魔の森
魔の森、その名の通り、魔物が住む森である。
この道は魔物と遭遇しないように作られているらしい。それでも時々はぐれの魔物が出て来たり、別の魔物に追い立てられた魔物がこちら側に出てきてしまったりするそうだ。
この土地ならではの事は知らないが、二人は魔物について一般人以上の知識を持っている。聖女教育では聖魔法、魔物への知識を身につけ、時には実地訓練にも参加する。
魔物に傷つけられた人たちを治癒し、魔の穢れを払い。さらには土地の浄化を何度も何度もさせられた。これがまたキツイ。
もちろん未熟な聖女候補者。出す力も毎回ばらばら、精度も悪い。
それでも意識を保ち動ける聖女候補者はまだいい方で、魔物の断末魔と血の臭いで倒れてしまう人が圧倒的に多い。イヴェットも最初の頃は魔物の声を聞いただけで、腰が抜けていた。
懐かしく聖女候補であった頃を思い出していたら、何かが意識に引っかかった。
「あら?」
「むっ」
同じタイミングで護衛の二人が、険しい表情で窓の外を見た。
イヴェットも魔物の気配をはっきりと捉えた。一頭ではなくて、何頭もこちらに向かってきている。察知能力がある者は同じように魔の森の奥に目を向ける。
「大丈夫だよ。この馬車の護衛達は強い。それにこの馬車も早いからね。あっという間に振り切れるさ」
中年女性が声を低くしながら、安心させるようにイヴェットの腕をポンポンと叩く。だが、明らかに数が多い。このまま距離を保てたらいいが、魔物の勢いの良さから逃げ切るのは難しいように感じる。
何もしないままでいいのかとカイラに目で問えば、しっかりと頷かれた。
「料金に含まれているので」
「それでいいの?」
「いいに決まっています」
こういうドライなところ、嫌いじゃない。だが、この馬車に乗り合わせた人には怪我をしてもらいたくないという気持ちがイヴェットの中にある。護衛が討ち損ねた魔物を魔法で弾くことぐらいは構わないだろう。
警戒を解くことなく馬車は進む。御者は可能な限りスピードを上げた。皆が静かに黙っているため、御者の声と車輪の音が一層大きく聞こえる。
緊張して座っていれば、こちらに向かってやってくる魔物の姿がはっきりと見えるようになってきた。四本足で飛ぶようにして走っている。
「あれは……魔犬?」
「魔犬にしては、随分と大きいですね」
イヴェットの呟きに反応したのはカイラだ。先ほどまで我関せずと大人しく座っていたのに、窓から乗り出すようにして魔物を見やった。目を細めている。
「一、二……六、十二。後ろからもまだいそうです。随分と数が多いですね」
「あの魔犬、変わった色をしているわね。本来は闇のように真っ黒なのに……背中に黄色い縞模様があるわ」
「体も大きめですし、変異種かもしれません」
客もいつもなら騒ぐことはないのだが、あまりにも多い魔物の出現にどよめいた。御者も魔犬の姿を見たようで、手綱を小刻みに動かして馬をさらに急がせる。
馬車の揺れが激しくなり、スピードが上がる。イヴェットはカイラにしがみつき、何とかバランスを取った。
「おい! 追い付かれるぞ! もっとスピードを出せ!」
「これ以上はムリだ! 車輪がやられる!」
大声を出した客に、御者も大声で対応する。カイラにしがみついたまま、ちらりと窓の外を見れば、その表情まではっきり見えるほど近くに魔犬がいる。車輪の回る激しい音は悲鳴にも聞こえ、限界を知らせていた。
「俺たちが出る。馬車はそのまま進めろ」
二人の護衛は何やら覚悟を決めると、御者に告げた。御者はぎょっとして首を捻って護衛達を見やる。
「数が多すぎる。二人では無理だっ!」
「だがこのまま馬車を走らせても、追い付かれる。俺たちが足止めをしている間に騎士団を呼んできてもらいたい」
護衛の、固い言葉に客たちも息を呑んだ。
「あの」
緊迫した空気の中、イヴェットが変わらない声で割り込んだ。
「お手伝いします」
「無茶を言うんじゃない!」
ぎょっとした中年女性が悲鳴のような声を上げて、イヴェットを止める。イヴェットはやんわりとした微笑みを浮かべ、女性の腕を軽く抑えた。
「心配してくださって、ありがとうございます。これほど温かな気持ちになったのは本当に久しぶり」
「お嬢さま、わたしはいつだって支えていますよ」
「そうだったわね」
がつっと車輪に何かが挟まった。車体が宙に浮く。
「車輪が壊れた! クソッ!」
御者の顔は真っ青だ。こうなってしまえば、衝撃に備えるしかない。誰もが衝撃を和らげようと体を小さくした。
「結界」
イヴェットはカイラにしっかりと抱きしめられたまま、馬車を魔法でくるんだ。地面に衝突することなく、馬車が止まる。
「は?」
何が起きたのかわからなかったのか、皆ぽかんとした顔になった。
「うんうん、上出来だわ」
「お嬢さま、わたし、出ます。結界を維持してください。あとは絶対に馬車から出ないようにお願いします」
カイラは早口に注意して、馬車の外に飛び出した。その両手には短剣が握られていた。
