プロローグ・誘い
3回目もやはり海だった。
桜も散りかけた4月の第2週の良く晴れた土曜日。気候も穏やかになり、ブーツもグローブも耳栓も要らない時期になっていた。
海水もずいぶん暖かくなった。
さすがに海に入った瞬間はその冷たさに身震いしたが、少し入っているとそれにも慣れた。
人は少し増えたが、それでもまだまだ少なく、穏やかに波乗りを楽しむことができた。
裕美は1時間ちょっと入って1度休憩し、それからまた少し入った。
休憩を挟める程暖かくなった事で、だんだん夏が近づいていることを実感していた。
慎治は、沖でロングボードの人と波取り合戦をしていた。
「あの人、上手いなぁ」
と、まるで全く知らない人でも見るように彼のことを眺めていた。
2時間程して裕美が着替えを済ませ、板をケースに仕舞っていると、慎治が海から上がってきた。
「ずいぶん、あったかくなったね。」
「そうだね。」
板を専用の台の上に置いて、話しかける慎治に目を向けずに、裕美が答えた。
「桜散っちゃったかなぁ。」
「まだ咲いてるんじゃない?」
「今年、花見行ってねぇなぁ。」
「毎年お花見とか行く人なの?」
「けっこう行く。…なんで?」
「なんか…サーフィンしかしない人なんだと思ってたから…桜を愛でてる姿が想像できなくて。」
「失礼な。日本人ですからね、毎年桜は外せないでしょ。…今年はどっか行った?」
ウェットを着たまま煙草に火をつけながら慎治が聞いた。
「大学の友達と、友達の近所の公園に行った。」
板をケースに仕舞い終えた裕美が慎治の方を見ながら答えた。
「へぇ…きれいだった?」
「うん。多分。」
「多分ってなんだよ。」
「あんまり天気が良くなかったから…満開の時期に行ったんだと思うんだけど…寒かったし…。」
「花見って寒いよな。」
「…うん。でも友達の旦那さんが家から七輪みたいのを持ってきてくれて、けっこう暖かかったけど…。」
「どっちだよ!」
「あぁ…。暖かかった…旦那さんが来てからはね…。」
「文句の多い子だね。」
笑いながら慎治が言った。
「そうだね。」
笑いながら裕美が答えた。
「今日さぁ…少し遠回りして帰っていい?桜をちょっと見たい。」
煙草の火を消し、お湯の入っているタンクを開けながら慎治が言った。
「いいよ。」
その姿を目で追いながら、裕美が答えた。
裕美は、どこに咲いている桜を見に行くのか少し気になったが、特に聞かなかった。
別にこの後の用事もないし、今日は家に帰って寝るだけだ。明日は日曜日で会社もない。その気になれば、いくらでも寝ていられる。帰宅が何時になっても、帰れればいいと思っていた。
◇
独り暮らしを始めて4年近くになる。
実家は都内に通えない距離ではないが、飲んだ夜は電車に乗って帰るのが面倒になる距離ではあった。
実家にいた頃は、電車があるのにタクシーで帰ることもあったが、そんなことを繰り返しているうちに、そのタクシー代が惜しくなったのだ。
そんな短絡的な考えで家を出たのは良いのだけれど実際に生活が始まると、タクシー代よりも独りの生活は、もっとお金がかかることを学んだ。
単価の安さにかまけて強気に買い込んだ洗剤類は、独り暮らしを始めたばかりの家計を圧迫した。
トイレの芳香剤をインテリアの色などに合わせて特に考え無しに買ったら、トイレの匂いとあまりにも合わず、トイレに入るたびに気分を悪くする破目になった。
自炊すれば節約になるかと思いきや、少し油断するとすぐに食べ物を腐らせて、ただのコストと化してしまう。
日持ちする食材を買い、日持ちするように調理しても、気が付いたら、冷蔵庫の中で変色してしまうこともあった。
恐る恐るそれを口にしてみたが、結局は怖くて捨てた。
洗濯物の量に対して洗剤の適量がわからず、多めに入れていたら、洗い上がった洗濯物から異臭がした。
昔、独り暮らしの女の子の家に終電を逃して、お世話になったことがあったのだが、その子の部屋は足の踏み場もなく、トイレにはオレンジ色のカビが生えていた。
不思議と臭いはしなかったが、洗面台の排水溝は、穴が見えない程、抜けた髪の毛で覆いつくされていた。
当時、実家に住んでいた彼女は、自分の部屋をあまり綺麗にしていなかったので、このままでは、自分もその友人と同じ人種になってしまうと思い、焦ってその週末に自分の部屋の掃除をしたのを覚えている。
その経験を活かし、部屋はなるべく綺麗な状態を保とうと心がけた。
トイレやお風呂は、2日か3日に1度は洗った。
排水溝から上がってくる、生臭い臭いが気になり、初めの頃は毎日のように排水溝にたまった異物を溶かす洗剤を使って掃除していた。
部屋はまめに掃除機をかけていても、どこからともなく埃や髪の毛が出てくる。慣れるまでは仕事で疲れて帰っても、毎日床掃除だけは欠かさなかった。今でも、3日に1度は床の掃除をしている。
