足止め
マルメロの宿に泊まった翌日。
イヴェットはベッドの住人になっていた。
辺境の街までたどり着いた安心感か、もしくは緊張続きの中、魔犬に襲われたことで気力を使い切ってしまったのか。
イヴェットは夜のうちに熱を出した。意識がもうろうとするほどの高熱ではないが、体は重く動けない。頭の中も霞がかかったように、ぼんやりする。
「予定は未定とはよく言ったものです。急ぎではありませんから、ゆっくり治しましょう。二、三日は大人しく寝ていてください」
カイラはそう小さな子供を諭すように宥めた。カイラの言いたいことは理解しているが、隣国まであと少し。イヴェットはここに留まるよりも先に進みたかった。
「もう家を出てから九日も経っているわ。早く国から出ていきたい。馬車に乗っているだけなら眠っていられるし、きっと大丈夫だと思うの」
「駄目です。無理をしたところで、その先動けなくなったりしたらどうするのです? ここはちゃんと体を治すべきです」
「でも」
「それにここ以上に安全な宿が隣国にはありません」
それを言われると弱い。カイラはとても強いけれども、それでも体調が悪く碌に動けないイヴェットを庇いながら守ることはできない。イヴェットは大きく息を吐いた。
「カイラの言うことも、ちゃんとわかっているの。でも、どうしても早く国を出たくて」
「悪い方に考えすぎです。ここはもう辺境の街なのです。体調が戻ればすぐにでも取り戻せます」
「そうね、そうよね」
「では早く良くなるよう、少し眠ってください」
先に進むことを諦めたイヴェットは体の力を抜く。気負いがなくなれば、体は素直につらさを訴えてきた。
「力が少しも入らない。体が鉛のようだわ」
「これから熱が上がってくるかもしれませんね。お薬を用意しておきましょう」
熱を出したのは本当に幼い時だけだ。こうして寝込むほど体調を崩すことは、ほとんどない。だから余計にこのだるさは堪える。
イヴェットの魔力は潤沢で、自分自身をいつも保護している状態なのだと聞いたことがあった。
「あら?」
「どうしました?」
カイラが縫物をしている手を止めて、聞いてきた。
「わたくし、魔力が多いから体調を崩すことなんてほとんどないじゃない? 動けなくなるほど魔力も使っていないのに、どうして寝込んでしまったのかしら」
「……そう言えばそうですね」
カイラも難しい顔をして考え込む。そして、忘れていたことを思い出した。
「これだわ」
手首に嵌っているバングル。
魔力を吸うと言っても随分と少ないため、すっかり忘れていた。
「なるほど。魔の森で聖魔法を使ったから、体の中のバランスが崩れてしまったのですね」
納得、というようにカイラは頷いた。
「魔力が回復すれば動けるはずね。明日には動けるようになるといいのだけど」
「急がなくても、ゆっくりしてもいいと思います」
「ゆっくりしていることが不安なの。ねえ、いつでも移動できるように準備してほしい」
「では、準備だけでも。でも、回復するまではここに留まりますからね」
しっかりと念を押されたが、それでもいつでも出かけられる状態はイヴェットの気持ちを明るくした。カイラは渋々と言った様子で、準備のために買い物に出かけた。
◆
馬車の手配や、明日の食料など足りないものの買い足し。
初めての街なので、それなりに時間がかかるものだが、カイラはすぐに戻ってきた。
「どうしたの?」
驚いて理由を聞けば、彼女は扉を大きく開けた。そこには騎士服を着たウィルフレッドがいる。
「明日の馬車の手配に行ったら、しばらく城門が封鎖されると言われまして」
「封鎖? 何があったの?」
「昨日の魔犬の大量発生が原因のようです。早くて二日、長くても十日ほど街の外に出られないそうです」
カイラは扉の外に立つウィルフレッドに視線をちらりと向ける。ウィルフレッドは微笑んだ。
「街で会ったんだ。彼女から君が熱を出したと聞いた」
「ちょっと疲れが出てしまったみたい」
深刻になってほしくなくて、笑って見せた。実際、眠ったおかげか、先ほどよりははるかに良くなっている。熱も上がってくるかと思っていたが、それもなく。体は先ほどよりも軽い。
