参.杯
「さて」
雪原が立ち上がると、楼主もすっと腰を上げ、先に立って歩き出す。どこかに案内するようだ。柚月も続いた。
薄暗い、迷路のような廊下を行く。両側には装飾された障子戸が並び、どれも毒々しいほど鮮やかで、どこまでも続いている。
次第に宴会の声が遠くなり、ある障子戸の前で楼主がピタリと止まった。
華やかな装飾がされてはいるが、ほかに比べるとやや質素な障子戸だ。
「雪原様がお越しだよ」
内から「あい」と返事があり、すっと障子戸が開いた。楼主が「では、ごゆっくり」とぺこりと頭を下げて去ると、雪原は部屋に入った。廊下で控えていようとする柚月を、振り返る。
「柚月も入りなさい」
驚いた柚月が「えっ」と顔を上げると、雪原の目が、まっすぐに柚月を見つめていた
厳しい。どこか、冷たい目だ。
柚月は一瞬ためらった。
その部屋が遊女の部屋、つまり、寝屋だからだ。
何をしようというのだろう。
柚月は不安と疑念をかき消すようにぐっと拳を握りしめると、部屋に入った。
部屋は広くはないが二間続きで、部屋を分ける襖は開け放たれ、奥の部屋に布団が敷かれているのが見えた。
手前の部屋には、障子戸の両側に先ほどの同じ顔の禿が一人ずつ控え、もう一人、新造だろう、振袖姿の若い女が控えている。
そしてその隣。艶やか着物に身を包み、結い上げた髪にいくつもかんざしを挿した遊女が座っている。
派手ではない。が、そのたたずまい。華やかさがにじみ出ている。
この部屋の主だ。
まだ若い。控えている新造と、さほど年が変わるように見えない。だが、身にまとう妖艶さ。冷たいまでに無表情な顔は艶やかで、腹の内を見せない、花魁の顔をしている。
そう遠くないうちに、この見世の稼ぎ頭になるだろう。いや、もうすでにそうなであってもおかしくない。
そんな風格がある。
「柚月、こちらは白峯といいましてね。私の馴染みなのですよ」
雪原はそう言うと、今度は白峯に柚月を紹介した。柚月が一礼すると、白峯は愛想笑いひとつせず、冷たく艶やかな目で柚月をじっと見つめた。
「面倒を頼んで、すまないね」
雪原の言葉に、初めて白峯の口元がわずかだが笑んだ。年相応の、まだどこか幼さが残るその笑みには、雪原への親しみがにじんでいる。
「いえ、雪原様のお役に立てて、光栄でございます」
声もやはり艶やかで、花魁らしい響きがある。
「私もなかなか自由が利かない身になってしまってね。これからは、この柚月が代わりを務めるから」
雪原がそう言うと、横から禿がすっと盆を差し出した。
徳利と朱色の杯が二つ、のせられている。
「柚月」
「はい」
雪原は杯を一つ手に取り、柚月に差し出した。
「白峯と、杯を交わしなさい」
「え?」
柚月にも、雪原が言っていることは分かる。それだけに、意味が分からない。
杯を交わすということは、この白峯という遊女の客になれ、ということだ。今初めて会った、雪原の馴染みだというこの遊女と。
だが、雪原は冗談を言っているわけではない。柚月を見つめる目は、怖いほどに真剣だ。
柚月はちらりと白峯を見た。すっと目を伏し、静かに控えている。
前にも同じようなことがあった。
柚月の中で、数年前の松屋での出来事がよみがえる。
一室に呼び出され、師と仰ぎ、父と慕ったアノ人に、強い目で迫られた。
迷いがなかったわけじゃない。でも、ほかに道もない。そうして柚月は、言われるまま人斬りになった。
あの時と似ている。
だが、あの時のことに比べればこんなこと。
雪原の、怖いまでに真直ぐなまなざしを感じる。
柚月は差し出された杯を、じっと見つめた。見つめながら、自分に言い聞かせる。
命を取り合うわけじゃない。
どうってことない。
柚月は、心に蓋をした。
「承知しました」
そうして、真っ朱な杯を受け取った。