旅は未知なり、世間も未知なり
カイラは翌日にはイヴェットの希望をかなえるために動き始めた。毎日、街に出かけて、どっさりと荷物を持ってくる。
旅に必要な着替え、小物や簡単に食べられる食料。整理して鞄に詰め込むカイラをイヴェットは興味深く眺めていた。どれもこれも、庶民が持つには少し良い物。
それから平民がよく着ている動きやすいワンピースドレス。布はそこそこ、形も上品だけど、貴族の装いからするとものすごくシンプル。イヴェットの暮しでは、絶対に手に取らないようなものだった。
「カイラも教会暮らしが長いのに。よく知っているのね」
「奉仕活動で民家も回りますから。それよりも、持っていきたいものがあれば出してください」
「持っていきたいもの?」
「ええ。もうここには戻ってこられませんから」
そう言われても、思いつかない。クリーヴズ公爵家に繋がるものはすべて置いていくつもりだ。
「これと言って思いつかないわ」
「高価なものだけではありませんよ。エリノア様から頂いたものや、思い出の品など、手元に置いておきたいものはありませんか?」
エリノアから受け継いだ宝石類は後妻に取り上げられてしまっていて、イヴェットの手元にあるものは少ない。
とりあえず、宝石箱の中に入っているものをすべて取り出した。一級品ではあるが、宝石が小さめで子供が使うようなデザインばかりだ。
「それから別邸の方に取りに行くものはありますか?」
「別邸に置いてあるものは陛下から頂いたものばかりよ。持ち出すのは違う気がする」
国王が公爵家に置いておくと後妻と義妹に奪われると知って、別邸を用意してくれていた。社交をするときは、別邸で支度する。当然、豪華なドレスや宝飾品はそこに保管されていた。表向き、国王の別邸なので、パメラたちは立ち入ることすらできない。非常にありがたい配慮だった。
「そうだ、これだけは持っていくわ」
しばらく宝石たちを眺めていて、思い出した。机の引き出しを開け、飾り気のない木箱を取り出した。このペン入れのような木箱は二重底になっていて、物を隠すようになっている。
「アリソンに持っていかれないように隠していたのを忘れていたのよね」
中底を外して出てきたのは、どこにでもある鍵と燃えるような赤い宝石の付いた髪飾り。
「鍵、ですか?」
「どこの鍵かは教えてもらえなかったけど。これだけは手放さないようにとお母さまに言われていたから。二つともお母さまから聖国に行く前に頂いたのよね。懐かしいわ」
髪飾りを手に取って、そっと表面を撫でる。幼い頃大好きだった花を模っていた。この花はこの国の気候でしか咲かない花で、聖女候補として国を離れる時にエリノアがわざわざ作らせたのだ。
普段は忘れているのに、こうして手に取るとその時の記憶が蘇ってくるのだから不思議だ。
「木箱に入っているものは全部持っていきましょう」
「そうするわ」
柔らかな布で作られたポーチに入れ直して、カイラに渡した。
◆
家を出ると決めてから三日目。
人目を気にしながら、部屋から出た。ドキドキしながらカイラの後をついて行った。廊下からも窺えるほど、パメラとアリソンの騒ぐ声が聞こえる。今夜の夜会での準備で忙しいようだ。それでも気が付かれないように、息を潜めて外に出た。
イヴェットの部屋から裏門まで全く人に会わなかった。
未練などあまりないが、門を出たところで足を止め、屋敷を振り返る。
それなりの時間、過ごしてきたはずなのに辛さは全くなかった。
「お嬢さま、行きましょう」
カイラにせかされて、屋敷を離れた。少し歩いたところで辻馬車に乗り、王都の中心地まで移動した。
「すごい。あっさり家を出てきちゃった」
「お嬢さまはご家族に放置されてましたから。急がなくても、あと一週間は気がつきません」
「そうかしら?」
家族に認識されていなくても、家令や使用人達にはバレてしまうだろう。そう思って告げれば、カイラはいい笑顔を浮かべた。
「お嬢さまの専任はわたしだけです。自分の仕事以外のことは気にしていません」
それもまたなんだか寂しい気持ちになる。エリノアが生きていた頃から父ジェレミーとの交流が少なく、もしかしたらあちらも娘と思えないのかもしれない。
「お嬢さま、公爵家のことは忘れましょう」
「……そうね、これからのことを考えなくては」
「そうですよ。隣国に行って、色々な街を巡りながら、住む場所を決めましょう。気に入らなかったら、その先の国に移ってもいいですし」
カイラは二人で決めた計画を、さらに具体的に付け足して話す。
「わたくしにできる仕事もみつけたいわ」
「仕事は住む場所を決めてからでもいいと思いますけど。手軽に始めるなら、刺繍とか手仕事のものがいいかもしれません。最悪、安定するまで教会に就職してもいいですし」
二人でこれからの生活をあれこれ話しているうちに、楽しくなってきた。
「それで、ここからどうするの? 徒歩? それとも転移門を使うのかしら?」
「乗合馬車を使います」
乗合馬車と聞いて、瞬いた。言葉だけは知っているが今まで一度も利用したことはない。
「乗合馬車?」
「心配いりません。お高めの乗合馬車を用意いたしました」
「お高めだと何か違うの?」
「全然違います。乗り心地はもちろん、護衛もちゃんとつきます」
「そうなのね。でも、転移門を使った方が早いでしょう?」
貴族の娘が平民の使う乗合馬車にいるとは思われないかもしれないが、どうしても不安になる。イヴェットの勝手な思い込みで、最短で移動するべきと思っていた。
