弐.宰相様のお戯れ
ええええええええ!
と叫びそうになったのを、柚月はかろうじてこらえた。が、代わりに、限界を超えるほど大きく目を見開いている。
証はご機嫌な笑顔で振り向くと、居ずまいを正し、柚月に一礼した。
「清名証と申します。お目にかかれて光栄です。柚月さん」
その礼儀正しさは、確かに清名の息子だ。
柚月は慌てて座りなおすと、一礼を返した。
動揺が目に表れ、視線が畳の上をコロコロと左右に彷徨う。
顔を上げると、ニコニコした証の顔があった。
「いやあ本当、柚月さんに会いたかったんですよ、僕。昨日はちゃんと挨拶もできなかったから」
屈託のない調子だ。
その横で、清名の眉がピクリと動いた。
「昨日?」
厳しい顔になる。
「お前、昨日道場から逃げ出して、どこに行っていた? 田中と吉田が稽古を中断して、街まで捜しに行っていたぞ」
「え? いやあ」
証はごまかすように宙を見た。目が泳いでいる。
「やっぱり、そうでしたか」
雪原が笑った。
「椿が街で会ったと言っていたから、また稽古をさぼっていたのだろうと思いましたよ。逃亡癖は相変わらずですか」
「いや、だってぇ。姉上だけでも大変なのに、その上父上まで道場に来るんですよ? しかも朝から」
証はよほど嫌なのか、どんな不味い物を口にしたらそんな顔になるのだろう、というくらい、顔をゆがめている。
「どういう意味だ。何が悪い」
清名の声は厳しい。が、父親の響きがある。
柚月一人、話について行けない。
「清名は道場を持っていましてね。暇さえあれば、門下生たちに稽古をつけているのですよ」
呆気にとられている柚月に、雪原が説明した。
椿が言っていた「道場」とは、このことか。
柚月は一つ謎が解けた。納得が顔に出ている。その顔を見る雪原の目が変わった。
「証も椿と会うのは久しぶりだったのではないですか?」
雪原は証に向き直ると、何気ない調子で話をふった。
わざとだ。
雪原は笑ってはいるが、悪い顔をしている。
証はそれに気づかない。
だが、逃げることへの感度はいい。
「そうなんですよぉ!」
話を逸らす好機を逃すまいと飛びつき、そして、雪原の思惑通りの方向に話を運んだ。
「でも一瞬見違えちゃいましたよ。きれいになりましたよねぇ、椿。ま、元からきれいでしたけどぉ」
証の無邪気な声に、柚月の眉がピクリと動く。だが、それ以上は表情を変えず、膝の上でぐっと拳を握りしめた。昨日の感情が蒸し返されるのを、畳をじっと睨みつけて堪えようとしている。
その様子に、雪原はニヤニヤが止まらない。
片手で口元を覆って隠そうとしているが、隠しきれていない。
「あ、そうそう、柚月は知りませんでしたね」
わざとらしい声だ。
「証と椿は、幼馴染みなのですよ」
にこりと微笑んだ。
すべてを見透かしたような笑みだ。
柚月はカッを頬を赤くすると、真一文字につぐんだ。雪原の人の悪い笑顔が、柚月を見つめている。
――この人は…!
柚月の頬がムーっと膨らむ。
雪原は、昨日柚月が不機嫌だった理由に、当然気づいていた。
椿は街で証に会ったと言っていた。
その話しぶり。
久しぶりの再会を喜んでいた。
親しげに話したに違いない。
そしてその様子を見て、柚月はやきもちを焼いたのだ。
二人がただの幼馴染みとも知らずに。
雪原にしてみれば、こんなに面白いネタはない。
当然、「あの二人は幼馴染みだ」などと、あっさり教えるわけがない。
すべて承知の上でわざわざ証を招き、昨日の話まで持ち出して、柚月の反応を楽しんでいるのだ。
完全に踊らされている。柚月はぐうの音も出ない。がくんと肩を落とし、畳に手をついた。
――それ、先に行ってくれればよくないですか⁉
とも言えず、じろりと雪原を見上げる。
その視線の先で、雪原は勝ち誇ったようにニヤニヤしている。
――くそぉ。
柚月はうなりながら突っ伏した。
悔しい。
悔しいが、雪原にはかなわない。
「どう、したんですか?」
突然倒れるように伏した柚月に驚いて、証は目を丸くした。