壱.こんぱくと
その優しさは諸刃の剣。
人を助け、その分、己を切り裂く。
平穏は時に人を狂わせる。
心に咎をもつ者ならなおさら。
なら、優しい咎人は、平穏な日々に放たれると、どうなってしまうのか――。
***
年が明けて、一月。
雪原の別宅。
底冷えする台所で、朝食の片づけをしながら、雪原麟太郎の愛人、鏡子は、隣にいる椿の様子を気にしている。
ため息こそついていないが、椿の顔は、つまらないな、と言っている。
この娘にしては、珍しいことだ。
だが、その理由も、鏡子にはすでに分かっている。
柚月だ。
柚月一華。もとは政府に戦を仕掛けてきた組織、「開世隊」お抱えの人斬り。
決して短身ではないが、夜の闇では女と見間違うほどの華奢な身の青年だ。
だが、その剣の腕。
彼の容姿からは想像しづらい。
先の戦の前には、独りで政府要人を数多く手にかけた。
色々あった末、今は雪原の小姓をしている。
正確に言えば、陸軍二十一番隊所属宰相付小姓隊士だが、細かいことはいい。
雪原は、今やこの国の宰相だ。将軍を支える身、政府の中で将軍に次ぐ地位にある。
その雪原が、かつての敵である人斬りを小姓に抱えているのだから、この世はおもしろい。
だが小姓と言っても、主に城の外でのことを任せたい、と言われ、柚月はここ、雪原の別宅の離れを自室として与えられて暮らしている。
椿はこの柚月に会えるのを、心の内で楽しみにしていた。
自分でも気づかないうちに。
椿は雪原の世話係だ。
ここしばらく、仕事が忙しい雪原に付いて椿も城に詰めていたのだが、先日、雪原がいったん本宅に戻るというので、椿はこの別宅に帰ってきた。
柚月と顔を合わせるのは久しぶりだった。
だが。
最近の柚月は部屋にこもったきり、食事と風呂と厠以外、出てくることがない。
たまに出て来たかと思えば、離れにある自身の部屋の前の庭で、刀を振っている。
それも、何かをかき消すかのように、一心不乱に。
そして疲れ果て、廊下に寝転がると、また部屋に戻っていく。
今日など、そのまま庭にへたり込んでいた。
雪がちらつきそうなほどの寒空の下、自分の限界も分からないほど、打ち込んでいたのだろう。
それほど、最近の柚月は何かにとらわれている。
ろくに言葉も交わせていない。
とうとう椿の口からため息が漏れた。
見かねた鏡子が使いを頼み、「いろいろ買ってきてほしいから」と、柚月に一緒に行ってやってほしいと頼むと、意外にも素直受け入れ、二人で出かけて行った。
よく晴れた午前、冬の空気は冷たい。
だが、街は活気に溢れている。
戦の反動もあるだろうが、海外との国交を断つ政策「封国」が廃止されたことで、海外文化の波が一気に押し寄せ、街全体が生まれ変わろうとしているような勢いがある。
通りを籠が行く。
封国下でも貿易が許され、異国の人々が行きかっていた横浦では、海外製の馬車が走っていた。
そう遠くないうちに、このあたりでもそんな光景が見られるようになるんだろうな。柚月は遠ざかっていく籠を目で追いながら、ぼんやりとそう思った。
柚月のザンバラ髪のような無造作な短髪を、冬の風が撫でる。
その隣で、椿が自身の手にはあっと息をかけた。
「寒いですね」
そう言ってちらりと見上げると、柚月も椿の方を見ている。
目が合った。
柚月は、久しぶりに椿の顔を見た気がした。
白い肌、明るい色の髪は絹糸の様に繊細で、目はこの国の者にしては珍しく、緑が混ざっている。笑えば、鈴を転がしたような声だ。
さらに今は、その白い頬が寒さでほんのり赤く染まっている。
相変わらず、かわいい。
柚月は急に恥ずかしくなって、慌てて話題を探した。
だが。
「城はどう? 忙しそうだった?」
そんなことしか出てこない。
聞くまでもない。
忙しいに決まっている。
当然だ。
咄嗟の話題と言うのは、なぜ、仕事か天気の話になるのだろう。
自分の引き出しの少なさに、柚月は一人かってに落胆した。
だが椿にしてみれば、そんなとりとめのない会話さえ久しぶりだ。
嬉しい。
それが顔に表れ、ぱっと笑顔になった。
「ええ、私には詳しいことは分からないんですけど、皆さんお忙しそうです。清名さんもずっと城に詰めてらして。でも久しぶりに帰るっておっしゃってたから、きっと、今頃道場ですよ」
声も弾んでいる。
「道場?」
柚月は思わず聞き返した。
清名は雪原の腹心の部下で、今は宰相である雪原を補佐する、宰相補佐官になっている。
寡黙で忠誠心が強く、いかにも武士といった感じの男だ。
だが、道場とは?