「転移門は高額で、商人以外の平民はほとんど使いません。悪目立ちしますよ。それに、逃亡には乗合馬車。これが鉄則」
「……どこのルール?」
「先日読んだ冒険物語にありました」
「それって、ヒロインがピンチに陥るための伏線じゃないかしら?」
「それもまた旅の醍醐味」
姉のようにいつも守ってくれるカイラのことは誰よりも信用している。ただし、こういう発想は理解しがたかった。
◆
王都から辺境の街に向かって、乗合馬車を乗り継いで移動した。
乗合馬車は街と街を繋いでいるため、貴族の移動のようにスムーズにはいかない。街と街の移動には一日かかるし、夜は無理に移動せずにそのまま街に泊った。
五日も経てば、イヴェットも慣れてきた。二人で泊る宿も新鮮で、毎日が楽しい。早く国を出た方がいいのだが、二人は無理に時間を詰めることはしなかった。
「そろそろ教会に行って、これを取ってもらおうかしら」
イヴェットは買い物をしながら、そっと右手首を押さえた。ブラウスの下に隠してあるバングルはゆっくりとであったが、確かに魔力を吸い上げている。夜になると少しだるさを感じるが、睡眠をとることで吸収された分が戻っているので命に別状はない。
「念のため、国を出てから教会に行った方がいいかもしれません。捜索されると見つかる可能性が高くなりますから」
今すぐ外さなくても問題ないので、イヴェットはそのままにすることにした。
「今日の夕方には辺境の街に着きますが、宿泊せずに隣国に移動してしまいましょう」
「わかったわ」
二人は辺境の街に行く乗り場へと向かった。乗り場には馬車が到着しており、何人かの人がすでに乗り込んでいる。イヴェットは昨日までに乗ってきた乗合馬車と違うことに、驚いてしまった。馬車はこの数日乗ってきたものよりもがっしりとしていて大きい。しかも、剣を持った護衛が二人もいる。いつもと違う様子に、足が止まった。
「辺境へ行く乗合馬車は初めてかい?」
「え、ええ」
後ろにいた中年女性が声を掛けてきた。イヴェットの驚きが目についたのだろう。安心せるように肩をポンポンと優しく叩く。
「辺境の街は魔の森が近いからね。護衛がいるのが普通なんだよ」
「魔の森?」
魔の森、と聞いて瞬いた。話は聞いたことがあるが、魔の森と護衛が上手く結びつかない。戸惑っていれば、小さく笑われた。後ろを振り向けば、そこには御者と話していた護衛の二人が立っている。どうやら会話が聞こえていたらしい。
「魔の森ははぐれの魔物が出るかもしれない。それで俺たち護衛が必要なんだ」
「なるほど?」
「わかっていなそうだね。でも、安心して大丈夫さ。今までも無事に街まで送り届けてもらっている」
中年女性は心配ないと豪快に笑った。
「時間なので出発します。乗ってください」
御者に声を掛けられて、皆、慣れた様子で乗り込んだ。
今回の移動はとても楽しい時間だった。辺境のことを知らないと知った乗客が、色々と情報を教えてくれる。カイラも辺境のことまでは詳しく知らないので、二人して感心して聞いていた。
わかったことは、辺境は他の街とは違って、城壁で囲われていること。
魔の森が近いため、いざという時の備えがあること。
聖女見習として経験を積むために魔物討伐へ行ったことがある。話を聞く限り、その時に立ち寄った街に造りがよく似ていた。カイラも同じことを思ったのか、どこか厳しい顔をしている。カイラの表情を不安からくるものだと思ったのか、乗客の一人が安心させるように笑った。
「護衛をつけること。これが守られれば、大抵のことは何とかなる。辺境騎士団も頻繁に魔物の間引きに入っているから、大変なことにはならない」
「もしかしたら、隣国に行く場合も護衛が必要ですか?」
「隣国に行く場合もそうだね。あちらの街も城壁がぐるりと囲っているから、道はどうしても危険だ。こうした護衛を雇っている乗合馬車なら安全だね。まあ、その代わり、代金が高いけれども」
そういうものなのか。
予定になかったので、言葉に詰まってしまった。
「難しく考えなくても。街に着いてから、色々と意見を聞いたらいい」
ある程度の情報収集して、世間話に移っていった。何故か、イヴェットは婚約者と義妹が浮気して、死んでほしいとまで言われてしまったという話をしていた。内心首を傾げながらも、質問されるまま話してしまったわけで。
乗客たちは何故か盛り上がっていた。
「お嬢さん、いいところの出身だろう? そんな男、捨てて正解だよ!」
「しかし、義妹に手を出す男なんて、本当にいるんだな。万が一結婚できても、後ろ指差されて非常につらい立場になるだけなのにな」
平民にとっても、滅多にいないクズらしい。しかも、正確な身分はわかっていなくても、お嬢さまとその侍女として認識されている。よほど浮いているのだろうと、がっくりしてしまった。カイラも聞いていて楽しいのか、いつもよりも気持ち顔が緩んでいる。イヴェットにしても、自分の話でなければ楽しめたかもしれない。
「そろそろ魔の森が近い。スピードを上げるぞ」
御者が客にそう声を掛けた。
「スピードを上げる?」
「魔の森を通り抜ける道は危険だ。はぐれの魔物がいてもいなくても、ここだけは走り抜けるんだ」
「知らないことばかりです」
言葉しか知らない辺境の街。
実際に移動してみて初めて知ることが多い。怖いという気持ちもあるけれども、世界がぐっと広がったように感じた。