ』
と、堅く父王様から言いつけられておるのだからな。
よって、貴様の義姉にして、本当の公爵令嬢であるタマル・グレアノ嬢と婚約し直す。
エミル嬢とは婚約破棄だ。わかったな!」
ざわざわーー。
舞踏会場は喧騒に包まれました。
中には、私に同情する声もありましたが、大半が嘲るものでした。
「まさか、今は亡きサラ公爵夫人が、グレアノ公爵閣下の目を盗んで?」
「平民の男と娘を作って、今まで公爵令嬢として育ててきただなんて……」
「ふしだらにも程がある!」
みなが、非難がましい目を、私にぶつけてきます。
私をこの場に連れ込んだ修道女たちも、冷ややかな瞳で私を見下します。
私は唇を咬み、拳を握り締めつつ、立ち尽くすしかありませんでした。
(どうして、こんなことに……?)
【第一話】
お母様ーーサラ公爵夫人がお亡くなりになってから、わずか十日後ーー。
父の愛人バールと、隠し子の義姉タマルが、私の屋敷ーーグレアノ公爵邸に乗り込んできました。
それから、全てがおかしくなりました。
それまでの私は幸せでした。
私はグレアノ公爵家の娘エミルで、オドル王太子殿下と婚約していました。
将来、王妃になることが約束された身分でした。
婚約者との仲も良好で、王宮内の庭園や、王家の別荘で何度もデートも重ねました。
オドル王太子は少し勝気で、仕切りたがりでしたけど、一緒に手を取り合って、森の中にわけ行っては虫を取ったり、花を摘んだりして、遊びました。
家族の仲も良好でした。
不満と言えば、お母様は私を猫可愛がりするあまり、外で遊ぶことを許してくれず、学園に通う年齢になっても、友達同士で遊ぶことに難色を示したり、林間学校や修学旅行など、遠方へ行ったり、お泊まりするような企画には参加させてもらえなかったことぐらいです。
それでも、お父様とお母様が一緒でしたら、海にも山にも連れて行ってくれましたし、私も普段から家庭菜園に精を出し、お母様と共に料理を作ったりしました。
公爵家なのに、お母様があまり侍女や執事を雇うのを好まなかったので、掃除や洗濯も進んでするようになりました。
お父様は、そんな私の頭を撫でて、殊の外、喜んでくれました。
ところが、お母様ーーサラ公爵夫人が亡くなった途端に、状況が一変しました。
喪も開けず、十日もしないうちに、お父様の愛人バールが、我が家に乗り込んできたのです。私より二歳上の娘タマルも引き連れて。
お父様はお母様の目を盗んで、平気で平民のオンナと付き合い続けていたのです。
初顔合わせを応接間で行いましたが、そのときも、踊り子だったというバールは、妖艶な肢体でお父様にベタベタとくっつき続けます。
娘のタマルは黒い扇子を手に、私、エミル公爵令嬢に言い放ちました。
「エミル! 今日から貴女は、私の妹よ」
そう言うと、勝手に椅子に座って、扇子でテーブルを叩きます。
「どうしたの? 飲み物ぐらい持ってきなさいよ。お菓子もないわ」
仕方なくクッキーを小皿に載せて持っていきました。
すると、わざと皿ごとひっくり返されます。
私はビックリして、義姉を見詰めました。
「使えない人ね。なによ!? その反抗的な目は!」
私が落ちたクッキーを拾い上げようとしたら、今度は頭を扇子で打ちつけます。
頭に手を当てて顔をあげると、見下す義姉の顔は笑みであふれていました。
「ああ、せいせいするわ。
貴女がこんな立派なお屋敷でのびのび暮らしていた頃、私とお母さんは場末のバーで寝泊まりしていたんですからね。
これからは私がのびのびして、貴女に窮屈な想いを味合わせてあげるわ。
感謝なさい。ほほほほ!」
それから、地獄の日々が始まりました。
我が家には侍女がいません。ですから、私がお父様と愛人、そして義姉の面倒を見させられ、炊事洗濯にこき使われたのです。
「どうして、私がこんな目に!?」
そうお父様に抗議しても、
「彼女たちには長いこと日陰者の辛さを味合わせてきたから、仕方ないんだ。
よろしく頼む」
と言うばかりです。
お父様がそうした態度でしたから、新参者の母娘は傍若無人に振る舞い続けました。
元踊り子だった義母バールは、左右の手や指にゴテゴテと宝石を付けていました。
「それは、お母様の!」
父の愛人は、お母様の形見の宝石を勝手に身につけていたのです。
よく見たら、服までもお母様のものを引っ張り出して、着込んでいました。
私が袖を引っ張って脱がそうとしても、義母はせせら笑うのみでした。
「盗んだなんて、人聞きの悪い。
全部、貴女のお父様からいただいたものよ。
これからは私が公爵家の奥様なんですからね」
義母は、私が台所仕事をしている隙に、勝手に私の部屋に侵入します。
そして、お母様からいただいた私の服も、勝手に捨てられてしまいました。
代わりに彼女が場末の街で買ってきた、扇情的でダサい服が、所狭しとクローゼットに並べられていました。
「勝手に私の部屋に入らないで!
