表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/2

前編


 前編



 昭和の中頃、僕が小学生の頃だ。今は山を切り開かれ造成されて住宅地になっている場所に”人喰い沼”と呼ばれていた沼があった。

 当時は鬱蒼とした山の中に、ポツンと深緑色の水を湛えていた静かな沼だ。この沼が何故人喰い沼と言われるのか、僕が親に訊いたところ、この沼の近くを通ると沼に誘い込まれる様に水に落ちそのまま食べられてしまうという話だった。今思えば危険な沼に子供が近付かないように大人が考えた作り話だと気が付くが、その時にはすっかり信じ込んでいたんだ。


 ある夏休みの一日だった。じりじりとした日差しの下、ランニングに半ズボンで僕は遊んでいた。子供の頃の夏は、本当に夏らしい暑さだったと記憶しているが、今思うとエアコンもクーラーも無く、扇風機だけで過ごせていたのだから実際の気温はそうでもなかったのだろう。

 僕は近所の林で、幹の樹液に集まる虫を捕まえて遊んでいた。そこへ友達のトミジが声をかけてくる。夏休みも終盤になり、暇を持て余している様子だ。しばらく、二人で虫捕りをしていたが、トミジがいい事思い付いたと言って僕を手招きする。そして、辺りに人が居ないのを確認して小声で言う。


「人喰い沼まで探検に行かないか 」


「ダメだよ あそこに行くと怒られるぞ 」


 僕は初め断ったが、トミジは諦めきれないようで執拗に誘う。


「ちょっと見るだけだから大丈夫さ 」


 結局、僕も好奇心に負けてトミジと一緒に行ってみる事にした。怖いもの見たさという未知の物に対する興味。実際、どんな沼なのか興味津々だった。いつも持ち歩いている探検道具を入れたリュックサックを背負い、虫篭を腰にぶら下げて、僕らは歩き出した。リュックサックの中には、縄と懐中電灯に理科の授業で作ったラジオ、攻撃用に銀玉鉄砲。他にも記録用の帳面と鉛筆。そして、非常食代わりに飴玉を入れてあった。その人喰い沼は、ここから林を通り抜け線路を渡り、そこからまた獣道を歩いた所にある筈だった。

 誰も実際に行った事がないので、あくまで友達の中での噂にすぎなかったが他に情報もないのでその地点を目指していくことにする。


 林の中、蝉の声を聞きながら二人で歩いて行く。なにかヒーロー物に出てきた怪人の話をしていたと思う。とにかく、手に持った木の棒を武器代わりに振り回し、騒ぎながら歩いていた。傍から見たらいい迷惑だったろう。しばらくして林を抜けると目の前に小道が現れ右手に遮断機のない踏み切りがあった。僕らは小道に出て踏み切りを渡る。そして、渡ってすぐ左に入る獣道を見つけた。


「ここだ…… 行くぞ 」


 トミジが木の棒を振り上げて言う。獣道は背の高い草が生い茂り、それをかき分けて進むしかなかった。こんなとこ行くのかと、僕はごくりとつばを飲んだ。

 僕らは木の棒でばさばさと草をかき分け進んで行った。ムッとする草の匂いと陽射しの暑さで息苦しい。本当にこの道でいいのか、僕らが疑問に思い始めた時、視界が開けた。

 いつの間にか蝉の声も聞こえなくなっていて、シーンと静まり返ったなかに濃い緑色の濁った水を湛えた沼がポツンと現れた。小さな沼だった。沼の周りは斜面になっていてすり鉢に水が溜まった印象だ。楕円が二つくっ付いた歪な瓢箪の形をしている。

