What Your Name?
Tシャツに半ズボン姿のこどもが庭に立っていた。夏がもうすぐ始まる頃、まだ涼しい風が吹いていた。
いやだ。そこは球根を植えたばかりの場所。
「ねぇ、勝手に庭に入らないでくれる? そこ、花壇なの」
ごめんなさい、と素直に呟いた男の子は、庭いじりを続ける私の横にちょんとしゃがみこんだ。一体何処の子だろう。平日は仕事に出ているし、もとより、こどももなく近所づきあいもない私にはさっぱりわからない。なんなんだろう。少しイラつきながらも、いきなり怒鳴りつけるわけにもいかず、黙々と花を植え続ける。何が面白いのか、その子は真剣なまなざしで私の手元を見つめてる。うつむき加減のせいか、鼻の頭より上唇のほうが突き出ていた。
「きみ、何処の子? 家、近いの?」
きょとんとした大きな瞳はゆったりと流れる雲を映してる。何も答えずにっかりと笑った口元は、歯が二本抜けていた。風が吹けば涼しいけれども、そうでなければ日差しは少し強い。その子は帽子をかぶっていなかった。細いうなじは、太陽をはねかえして白くひかっている。
「……帽子とかないの?」
首を横に振って「へいき」と、その子は呟いた。私はもともとそれほどこども好きではないのだけれど。どちらかと言えば苦手なほうで。一人っ子なので、こどもとつきあうことなどほとんどなかったせいもある。なのに何故か自分の首にかけていたタオルを、その子の頭にかけた。自分でも少し驚いたのだが、その子がそばにいることは嫌ではなかったのだ。抜けた歯があんまりにも間抜けで面白かったからかもしれない。
仕事は休みをとっていた。ゴールデンウィークを外して。親が遺してくれた家は一人で使うには少し広い。生まれ育った家だから寂しいとは思わない。会社は福利厚生がしっかりしていて、私は所謂キャリア組でそこそこの業績を修めていた。この職を手放すつもりはない。本当ならこの休みは彼と旅行に行くはずだったのだけど、彼に急な仕事が入った。プロポーズの返事を濁してて気まずくなってた矢先だった。売り言葉に買い言葉で別れを突きつけた。
次の日も、その次の日も、その子は庭に現れた。古い家の縁側でぼんやりしながら、チョウチョを捕まえそこなう姿を見てた。名前を聞いたのだけど、どうしても覚えられない。何度聞いても、その子は怒ることもなくにこにこしていたので、まあいいや、と思った。
こどもは次々に庭の花の名前を聞いてきた。そして、キレイだねぇ、僕、このお庭大好きと笑った。水をまいて虹をつくってあげると、甲高い声で虹を追い掛け回してた。
不思議と耳障りだとは思わなかった。
休みに入ってから、夜中に鳴る携帯には出ていなかった。今夜も出なかった。
ただ、なんだって私はこんなに意固地になってるんだろうと、ふと思った。
結婚とか絶対嫌だってわけじゃない。ただなんとなく、昔からそうなのだ。どうしても自分の縄張りに入ってこられることに抵抗を感じる。
私がこどもの頃に父が植えたさくらんぼの木が庭にある。私の好物だからと植えてくれたのだ。こどもに聞かれて、さくらんぼの木だよと教えた。僕、さくらんぼ大好き。そう言うとスルスルと登って行ってしまった。あの子、降りられるんだろうかとハラハラし始めた頃、ちょっと泣きべそ顔になってることに気づいた。降りられるの? と聞くとくすんくすんと泣き始めた。全く。木登りなんてこどもの頃以来していない。私とこどもの重さに耐えられるか不安だったがなんとか手の届くところまで迎えに昇った。見下ろしてみると意外に高い。ちょっとした恐怖に足がすくむ。
「ほら、その足をもう少し下の枝にかけて……そう、大丈夫だから……次は手をもう一つ下の枝に……上手ね……ほら、私の首に手が届くでしょう。つかまって」
きゅうっとしがみついてきた細い腕。少しウェーブのかかった柔らかな髪が頬をくすぐった。日なたの匂いがした。
休みの最後の日、その子は現れなかった。明日から仕事だからなかなか会えなくなると思って、クッキーを焼いてあげたのに。日が暮れ初めてがっかりしている自分に気づく。一体私はどうしたというんだろう。柄でもなくこんなことをして。クッキーに手を伸ばした時、縁側に人の気配がした。あの子だと思ってクッキーの皿を持って迎えに出る。
小さな花束を持って彼が立っていた。おみやげ、とぶっきらぼうにさくらんぼを突き出す。なんだかおかしくてクッキーを彼の口に放り込んだ。
「名前、考えたんだ」
彼が口にした名前は、去年の夏の初めにどうしても覚えられなかった名前。彼は生まれたばかりの赤ん坊をおっかなびっくり抱いている。軽いくせっ毛は彼にそっくりな赤ん坊。
うん。とてもいい名前だと思う。ね? と呼びかけると赤ん坊はにっかり笑った。