他人の意思
かげろうの続きを綴るのであればこんなものだろうか。
人の目を見ずに暮らすのはとても気が楽だ。だから僕は目を合わせずに生活している。けれどもそんな僕を誰も良くは思っていないらしく、僕は誰からも声をかけられなくなった。高校の頃、僕は机にかじりついて、眠ったふりをしながら過ごす時間が多かったが、授業だけは真面目に出ていた。
毎日は退屈な砕けた時間ばかりが過ぎていく。人としての自分がだめになったことは自覚していた。
そして、僕は高校で孤立した。孤立して以来、そうであろうとして努めてきたように思う。誰の力も借りず、自分だけの力を信用してきた。しかしそのために他人の意思を軽んじて来たことも事実だった。僕は他人には善き人間であることを示していれば、それでいいと思っていた。他人の意思を理解するのは、実はとても難しいことである。殆どの大人はそれができない。常識の型にはめて考え、そこからずれないことを考えるに過ぎない。そして、子供らにその常識の枠を強要して、他人を理解したように見せかけの常識を強要する。実は大人が行っているその常識が偽善であり、本当のところはその人の為にならなくても、常識という合図で自己満足している。他人の意思はそこには関係のないことだ。しかしそれはとても寂しいことのように思う。だから大人になると寂しさがわかるのだろう。