Hungry Spider
そのに
「で? 逃がしちゃったわけ?」
私は腰まである黒髪を払いながら、話の続きを促した。そいつはぐるぐると鳴る腹を押えながら夜露で割った蜜酒を流し込む。
「いいんだよ。俺がそうしたかったんだから」
「……バカねぇ」
私達がいるのは、寂れたビルの地下にある酒場。入り口は普通の目に映ることはない。私達の額の皮膚の下に隠れた八つの目にしか映らない入り口。私達は獲物に似た姿に擬態し、その命を吸い取って生きる種族。私のくびれた腰も、そこにまとわりつく柔らかな黒髪も、月光色の肌も全て獲物を捕らえるための罠。
「本当にキレイだったんだ。見開いた瞳も震える唇も」
それは私達の姿を見た獲物が恐怖に震えた姿でしょう。
そいつは本来食糧でしかありえない獲物に恋をしてしまった馬鹿な男。
確かにその子はキレイな笑顔をもっていた。柔らかくてとろけそうな肢体も。キラキラと細かな粉のような光をはじくネックレスをいつもしていた。私の目から見ても食欲をそそるその姿。
そいつはその子にだけは手を出さないと誓い、他の目にとまる獲物をかたっぱしから捕らえては空腹を紛らわせていた。私達の種族は獲物に比べ圧倒的に少数派だ。逆に狩られることのないように、ひそかに獲物に近づくために、私達は息を潜めて暮らしている。だからあまり派手にやられるとこちらが迷惑するのだけども、私はそいつを黙ってみていた。たまに私達だけが利用できるこの酒場で顔を合わせる数少ない知り合いでもあったことだし。
三日前、そいつが恋した子が罠にかかった。いつものなわばりから足を伸ばしてきた他の奴の罠に。私も何度かみかけたことのある奴だった。自分が恋をした子を守るために姿を晒し敵を追い払ったそいつの差し出した手を、その子は振り払った。ただ、助けてと繰り返し怯えつづけた。確かにそいつと、追い払われた奴は似たような姿をしていたわけだから無理もないのかもしれない。馬鹿な男は、その子に逃げるべき方向を指差してから自分の巣に戻った。
「あんた、何にも食べてないの? それから?」
「……まぁ、そのうちにな」
ぐったりと蜜酒のグラスを抱え込むようにカウンターによりかかるそいつの目はどんよりとして。ああ、なんて馬鹿な男。
「子孫も残さずに死んでいく気?」
私達は群れも作らなければ、つがいになる習慣もない。そんなことをするには絶対的に数が足りなさ過ぎる。そして女はもっと少ない。女に出会うことなく生涯を終える男も多いことだろう。女は(獲物に比べて)長い生涯のうちに一度だけ出産をする。大体四つか五つの命を生み出して育て、また一人に戻る。
「ねぇ、あんた、私の巣に行こうよ。私があんたの子孫をつくってあげよう」
「……お前、物好きだな」
重く濁った八つ目を皮膚の下に隠させ、私達は巣に戻る。擬態をとき、私は黒髪をするするとそいつにまきつけ愛撫した。
手首にまきつき、脇をくすぐり、背筋を撫ぜ。
それぞれの意思をもった黒髪の先は銀色の糸に変わり、腰をひきつけるように縛り付け、足が動かないように押さえつけ。
赤く小さな八つ目が濃く淡く瞬いて、男が溺れている快楽を私に伝える。
舌をからめ、
唾液を吸い上げ、
ゆっくりと、ゆっくりと。
熱く、とめどなく、私の中に流れ込み続ける。
私達は獲物を食べるときも痛みは感じさせない。罠にかかった獲物はとろけるような快感の中に落ち込んでそのまま這い上がってはこれないのだ。
今私の下にいる男はその快感に溺れているはず。その意味すら気づかないくらいに。
今まで散々獲物にしてきたことが自分に起きているなんて思いもしないことだろう。生まれて初めて味わう快感に身をゆだねている。
ねぇあなた。あなたのあの子にも、この快感を与えてあげることができたのよ。
でもあなたはそれを選ばなかったのね。
「馬鹿ね」
耳元で呟いてあげると、弱弱しく私の腕を撫でさすった。首に巻きついた髪の上から、つぅっと舐めあげる。
搾り出すような深い吐息。もう声を出すこともできないらしい。
大丈夫よ。ちゃんとあなたの子孫は残してあげるから。
私は巣の隅に転がるネックレスを見つめる。
暗闇の中で光の粉を散らすそれにあなたは気づいていたかしら。
もう答えることはできないわよね。
とても甘く舌でとろける最後の一口を、とくんと下腹にうずきを感じながら飲み干した。