「確かに、ひどくはないようだ」
「もしかして心配でお見舞いに来てくれたの?」
「ああ。大丈夫とは聞いたんだが、無理しているのではないか、と――」
言葉の途中で、ウィルフレッドは目を見開いた。ためらうことなくイヴェットへと大股で近づいてくる。そして、イヴェットの手首をやや乱暴に掴んだ。その唐突な行動に狼狽えた。
「ウィルフレッド様?」
「これは」
「え、ああ」
手首に嵌る真っ黒のバングルに視線を向けた。寝間着のため、見えてしまったようだ。険しい表情をするウィルフレッドを不思議そうに見つめる。
「何かの魔道具みたいなのですけど、勝手につけられてしまって」
「誰に?」
「えっと」
視線が泳いだ。ここでアリソンの名前を出してもいいのか、判断がつかない。できれば穏便に、他国に行って自由になりたいのだ。大騒ぎされて、王都に戻されたくない。
ウィルフレッドは大きく息を吐いた。
「名前を言っても言わなくても、君は今から騎士団の保護対象者だ」
「え?」
上手く呑み込めなくて、目を丸くする。
「この魔道具、禁呪が使われている」
「これはただの呪いでしょう? 禁呪は封印されていて、使えないはずだわ」
びっくりする単語が出てきて、声が翻った。カイラも驚いたように目を見開いている。
禁呪はごく一部の人間しか知らない。イヴェットとカイラは教会にいる時に教えられた。
この大陸には様々な魔術が開発されており、今も便利な魔術が日々生まれている。人々のためになるものもあれば、そうでないものもある。魔術は道具だ。悪意ある思いで作られた魔術は人々を不幸にする。世に出たことで不幸をもたらした魔術を禁呪とし、聖国に封じている。その封印を施しているのが、大聖女であり、教会なのだ。
魔物も禁呪によって生み出された存在だった。禁呪を使うことで魔力が淀み、生物がその体に取り込み過ぎると魔物になる。人間も当然、魔力の淀みを取り込めばバケモノになる。ただし、肉体が耐えきれずにバケモノになるよりも先に死に至ることがほとんどだ。
「とにかくこれを早く外そう」
「呪文が刻まれているの。よほど高位の神官でないと、呪いを浄化できないわ」
「心配いらない。この街の教会は聖女には敵わないが、浄化能力はとても高いんだ」
ウィルフレッドはそう説明すると、上掛けをぐるぐるに巻いてイヴェットを抱き上げた。
「きゃあ!」
突然、体が持ち上がってイヴェットは声を上げた。バランスが悪くて、落ちそうになる。
「俺の首に腕を回して」
「無理! 恥ずかしい……!」
男性に抱き上げられたことなど一度もないイヴェットは顔を真っ赤にした。距離も恥ずかしいし、自分の格好が寝間着であることも恥ずかしい。
それに。
少し視線を上げればすぐ側にあるウィルフレッドの顔。その近さに気が遠くなる。
助けを求めるようにカイラへ目を向けるが、彼女は首を左右に振った。
「お嬢さま、そのバングルを外す方が重要です。恥ずかしさは我慢してください。大丈夫、着替えは持っていきますから」
「持っていくぐらいなら、今ちょっと着替えたらいいでしょう?!」
「外には出ないから安心してほしい。叔父上に頼めば、すぐに教会まで転移してくれる」
疑わしい目で彼を見る。転移はそう簡単に使えるものではなく、大抵は転移門を使って、主要都市に移動するものだ。
「歩かないなら、下ろして。一人で立てるから」
「呪いが効いていると体が動かなくなると聞く。だから大人しくして」
耳元で囁かれ、さらには抱き上げる腕に力が込められる。がっちりと押さえられて、イヴェットはますます気持ちが混乱した。あちらこちらに視線を彷徨わせて、この窮地から何とか脱出しようと考える。
「何を騒いでいるかと思ったら、随分とお熱いじゃない」
「ちが……!」
騒がしさに二階までやってきたロルフは微笑ましいそうに目を細めた。
「叔父上、丁度良かった。教会にすぐに送ってほしいんだ」
「ん?」
「イヴェット嬢は呪われている」
ロルフの顔から、笑みが消えた。