お母様の遺品には、手をつけないで!」
と、私が涙ながらに訴えても、愛人とその娘には聞く耳がありません。
「貴女のお母さんのものは、みんな私のものよ!」
「そうよ、そうよ。
今まで良い想いをしてきたんだから、これからは私たちが貴族暮らしを満喫する番よ。
ほほほほ!」
耐えきれず、私は執務室に押し入って、お父様に抗議しました。
「もともとは、全部、お母様のものだったんでしょ!?
お母様が亡くなって、まだ一ヶ月も経っていないのに!」
公爵の爵位も、このお屋敷も、すべてお母様からもらったようなものです。
母方が公爵家だった一方で、父方は男爵家でした。
お父様はレモン男爵家の次男で、このグレアノ公爵家には婿として入ってきました。
そのように、今は亡きお母様から聞いていました。
しかも、お父様のご実家であるレモン男爵家には、経済的に逼迫していた折には、お母様がお金まで融通していたはずです。
それなのにーー。
顔を赤くする私を前に、お父様は押し黙ります。
そんなお父様に代わって返答したのは、いつの間にか、私の背後に立っていた義理の母と姉でした。
「私たちは若い頃から、付き合っていたのよ。
それを横入りしてきて、奪ったのは、貴女のお母様の方!」
「そうよ。
それに、貴女が慕う〈お父様〉も、初めっから貴女の母親の財産を狙って結婚したんだから。『すべてが手に入るまで我慢しろ』って、私たち、何度、言われたことかしら」
愛人の母娘に言わせれば、泥棒猫は私のお母様ということになるらしいのです。
「そんなーー嘘だと言ってください、お父様……」
私は喉を詰まらせます。
ですが、そんな私に向かって、お父様は呪詛の言葉を吐いたのです。
「俺は、おまえの母が苦手だった。
亡くなってくれて、ホッとしている」
「お父様……」
「今だから言うが、おまえは私の子じゃない。
サラの連れ子だったんだ」
「え!? ほんとうなの?」
衝撃の事実でした。
「ああ。ほんとうだ」
「そんなこと、お母様は一言も……」
娘が衝撃を受けているのに、父親は、お構いなしに独り語りを始めました。
「たしかに、私は貧乏男爵家の次男で、公爵家の当主になるのに憧れて、サラと結婚した。
おまえという、当時、三歳にも満たない連れ子がいると承知で、結婚したんだ。
もっとも、国王陛下のとりなしもあって、断れなかった、というべきかな。
私は陛下と釣り仲間でね。
私が貧乏男爵家すら継げず、平民落ちしかねないのを同情してくださったのだろう。
しかも、その連れ子を無事に育てたら、当時、五歳になったばかりのオドル王太子殿下と結婚させる予定だ、という。
『グレアノ公爵家の娘と王家が婚姻を結ぶのは、ハイプ王国の安寧のために欠かせない事案なのだ』と国王陛下はおっしゃったんだ。
さすがは筆頭公爵家。
他に公爵家は十五家もあるが、グレアノ公爵家は特に重要視されている。
貴族間政治のために、筆頭公爵家との結びつきが重視されているのだろう。
私がそのグレアノ公爵家の当主になれば、王家との結びつきも強固となり、私もハイプ王国の中枢に関われる。そう思ったんだ。
ところが、たしかに良いポストは与えられるが、いつもお飾りの役職だった。
実権がない役職しか、私には回って来なかったんだ。
結局、結婚して五年もすると、仕事での活躍が望めないので、私は落ち込んでいた。
なのに、家庭でも、私には居場所がなかった。