初耳だ。
「あ、すみません、ちょっと」
聞き返した柚月の声と重なるように、椿は薬屋を差した。
鏡子から何か頼まれたものがあるのだろう。
「すぐ戻ります」
そう言うと、椿は笑顔を残して薬屋に入っていく。
柚月は店先で待つとにした。
店の前の通りを、人々が行きかう。
柚月は、それをぼんやり眺めた。
白い息が、ふわりと舞って消える。
ふいに、通りを行きかう人の奥、はす向かいの小間物屋が目に入った。
棚に、女物の小物が見える。
柚月がふらっと近づくと、愛想の良い店主が顔を出した。
「おや、柚月様」
何度かこのあたりを行き来するうちに、顔なじみになっている。
「何かお探しで?」
柚月は「ああ、いや」とあいまいな返事をしたが、さすが商売人。
「贈り物ですか?」
人のいい笑顔で追撃してくる。
柚月はなんだか恥ずかしくなり、「うーん」と一瞬宙を見たが、観念した。
「はい」
としか答えなかったが、その様子から、女への贈り物だと容易に察しがつく。
店主はにこやかに頷いた。
「これなどいかがでしょう」
そう言って、銀色の小さな金属製の入れ物を差した。
円柱を平たくしたような形の物で、表面に細かい模様が彫られている。
塗り薬を入れる物に似ているが、その割には豪華なつくりだ。
柚月が、何に使うのだろうと思っていると、それを察したように店主が手に取り、パカッと開けて見せた。
中は、鏡になっている。
「舶来の物で、こんぱくと、というんですよ」
店主はにこやかに説明したが、柚月の耳には届いていない。
こんぱくとが開くのを見た瞬間から、目をキラキラさせている。
単に珍しい、というより、こんなところに鏡が! という感動があった。
柚月は店主からこんぱくとを受け取ると、まじまじと見た。
――きれいだな。
月を見るようにかざす。
ふと、嬉しそうな椿の顔が重なった。
「お似合いになると思いますよ、椿様に」
「え⁉」
店主の言葉に、柚月の肩がびくりと跳ねた。
店主の方はは相変わらず、人のいい笑みを浮かべたまま柚月をじっと見ている。
「ああ、いや」
柚月は慌てて言い訳しそうになったが、すぐに、うっと黙った。
店主の笑顔が、全く動じない。
何を言っても、見透かされそうだ。
「椿様はどこか、異国の雰囲気をお持ちですから」
店主が何気なく加えた言葉に、柚月ははっとした。
確かにそうだ。
椿の肌や髪、目の色は、横浦で会った異人たちに似ている。
だが、椿は彼らほどでもない。
うまく言えないが、薄い。
そんな感じだ。
それがまた、彼女に不思議な雰囲気を与えている。
よく見ると、店にはほかにも舶来品らしき物が並んでいる。
横浦の露店の様だ。
都の小間物屋にこれだけの品が並ぶということは、それだけ、貿易が盛んになったということだろう。
柚月はこんぱくとを買うと、店先で頭を下げる店主に見送られながら、小間物屋をあとにした。
椿は喜んでくれるだろうか。
想像すると、なんだかうれしくなりわくわくする。
抑えきれず、にやにやしながら柚月はこんぱくとを袖にしまった。