穏やかな永遠
「廃墟チェイン」という舞台設定を同じにして自由にお話を書くイベントが昔ありまして。
それにこっそりとのっかったものです。
こぼれた言葉に奇妙な既視感があることに気づく。さっきも同じ言葉を言わなかったかしら。
彼はテーブルごしに微笑んでいる。
「どうしたの?」
「ううん」
私は切り分けたエビフライを口に運ぶ。口の中で脂がはじけて「あつっ」とつぶやいてしまった私を、彼は「ほんとに猫舌だよね」と笑った。
久しぶりの穏やかな時間。
当ても無くドライブしてたどり着いた山の中にぽつんとあるドライブイン・レストラン。天窓から夏の日差しが差し込んで狭い店内をはっきりと照らしている。外は強烈な日差しで、車から降りたときは軽いめまいがしたほどだった。クーラーの心地よく設定された風のせいなのか、天窓のガラス越しのせいなのか、店内の光ははっきりとしてはいるが、痛いほど明るいわけでもなく、むしろ春の光のやわらかさをもっている。何組かの客がぱらぱらと席につき、一様に穏やかな顔をしていて、中でもオーナー夫妻と思われる老夫婦の仲睦まじさがほほえましいとともに小さな嫉妬がざわつく。
私達が付き合いだしてから5年。そろそろ職場でも「結婚の話とかないのか」と、いやらしい笑みを浮かべて部長が肩を叩くようになってきていた。それとなく将来の話をすると照れたような困ったような笑顔を浮かべる彼は、年を取ったら田舎に一戸建ての家を買ってのんびりしたいね、とかはるか彼方の将来を夢見がちに話す。まだ2人で老後を過ごす誓いすらしてないというのに。少し苛つきがちな私は、触らぬ神にたたりなしとばかりに核心にふれない彼に対して更に苛つく日が続いていた。ドライブの最中もやっぱり車内は静かで。その静かさが息苦しくて。でも何故かこの店に入ったとたん。
車内は静かで。
その静かさが。
「窓際に座ってよかったね。ほら、みてごらん」
彼がするように窓の下を覗き込むと、こんもりと生い茂る木々の下に白い波頭を光らせる小川がきらきらと流れていた。
「綺麗ね」
「うん」
私達はとりとめのない話をしつづける。共通の友人の話、田舎の母の話。お互いの職場での笑い話。ああ、付き合い始めた頃はこんなにも他愛なく会ってない時間に起きたことを報告してたわね。いつも。バカみたいな笑い話や愚痴を聞いてくれるときの、あなたの穏やかな笑顔が大好きで、私を見つめる優しい瞳がくすぐったくて心地よかった。だからずっとそばにいて欲しいと思ったの。
5歳くらいの子どもが楽しそうな笑い声を上げた。甲高いけれど耳障りではなく、その子を見つめる両親の抑えがちにこぼれる笑い声がよりいっそう幸福感をあたりにふりまいている。
「かわいいわね」
「うん」
「昔はね、そんなに子どもがかわいいなんて思ったことなかったの。でも」
「俺も子ども好きだなぁ。でもさ、娘とかできちゃったら、俺、嫁にやれなくやっちゃいそうだよ」
あなたが思い描いた娘の母親の位置にいるのは、本当に私なのかしら。
そういえばうちの部長の娘がさ、そう楽しげによその家族の笑い話を教えてくれる。
よその家族の話なんてしたくないのよ。
嫌だ。せっかく久しぶりに穏やかに過ごしているのに。車から降りたときの苛つきがせっかく綺麗に消え去ったのに。この店に入ったとたん。
車から降りたときの苛つき?
私、苛ついていたんだっけ?
いえ、苛ついていたことは苛ついていた。だって、喉が渇いてせっかく見つけたレストランだったのに。車をとめてからしばらくは「そのこと」に気づかなかった。車を降りて、もう一度このドライブイン・レストランの建物をしげしげと眺めて、はじめて天窓のガラスが全て割られていることに気が付いて。
……え?
彼が着ているTシャツ、さっきまでくっきりとした青じゃなかった?
こんな薄い色だったかしら。
窓から見えていた濃緑の葉が照り返す光はこんなにやわらかいものだった?
「どうしたの?」
「ううん」
私は切り分けたエビフライを口に運ぶ。口の中で脂がはじけて「あつっ」とつぶやいてしまった私を、彼は「ほんとに猫舌だよね」と笑った。その穏やかな笑顔が大好きで、私を見つめる優しい瞳がくすぐったくて心地よかった。だからずっとそばにいて欲しいと思ったの。このゆったりとしたぬくもりがずっと続けばいいと思っただけだったの。遠すぎる未来だけじゃなくて、その遠い未来へ続いていくように、「今」の約束が欲しかったの。
知らなかったの。
苛つきが爆発してあなたの部屋を飛び出した後、あなたが入院したことなんて。
その前から、どんなに辛い治療でも望みが少しでもあるなら受けさせて欲しいと、医者に頼んでいたなんて。
それでも治る見込みは殆ど無いと言われてた事なんて。
あなたのお母さんから電話がかかってくるまで、知らなかったのよ。
ぱりん、と足元でガラスの割れた音。
明かりは天窓から差し込む光だけで。
見上げると天窓のガラスは全て割られていて。
天に向かって降る雪のように、細かな埃が赤みがかったやわらかすぎる夕日の光の中で踊っていて。
レジの横に置かれた、ただ灰色に見えるすっかり枯れはてた観葉植物。
埃をかぶったロウ細工のサンプルがならんだショーケース。
「冷やし中華始めました」の張り紙はぶら下がるように貼られていて、茶色く変色しところどころ破れている。
自分の力で開けることができたのが不思議なほどに重くさび付いたドアを、けたたましい音をさせながらこじ開けて外に出た。
夕暮れ時の風は飛び上がるほど冷たくて、キャミソールで剥き出しの肩にささる。
駐車場に停めてある自動車はどれも違法廃棄されたか、あるいは盗難車のなれの果てなのか、ナンバープレートがなかったり、タイヤがなかったり、それでも一応、それぞれにきちんと駐車の枠の中に停めてある。そう、このせいで、この駐車場に滑り込んだときはレストランの客が止めた車だと勘違いした。照りつける日差しをさえぎりながら額の汗を拭いた。運転してる間も静けさが苦しくて、でも、音楽をかける気にもならなくて。一人で運転してるんだから当たり前の静けさに苛ついていた。冷たいものを飲みたくて、きちんとほかの車がしているように駐車の枠の中に車を止めた。
ポケットから探り出した鍵を差し込もうとして、鍵穴が壊されていることに気づく。よく見れば、私の車だったはずのそれは、泥をかぶって白っぽく変色し、窓も割られハンドルやカーオーディオも持ち去られ、ほかの車の残骸と同様の姿をしていた。
夕日はあっというまに沈みきってしまい、あたりはとっぷりと暗い。腕には鳥肌が立っていた。背後に光を感じて振り向くと、レストランに明かりがついたように見え、ドアに駆け寄る。やっぱりドアはけたたましく音を立てて。店内は先ほどみた廃墟の姿で。何度も開けたり閉めたりしたけれど、その姿は変わることも無く。
道路の方から車の止まる音が聞こえて振り向くと、トラックの運転手が声をかけてきた。この気温には全く場違いな私の服装の理由を聞くことも無く乗せてくれた。走り出したトラックの窓からレストランの方を振り向くと、小さな明かりの中であの笑顔で微笑む彼と私が一瞬見えた。
ただ、穏やかな時間がずっと続けばいいと、そう願っただけだったのよ。