「……あのお嬢さんは一人で大丈夫なのかい?」
「ええ。わたくしの侍女はとても優秀なの」
無駄のない動きで、魔犬の群れに突入する。カイラは躊躇うことなく短剣を振るう。その動きに合わせて風魔法が魔犬に向けて放たれた。飛び掛かろうとしていた魔犬たちの首が鮮やかに落ちる。
「行くぞ!」
護衛達もカイラの後を追うように魔犬に向かっていった。カイラが取りこぼした魔犬を、護衛の一人が斬り飛ばした。
魔犬たちの纏う雰囲気が変わる。大きな口を開きよだれを垂らしながら、ひときわ大きな魔犬が怒りの咆哮を上げた。周囲にいた魔犬たちがそれを合図に三人に飛び掛かる。
一斉に襲いかかってくる魔犬を次々と切り伏せていく。その動きは連携の取れたもので、不安な動きはない。
ただ、とにかく数が多かった。躍動する魔犬の間を縫うように走り抜け、カイラは魔法を打ち込んでいく。地面に倒れる魔犬の数は増えていくが、森の奥から現れる魔犬は途切れがない。
イヴェットも三人の横をすり抜けて馬車の方へ向かってきた魔犬に次々と凝縮させた浄化の魔法を打ち込んだ。攻撃魔法は苦手でほとんど使えないが、魔物であれば浄化の魔法が通用する。浄化の魔法を凝縮させ、小石のようにして急所に打ち込めば倒すことが可能。
だが、急所を打ち抜かれたはずの魔犬は、一度もんどりを打つものの、それでも起き上がってくる。
「信じられない。浄化の魔法が効いていない」
「流石におかしい。ここの道の脇には魔獣除けが埋められているんだ。はぐれの群れだとしても、これは多すぎる」
御者が壊れた車輪を直している手を止めた。落ち着かない様子で次々に湧いてくる魔犬を見やる。カイラは調子に乗ってばんばん魔法を放って次々に滅している。そのペースがいつも以上に早い。久しぶりの討伐に興奮しているのか、ストレスが爆発しているのか。
イヴェットは眉を寄せた。
「どうしましょう。そろそろカイラの魔力が尽きますわ。彼女、魔力はそう多くないの」
「護衛の二人はまだ大丈夫だと思うんだが」
「あっ」
思っていた通り、カイラの魔力が切れた。まだ魔犬は残っている。魔犬は好機とばかり、護衛たちではなくカイラに向かって一斉に飛び掛かった。
「カイラ!」
イヴェットの悲鳴のような声が上がるのと、カイラに襲いかかってきた魔犬が吹き飛ばされたのは同時だった。
「え?」
「騎士団だ!」
御者の声に、奥へと視線をやれば、複数人の男たちが立っていた。騎士服に身を包み、手には長剣が握られていた。騎士服には汚れがなかったが、長剣にはべったりと血がついている。彼らは次々に魔犬を斃し、あっという間に殲滅した。騎士たちの連携の取れた鮮やかな動きに、イヴェットは魅入られた。魔法を纏わせた剣を振るう様が美しいとさえ思った。
「すごい。これが騎士団」
目の前の感動に打ち震えていると、騎士団の代表らしき人が馬車の方へやってきた。
「怪我人はいるか?」
艶やかな、どこかで聞いたことのある声。
驚いて顔を上げれば、御者に話しかける見知った顔。
短く刈り込んだ赤毛、それと対照的な薄氷のような青い目は印象的で間違いようもなく。やや汚れた感じがするのは、彼が先ほどまで魔犬と対峙していたせいに他ならない。
「ウィルフレッド様?」
呟くような小さな声であったが、彼には届いたようだ。顔がイヴェットの方を向く。
「……イヴェット嬢?」
思わぬ出会いに、言葉が出てこない。お互いに信じられない思いで見つめ合っていれば。
「もしかして、あんたかい! 婚約者がいながら、義妹とできていた男というのは!」
イヴェットを庇うように横から抱きしめたのは馬車で親身に話を聞いてくれた中年女性だった。
「は?」
「どんなに身分が高くても、やっていいことと悪いことがあるんだよ! こんなに可愛らしいお嬢さまを泣かせるなんて、男としてサイテーだね!」
中年女性の怒りに、ウィルフレッドは唖然とした。
「いや、ちょっと待て」
「言い訳は結構。騎士なのだから、心を入れ替えて婚約者を大切にするべきだ」
「だから、話を聞け。俺は彼女の婚約者じゃない」
ぴたりと女性の罵声が止む。中年女性は腕の中にいるイヴェットを見た。
「本当かい?」
「彼は成人するまでの三年間、護衛をしてくれた方です」
「悪かった、わたしの早とちりだ」
中年女性は肩を丸めてウィルフレッドに頭を下げた。彼は何でもないことのように頷く。
「いや、わかってくれたのならそれでいい。ここにいると危険だ。街に移動してほしい」
ウィルフレッドは部下に幾つか指示を出しながら、乗客に馬車へ乗るよう促す。カイラもくたくたになりながら、自力で馬車に乗った。それを見届けたイヴェットも馬車に入ろうとするが、その腰にがっちりと腕が回った。
「君はこっちだ。俺と馬に乗ってもらいたい」
「えっと、それは」
「先ほどの女性の話していた事情を聞きたい」
それは気になりますよね、と諦めたようにため息を落とした。