サラは『エミルちゃんに家族の温もりを教えてあげたい』などと言って、おまえに構ってばかり。
生活の中心にはいつもおまえ、エミルがいた。
サラは、ほんとうにおまえのために生きようとしていた。
異常なほどに。
おかげで、私は孤独だった。寂しかったんだ。
夫なのに、まるで愛されていなかった。
だからバールが必要だった。
酒場でバールの踊りを観たあと、杯を酌み交わすのが、私にとっての唯一の憩いだったんだ」
そう聞いて、愛人バールは高笑いします。
「愛のない結婚だった、ってことね。
エミルちゃん。貴女はこの家にとって、邪魔な存在だったのよ」
「それじゃあ、お父様の、ほんとうに愛する娘は私だけってことね!」
と愛人の娘タマルも喜びます。
はしゃぐ母娘と、そんな彼女たちを目を細めて見ているお父様ーー。
そんな様子を見ていると、私がお母様とお父様と過ごした、あの暖かな日々が、まるで嘘のように消え去っていくーーそんな哀しい気持ちになってしまいました。
こうして、家庭内において、すっかり私の居場所が奪われていきました。
しかも、そうした、まるで他人の家庭になってしまった我が家の炊事や洗濯を、私がこなさなければならないのです。
いったい、私はこれから先、どうやって生きていけば良いのでしょう?
一瞬、絶望を感じましたが、ふと思い出しました。
そうです。
私には将来を誓い合った婚約者がいました。
オドル王太子殿下です。
彼は将来、このハイプ王国を担う王様になる男性です。
が、私にとっては、居場所を失った私が避難できる愛の巣を作ってくれる大事な男性でした。
ちょうど、噂では、今年中に、中風を患ったワイド王から、王位を譲り受ける予定だと囁かれています。
私が王妃様になるなんて、似合わないかもしれませんが、この家から逃げ出すためだったら、なんだってする覚悟でした。
そのためにも、これだけは死守しなければならないものがありました。
十五歳の成人式以来、年に一度、私の誕生日に、森の中の教会でいただいた宝石です。
お母様のご実家からの贈り物でした。
今現在、私は十八歳ーーちょうど三個の赤、青、黄色の宝石が揃いました。
「三つの宝石が揃うと、結婚する資格が得られるの」とお母様はおっしゃっていました。
ところが、その宝石すら、あの母娘は私から奪おうとするのです。
ある日、廊下の掃除を片付けてから戻ると、義姉タマルが、勝手に私の部屋に入り込んでいて、宝石箱をこじ開けようとしていました。
鏡台の引き出しの奥に隠していたのに、捜し出されたのです。
「これは渡さないわ!」
私は義姉から箱を奪い取り、抱え込みました。
「これはお母様のご実家からいただいたものなの!」
でも、義姉は諦めません。
私の髪の毛を掴んで、引っ張ります。
「ふん!
身体を鍛えたこともないお嬢様なんかに、私が負けるわけないでしょ。
寄越しなさい。
妹のモノは、姉のモノなのよ!」
「いやっ!」
私は追い縋る義姉の身体を、思い切り突き飛ばしました。
そして、彼女が床に倒れ込んだ隙に、私は廊下に走り出したのです。
そのまま私は、宝石を抱えて、逃げ出そうとしました。
ーーでも、いったい、どこへ?
もう、この屋敷の中で、安全な場所はありません。
とすれば、外へ逃げるしかありません。
私は玄関に向かって、中央階段を駆け下りようとしました。
そのときです。
ドン!