 僕らは何も言わず立ったまま人喰い沼を眺めていた。そうして、その水面を見ていると、スーッと吸い込まれそうな気分になる。トミジがフラフラと沼の方へ歩いていった。


「おいっ トミジ 」


 僕が声を掛けてもトミジは歩いていき沼の周りの斜面を降りていく。


「危ないぞっ 」


 僕が後を追っていくと、トミジは斜面に立ち水面を見つめていた。


「あそこに何かないか? 」


 トミジが指差す所を見るが何も見えない。僕も斜面を降りて目を凝らしてみるが、やはり何も見えなかった。


「いや 何かある 」


 トミジがそう言って一歩踏み出した途端、足を滑らせて沼に嵌まった。


「わぁぁーーっ」


 トミジは悲鳴を上げ岸から二メートル位の所まで勢いよく落ちていった。たがトミジは沼の中で立ち上がる。腰の辺りまで水に入っているだけで本人もきょとんとしていた。


「なんだ 浅いや、この沼 」


 トミジの言葉にホッとしたが、僕は早く上がって来いと急かした。なぜか嫌な予感がしたのだ。


「分かったよ 」


 トミジは岸に向かって一歩踏み出すと、あれっという顔をした。そして、もう一歩踏み出した時には泣きそうな顔になっていた。


「どうした、トミジ 早くっ 」


 僕は岸からトミジに声を掛けるが、トミジはそれどころではないと必死の形相で一歩一歩と歩いてくるが、その歩みは遅く、また気のせいかだんだんと沈んでいく感じに見えた。そして、ついに歩みを止め泣き出した。トミジは、やはり気のせいではなく今はもう胸の辺りまで沈んでしまっていた。

 トミジは、足が重くて歩けないと大声で泣いている。そう言ってる間にも肩近くまで沈んでいた。

 底なし沼。僕は本で読んだ話を思い出した。沼の底が泥になっていて、歩こうと力を入れる度に泥の中に減り込んでしまう。それを抜こうと力を入れると更に深く減り込んでしまう。そして、動けなくなりそのまま泥の中に沈んでしまうという恐怖の沼。僕は本で読んだ時、怖くて眠れなくなったものだ。


 この人喰い沼も、その恐怖の底なし沼だったのだ。


 だけど、僕はその為の用意もしてある。急いでリュックサックから縄を取り出すと、片方に懐中電灯を結びつける。そして、懐中電灯を持ち、トミジに向かって投げた。普段、野球をして遊んでいたのでコントロール良く、トミジの前に落ちた。


「早く、掴まれっ トミジ 」


 トミジは懐中電灯を掴むと、縄を手首にグルグルと巻いた。


「よーし 引くぞ 」


 僕は両足で踏ん張り、思い切りトミジを引く。すると、トミジの体が少し浮き動いた。


「いいぞ 自分でも動けっ 」


 泥から抜ける、ズボッズボッという音が響き、少しづつトミジの体が沼から出て岸に近付いてくる。僕は夢中になって、トミジの体を引いていた。

 そして、トミジの体がだいぶ岸に近付いた時、トミジが僕の方を見て再び泣きそうな表情をする。どうしたんだ、もう少しじゃないか。僕は不思議に思いながら、ふと自分の足元を見て泣きそうになった。斜面の上で踏ん張っていた筈だった。それが今は膝まで沼の中に入っている。夢中で縄を引いていたので斜面をずり落ちていたのに気付かなかった。 僕は恐る恐る片足に力を入れて抜こうとした。けれど、力を入れた方の足がもっと深く入ってしまう。斜面の土に指を立てて腕の力で足を抜こうとしたけど、斜面の土が崩れて穴が掘れるだけで、まるで蟻地獄にはまった蟻みたいに這い上がることが出来なかった。


「助けてえぇーーーっ 」


 もう叫ぶしかない。声の続くかぎり大声で助けを呼んだ。トミジはまた胸の辺りまで沈んで泣きすぎて声も出ないようだった。僕ももうお腹まで沼に沈んでいた。必死に叫び続ける。でも、こんな山の中に来る人はいないし、付近にも人影はなかった。


 トミジはもう首まで沈んだ。僕も胸まで沈んで動けない。頭の中に両親の顔が浮かぶ。

・・・ごめんなさい 言うこと聞いて来なければ良かった ・・・


 僕はいまさら後悔したが、もう遅かった……。



 * * *



 もう声も出せなくなっていた。横を向いてトミジを見ると、頭まで沈んだトミジは上を向いて必死に息をしようとしている。だけど、僕の見ているうちに、プツンとその顔が沼の中に沈んだ。あとには小さな波紋と(あぶく)だけ……。


 トミジが死んだ。僕ももうすぐ死ぬ。僕の頭の中で色々な物がグルグルと回る。でも、結局思うのは”死にたくない”それだけだった。

 もう頭まで沈んできた。僕もトミジと同じように上を向いて息をする。夏の太陽が眩しくて目を開けていられなかった…………。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