散歩道
「もぉ、何言ってるか全然わかんない!」
癇癪を起こした娘が甲高い声で叫んだ。あれはいつのことだったか、あの子が中学生くらいの頃だからかれこれ十年は経つだろうか。わからないわけがない、わかろうとしないだけだと娘の手をつかもうとして振り払われた。つかみ損ねた瞬間、薄い肉の下に骨を感じる。
「パパ、ほら、お姫様の冠だよ」
急がなくても公園は逃げはしないのに、ぐいぐいと僕の手を引っ張って娘が見せてくれた連翹。伸ばし放題の枝が噴水のように広がり金色の花を隙間なく咲かせていた。早いうちに妻を亡くしてしまった僕は、普段は母に娘の面倒を頼んでいた。年老いた祖母を引っ張りまわすには遠慮があるのか、その分もたまの休みに僕と散歩に行くときは一時も地面に足がついてることはなく、はずむ足取りでひっきりなしに話しつづける。三日前から一緒に見ようと約束していた連翹を指差しながら僕の手を引っ張りつづける娘の笑顔は、金色の花冠に誰よりもふさわしいと思った。
全く会話がなくなった時期もあった。娘の部屋にいくと、いつもヘッドフォンをあてたまま僕のほうを見向きもせず、娘が何を聴いているのかすらわからない時期。二人で決めたはずの門限が破られることも多かったけれど、仕事で遅くなった夜は、食卓におにぎりが載っていた。
「セミさんが来るなって言ってるよ」
えくぼの出る手で自分の耳をふさぎ、しかめつらしてる娘に「遊ぼうって誘ってるんだよ」と教えた。骨の存在も感じないような柔らかな小さな手は、それでもしっかりと力強く僕の手を握りしめている。行こうかどうしようかもじもじとためらう姿に、吹きだしそうなのをこらえるのに必死だった。
おはようと赤く目を腫らした笑顔を何度も見た。その理由が話されることはなかったけれど、繰り返されるたびに、笑顔は妻に似てきた。コーヒーを受け取って礼を言うと、えへへと舌を出してまた笑った。門限はもう決めてはいなかったけど、決めていたときよりも早くに帰ることが多くなってきていた。
「ほら、パパよりおっきいよ」
長く伸びた二人の影を追って、得意げに振り向く。
今ではもう、二人並んでも影の大きさはそれほど違わない。
手を繋ぐのは何年ぶりだろう。
光沢のある真っ白な長手袋からぬくもりが伝わる。
顎をあげ、まっすぐに祭壇を見つめる横顔がベール越しに透けて見える。
ベールの上には小さな金色の冠。
外からは、やわらかな風にさらさらと擦れ合う葉の音が聞こえる。
ステンドグラスの向こうには、突き抜けるような空が広がってるはず。
祭壇で先に待っていた男性に娘の手を渡した。
僕に一礼した二人に、おめでとうと小さな声で囁く。
見たことのない笑顔は、やっぱりどこか亡くなった妻に似ていた。