と音がして、背中に衝撃を受けました。
驚いて振り向くと、義姉タマルが両手を突き出した姿勢で立っていました。
私は義姉に押されて、宙を舞っていたのです。
両手で抱えるようにして宝石箱を持っていたので、身を守ることもできません。
私は、義姉に突き飛ばされて、階段から転がり落ち、昏倒したのでした。
薄れ行く意識の中で、義姉の甲高い笑い声が、耳にこびりついて離れませんでした。
◇◇◇
私、エミル•グレアノ公爵令嬢が、邸宅の階段から転げ落ちてから、どれほど時間が経ったのでしょうーー。
私が目覚めたら、馬車に乗っていました。
いえ。
「乗っていた」というより、馬車の中に「投げ捨てられていた」という方が正しいでしょう。
口には布切れを巻かれ、両手両足を縛られて、身動きができない状態でした。
しばらく揺られてから、馬車が止まりました。
すると、黒服の女性たちが何人も乗り込んで来たのです。
そして、私の手足を拘束していた綱を、短刀で切り裂きます。
そのまま、馬車から私を外へと連れ出しました。
私の目の前には、石造りの建物が聳え立っていました。
女子修道院でした。
私を馬車から引き出したのは、修道女たちだったのです。
「預けた人から、あなたを雑用に使えって言われたんだから」
と、老修道院長から、吐き捨てるように言われました。
「預けた人」というのは、おそらくお父様のグレアノ公爵でしょう。
グレアノ公爵家は教会に対して多額の献金をしていたので、この修道院でもお得意様と認識されているに違いありません。
でも、どうしたら良いでしょう。
亡きお母様の形見は、すべて横取りされてしまいました。
必死に守ろうとした宝石も失われたのです。
おかげで、自分の身分を証明するものはありません。
あの義理の母と姉の思うがままに、この修道院で暮らしていくしかないのでしょうか。
でも、私は思い直しました。
いずれ婚約者である王太子殿下が、私の安否をお父様に尋ねてくるに違いありません。
彼が新王に即位するのが間近というなら、私の結婚も迫っているということです。
さすがに、あの義母と義姉でも、王家に嫁いだ私をいじめることはできないでしょう。
だとしたら、嫌がらせも、ここまでです。
家から追い出し、修道院に放り込むまででしょう。
あとは王太子殿下が、婚約者の私を、お助けくださるのを待つばかりです。
お母様のご実家からいただいた宝石は奪われてしまったけれど、本来の持ち主が私であることは、お父様もご存知だし、あの宝石を渡してくださった神父様もご存知です。
心配は要りません。
気持ちを切り替えて、目の前の事態に誠実に当たろう、と私は決めたのです。
実際、女子修道院に来ても、やることはたいして変わりませんでした。
お母様がお亡くなりになって以来、公爵邸でやらされていたのと同じように、雑用係としてこき使われました。
掃除もします。
炊事、洗濯もやらされました。
しかし、公爵邸にいたときよりも気が楽でした。
女子修道院の方が館の規模は大きかったけれど、他の修道女も一緒に掃除や炊事洗濯をしてくれます。
朝の四時起きで、夜の六時、日が暮れるまで働き尽くめですけど、平等でした。
修道女たちはみなよそよそしく、仲間に加えてもくれず、私は食事もテーブルの隅っこで一人、パンを齧るだけでしたが、いじめられることはありませんでした。
この時まではーー。
◇◇◇
エミル公爵令嬢が、修道院で雑用をこなしていた頃ーー。
グレアノ公爵は王宮へと赴いていました。
そして、王太子の執務室に顔を出し、公爵の側から、娘エミルを婚約破棄するよう、オドル王太子に持ちかけたのです。
王太子は意外そうな顔をしました。
「なぜだ?
貴方は王族に連なることが出来ると、娘を差し出すのに積極的ではなかったか?
もうすぐ俺は王位を継ぐのだぞ」
「いえ。婚姻を諦めたわけではありません。
ぜひ、王族に連なる者として、末席にでも加えていただきたい、という思いに変わりありません。
ですが、あのエミルは、母のサラを亡くして以来、精神的に打撃を受けて、少々、おかしくなりましてね。
心を病みましたので、今は修道院に預けているのです」
オドル王太子は、渋い顔をしました。
「それはお悔やみ申し上げる。
たしかに、そんな病気持ちが王妃というのはマズイな。
健康な子宝が望めぬではないか」
「さようです。
しかも、即位式が間近に迫ったこの時期に、新たな貴族家から婚約者を見繕うのは、少し気忙しく思われます。
ですから、私の、別の娘を用意しました。
タマルと申します。
いかがでしょうか?」
グレアノ公爵の紹介を受けて、義姉タマルが、はにかんだ笑顔を浮かべて、しずしずと前へ進み出ます。
オドル王太子は上から下へと視線を動かし、ニンマリしました。
「これは美しい。
ボディラインもしっかりしておる。
それにしても、グレアノ公爵家にもう一人、ご令嬢がおられるとは知らなかったな」
次いでグレアノ公爵は、新たに夫人となったバールを招き寄せ、王太子に紹介します。
「これは元より私が付き合ってた女性でしてね。
先妻のサラが亡くなったので、妻として迎えました」
「これは、綺麗な方だ」
王太子は素直に、その容姿を褒めます。
「踊り子でした」
と、得意げにグレアノ公爵が言うので、王太子も興が乗ったらしい。
「ほう。だったら、踊ってみせよ」
と言って、手で拍子を取り始めます。
母バールと娘タマルは、二人で踊り始めました。
手拍子に合わせて腕をクネクネと動かし、腰を上下に振りまくります。
王都の裏街道の酒場で踊る振り付けですから、かなり扇情的です。
淫靡な雰囲気が醸し出されました。
ですが、そうした踊りを目にしたのは初めてでしたから、オドル王太子はとても上機嫌になりました。
「気に入った!
