弐.白玉屋
「ほええ」
証はぽっかり口を開けて、大きな門を見上げた。かわいらしいものだ。雪原はその様子に笑みが漏れる。
「さ、行きましょう」
そういうと、雪原は慣れた様子で門をくぐった。
「僕、末原に来るの、初めてなんですよぉ」
証は、物珍しそうにきょろきょろとあたりを見渡す。
見たこともない、きらびやかな世界だ。
だが、好奇心が勝ったのは最初だけ。
格子越しに手を出してくる遊女、それに群がる男たち、客引き。
にぎやかだが、祭りとは違うその独特の雰囲気に、次第に気圧されだしたのだろう。
だんだん、柚月との距離が近くなり、しまいには、不安げにぴったりとついて歩くようになった。
そこに、酔っ払いがよろけてきて、「わぁ!」と悲鳴のような声を上げると、とうとう柚月の袖を掴んだ。
やれやれ。
柚月がその手をつないでやると、証は安心したのか、ぱっと明るい笑顔を見せた。
つられておもわず柚月の顔もわずかに緩む。
が、すぐに、なんで男と手をつながないといけないんだろう、という気になって手を放そうとすると、証と目が合った。
証は笑顔に不安を隠し、子犬のような目で柚月を見つめてくる。
この顔は反則だ。
柚月はかわいそうな気になり、しかたなく、そのままずっと手を引いてやった。
雪原はそんな柚月の様子を意外に思った。
随分落ち着いている。
証の反応が素直なところだろう。
雪原は、柚月もそうなるのでは、と密かに期待していた。普段の柚月を知っていれるからこそ、なおさらだ。
柚月は、年のわりに少々子供っぽいところがある。
だが、どうやら違う面もあるようだ。
柚月はきっと、様々な顔を持っているのだな、と、雪原は急に実感した。
柚月という名のまま。
満ちては欠け、欠けては満ち。様々な顔を持つ、月のようだ。
人斬りとしての名。
偽名だというのに。
雪原はある見世の前に来ると、格子戸に群がる男たちの横をすり抜け、すっと中に入った。
入り口に、「白玉屋」とある。
「こんな見世に、直接入れるんですね」
柚月が何気なく口にした言葉に、雪原は驚くと同時に確信した。
柚月は遊郭に来たことがあるのだ。それも、一度や二度の話ではない。この様子。通ったことがあるのだろう。
確かに、この白玉屋は末原でも有名な大見世で、呼ぶ遊女にもよるが、本来なら直接見世に出向くことはできない。一旦茶屋に立ち寄り、そこに気に入った遊女を呼んでもらう必要がある。その手順を割愛できるのは、特別なことだ。
柚月は、そんな遊郭の決まりを知っている。
さらに今も、雪原の目の前で、出迎えた若い衆に慣れた様子で刀を預けている。
ふいに柚月が振りむき、雪原と目が合った。「どうかしましたか?」という目を向けてくる。雪原はその目をじっと見返した。
子供のようだと思うこともあれば、教えてもないのに小姓らしい立ち居振る舞いをし、時に妙に冷静で、おまけに大人の遊び場のことなど知っている。
一人の人間なのに、中身がバラバラ。
つかみどころがない。
不思議な子だ。
本当に月のように、ひとつに定まらない。
雪原がそう思ったところに、笑顔の面をつけたような初老の男が、揉み手をしながら現れた。
楼主だ。
「よくおいでくださいました、雪原様」
その妻、内儀もついてきている。
「ささ、どうぞ」
案内された部屋では宴が催され、舞や音楽が披露された。
だが不思議なことに、遊女が現れない。
代わりに禿が二人、雪原の両側に座って癪をしている。
双子なのだろう。服装や髪型だけでなく、顔まで同じ。
同じ市松人形が並んで置かれているようだ。
禿とは、遊女に仕え、見習いをしている女の子で、幼い子では六歳くらいからその勤めをする。
ここにいる禿たちは、さらに幼いようだ。
だが、しっかり勤めを果たしている。
柚月と証には食事が出され、それを食べ終える頃に、「では、今日はこのあたりで」と雪原が言うと、一同一斉に下がっていった。
賑やかだった部屋が急に静かになり、ガランとした。
禿たちもいなくなっている。
「では、我々もこれで」
清名が証を連れて立ち上がった。
柚月も続こうと腰を上げる。
だが。
「柚月はもう少し付き合ってください」
雪原が引き留めた。
「じゃあ、またぁ」
驚く柚月を置き去りに、証が元気に手をふっている。
雪原が笑顔で手を振り応えるうちに、証と清名は部屋を出て行った。
二人が去ると、部屋はシンと静かになった。いつの間に来ていたのか、部屋の隅に楼主が控えている。
雪原が徳利を持ったので、柚月は急いでそれを受け、注いだ。
「不思議な子ですね」
雪原は、今度は口に出した。柚月は「え?」と聞き返すような顔をしたが、雪原が「いえいえ」と首を振るので、それ以上聞かず、一杯注ぐと徳利を置いて脇に控えた。
酒に付き合うために引き留められたわけではない。
そんなことくらい、柚月も察している。
そして、突然様変わりした部屋の様子。
これから、何があるというのだろう。
不安を煽る。
柚月は緊張が高まり、神経を研ぎ澄ませた。
雪原はじっと、杯の酒を見つめている。
何が見えるわけでもない。
酒を見ているわけでもない。
ただ考えている。
柚月のことを。
そして、自分がこれからしようとしていることを。
柚月に、させようとしていることを。
雪原は、意を決したようにくっと杯を飲み干すと、急に酒が苦く感じた。