エミルを相手にするより、よほど良い。
子供の頃は楽しかったが、成人になっても、俺にモーションひとつかけてこない。
君たちの方が積極的で良いな。
男を喜ばせる方法を知っている」
そこで、グレアノ公爵は、王太子に膝を寄せます。
「殿下が婚約者の変更に応じてくださるのでしたら、今晩、二人をお貸しいたします」
王太子は目を丸くしました。
「良いのか? 其方の妻と娘なのだろう?」
「心のみならず、身体の方も、王家に連なりたく思っておりますので」
王太子は、改めてバールとタマルの豊満な肉体に目を這わせます。
「公爵の申し出、しかと承った。
だが、今晩は父王と王妃殿下との会食やら相談やら、予定が詰まっておってな。
明晩、時間を空けておくから、この部屋に来るように。
二人を俺の寝室へと招いてやろう」
オドル王太子は明るい声をあげました。
ですが、すぐあと、少し沈んだ調子になって、吐息を漏らしました。
「そうだなーー。
俺としては、このタマルとかいう女を娶っても、一向に構わない。
正室は公爵家から娶るが、側室はどこからでも、何人いても構わないのだからな。
それに、女に政治について口を出させるつもりもないから、見目麗しい女だったら、王妃は誰でも良いのだ。
でもなぁ、妹の婚約を破棄して、姉の方に乗り換えるっていうのはーー道義的に、ちと外聞が悪すぎるかもな。
王太子ゆえの体裁ってものがある」
幼い頃、父王様から紹介されて婚約した令嬢エミルは、今、ここにはいません。
いくら父親からの申し出とはいえ、本人抜きで婚約者を乗り換えるわけにはいきません。
「それに、エミル嬢との婚約を破棄し、貴女と婚約し直すとすれば、少なくとも、エミル本人の受諾が必要であろう。
本人がいる前で宣言しないことには、格好がつかん。
ぜひエミル本人を連れてきてくれ。
みなにとっては、エミルこそが、私の許婚者だと思っているのだから」
グレアノ公爵は大きく頷きます。
次いで、周囲に気を配りながら、姉に婚約者を乗り換えるに際しての、最大の懸念事項を口にしました。
「つきましては、王様と王妃様についてはーー?」
このハイプ王国の現国王ワイド、そして王妃レーン。
彼ら国王夫妻が、積極的にエミルと王太子の婚姻話を進めてきました。
国王夫妻が先妻サラと殊の外懇意で、縁談をまとめていたと聞いています。
ですが、国王夫妻は、一粒種の息子を甘やかして育ててきたのが仇となって、少々、オドル王太子は我儘な気性に育っていました。
親の意向など、どうとでもなる、と過信していたのです。
「ふむ。婚約者の乗り換えなんぞ、事前に相談すれば、駄目だと言われるだけだ。
だから、事後承諾でいいだろう。
俺の両親は、結局、俺の言うことは聞いてくれるのだ。
俺には甘いからな。
ーーあとは、そうだな……。
父王様も王妃殿下も、妙に信仰が厚い。
できれば、教会の司祭とかからも承諾を得ると、父王たちも同意しやすいだろう。
ただ、教会には根回しするまでもない。
俺との婚約についてだから、王家とグレアノ公爵家の問題にすぎんのだからな」
ハイプ王国では、プレシオ教が信仰されています。
プレシオ教はプレシオ神聖皇国に拠点があり、全世界に教えが広まっている、世界最大の信徒数を誇る宗教でした。
世界各国の都市に教会があり、王国でも、有力貴族の領内には必ず教会や修道院があるほどです。
規模の巨大さから、いくらオドル王太子とはいえ、今から許婚者の変更について正式な許可を得るのは難しい。
でもーー。
「教会は結局、王家の婚姻事情にまで介入できまい」
と断言して、王太子は自身の胸を叩きます。
「それに父王様も、王妃殿下も、貴族の意見が一致しておれば、言いなりにできる。
そこで、一気に蹴りをつけたうえで、エミルとの婚約破棄を明確にしてやる。
だから、ぜひともエミル嬢を、舞踏会に連れてきてくれよ。
それからあとは任せろ。
みなの前で、堂々と、俺が婚約破棄宣言をしてやるから」
◇◇◇
それから数時間後、グレアノ公爵邸への帰宅中の馬車内でーー。
グレアノ公爵と新妻バール、娘のタマルは、明るい声を弾ませていました。
「聞いておったな。
明日の夜だ。
殿下を骨抜きにしてやれ」
「殿下もお好きですね。
母と娘、同時にとは。
でも、安心なさい、タマル。
お母さんがうまく誘導するから」
「わかったわ。
でも、出来ればお母さんは、見ているだけでお願いね。
私の旦那様になるお方なんだから、私の身体だけで満足してもらいたいもの」
母娘が黄色い声でひとしきり歓談したあと、グレアノ公爵は小声で妻子に囁きます。
「宝石は全部奪ったのだな」
「ええ」
と、妻のバールは応えます。
エミルが持っていた三つの宝石は、王家との婚約の証だといわれていました。
本当なら、先妻のサラが保管していたのですが、亡くなったので、強奪が可能になったのです。
問題は、タマルが王太子との婚約を乗っ取れるか、でした。
グレアノ公爵は腕を組み、思案します。
「王太子殿下は、タマル相手に婚約しても、構わない、との仰せだ。
一方、教会は王家の婚姻事情になど関係しないだろうし、国王夫妻は王太子に甘々だ。
とすれば、問題は貴族の世論だな。
貴族は血統にうるさいから、バールの出自をとやかく言うだろうし、タマルについても『王妃に相応しくない』と文句をつけるヤツが出てくるのは間違いないだろうし……。
やはり、決定打が必要だ。
そうだなーー今さら、タマルの血筋を良くすることもできぬ相談だから、ここは発想を変えて、エミルの血筋を貶めたらどうかな……」
結局、亡くなるまで、先妻サラが、グレアノ公爵家の当主でした。
ということは、エミルの父親は先代のグレアノ公爵だということになります。
そうなると、血統からいえば、たしかにエミルが正当な公爵令嬢で、タマルは男爵家次男と平民女との間の子ということになってしまいます。
ですから、エミルを廃して、タマルを王太子と婚約させ、王妃とするには、血統の正統性をひっくり返すほどのインパクトが必要と思われました。
幸い、付け入る隙はあります。
訊けば、グレアノ公爵家は、数代前には存在していませんでした。
王家の肝煎りで、数十年前に、急に創設された公爵家だった、というのです。
親交のある貴族たちに聞いても、みながそう言い、
「歴史がない家が、筆頭公爵家になっているのが気に入らない」
と嫌がらせをする貴族までがいたぐらいでした。
つまり、王家以外、誰も先代のグレアノ公爵をよく知らないのです。
謎の人物で、正体が霧に包まれていました。
(だったら、「エミルの父親を、碌でもないヤツだった」と決めつけられれば、良いのではないか?)
エミルの「お父様」は、顎に手を当て、考えを進めます。
サラの夫だった初代グレアノ公爵が、どんな人物だったのかは、わかりません。
ですがーー。
(構うものか。
夫婦共に死んでいるんだ。
死人に口無しだ。
エミルを〈不義の子〉として貶められれば、タマルを代わりの許婚者として、押し込められるのではないか?)
グレアノ公爵は、パチンと指を鳴らしました。
「よし、おまえの弟テックを使え。
アイツをエミルの、実の父ということにすればいいだろう。
先妻のサラはすでに亡くなってるんだから、死人に口無しだ。
テックに『自分がエミルの実の父親だ』と証言させろ」
いささか、突拍子もない思いつきでした。
それでも、バールは嬉しそうに夫に胸を押し付けて笑いました。
「面白くなりそうね」
娘のタマルに至っては、身悶えするほどに興奮していました。
突然、見知らぬ男性から「父親だよ」と言われ、呆然とするエミルの顔を想像するだけで、気持ち良くて仕方なかったのです。