実家にいた頃、リビングのソファーに座り、抜けた髪の毛を心無く床に捨てていた自分を反省した。
今では、実家に帰っても独り暮らしの自分の部屋でも、抜けた髪の毛はゴミ箱に捨てるようにしている。
独り暮らしを始めるまでは、炊きたてのお米や作りたてのおかずしか食べなかったが、今では1度冷凍した物でも美味しくいただけるようになった。
1人前のおかずを作ることにも慣れた。
同じ食材で違う料理を作ることを覚えた。
お皿を洗うのが面倒でワンプレートディッシュや丼物が増えた。
時には丼物ではないものでも、無理やりお米の上におかずをのせたりする。
しかしどんなことがあっても、鍋から直接食べることだけは絶対にしないようにした。
根拠はないが、その行為が、自分にとって大きな境界線のような気がしていたのだ。
そこを許したら、全てが堕落していく気がしたのだ。
実家での晩酌はしなかったが、独りになって毎晩缶ビールを開けるようになった。
初めの頃は、家での独り飲みで、二日酔いになるほど飲んでいた。
しかしこれでは体を壊すと思い、特別なことがない限り500ml缶2本までと決めた。
実家では見たい番組がなくても、常にテレビを点けていたが、独り暮らしを始めてから、見たい番組がない時は点けなくなった。
月の綺麗な夜などは、テレビも明かりも消して、独りで冷酒を飲みながら月を愛でたりする。
そんな自分を自立した女性っぽいと半笑いしつつも、実際に年齢は十二分に自立していていいことを痛感させられ、その半笑いは笑えない笑いへと変わった。
そして、「自立」ってなんだろうと、取り留めもない疑問を持つようになった。
アロマキャンドルやアロマオイルを楽しむことを覚えた。
独りで行動する気楽さも知った。
それと同時にその寂しさも感じた。
彼氏がいた時も結局は、どちらかの家に入り浸るだけの週末が増えた。
それでも独りよりは、ましなのかもしれないと思っていたが、その生活にも飽きて、その彼とは別れた。
暇だから車を買ってみた。
週末にどこかにドライブにでも行こうと思ったのだ。
初めの頃は、いろいろなところに行ってみたが、1年もしないうちに、行きたい所もだいたい行きつくした。
そして、車で出かけることに意味を持ちたくなるようになった。
目的もなく家を出ることが、面倒になったのだ。
このままでは独りでずっと家に入り浸ることになると思い、サーフィンを始めた。
兎にも角にも独りの生活を始めて、家族の体調管理から炊事洗濯まで何も言わずにやってくれ、ただ家でずっと家族を待ち続けていてくれた、母のありがたみを知った。
今日、たとえ帰りが深夜になっても、慎治の家まで送ってもらえればそこからは自分の車で帰ることができる。
家に帰っても、話す人も待っている人もいない。
特別やりたいこともない。
どうせ、明日も掃除と洗濯をするばかりだ。
明日は1日中暇だ。
◇
ギアをバックに入れ、後方を確認しながら、車が海から離れていった。
車がすっかり海とは反対の方向を向いた時、慎治は煙草に火をつけながらこう言った。
「体、冷えてない?とりあえずなんかあったかいモンでも食ってこうか。」
彼はチラッと裕美の顔を見て、すぐに視線を進行方向へ移した。
彼女は彼の視線が移ったことを感じると、同じようにチラッと彼の顔を見て、なんとなく、彼の視線の先を見ながら、小さくうなずいた。
2人は海の近くに新しくできたラーメン屋に入った。
あまり美味しくなかったが、裕美は根性で麺だけは食べつくした。だが、真治は残していた。
そして店を出ると「あんまり美味しくなかったね」と、言ってはにかんだ。
「どこ行くの?」
高速に乗って少しして、裕美が進行方向から視線をそらさず、慎治に訊ねた。
「ん?あぁ、桜のいいスポットがあるんだよ。」
「…そうなんだぁ。」
そこがどこなのかを聞きたいと思ったのだが、望んだ答えが返ってこなかった。しかし、もう1度聞く程の事もないと思い、彼女も軽く受け流した。
いつもの彼と何かが違った。
ここ最近のメールのやり取りが2人の心の距離を縮めたのか、車の中では海の話以外の会話が自然と出てきた。
その会話の中で、慎治が高校生の時にラグビーをやっていたことを知った。しかもそれは、幼い頃に見たドラマの影響だということを聞いて、笑った。
残念ながら、慎治達のチームは非常に弱く、試合に勝ったことは数えるほどもなかったらしい。ラグビーは高校3年間でやめて、大学に入ると、なんとなくイメージでテニスサークルに入ったそうだ。
しかし好みの女の子がいなくて、そのサークルはすぐに辞めたらしい。そして気がついたら、女子マネージャーもいないサッカーサークルに入っていたと、彼は言った。
サッカーは小学校の頃からやっていて、今でも会社のサッカー部に所属しているらしい。
サッカー部といってもサークルのようなもので、会社から活動費が下りるから、サッカー好きの社員が集まってサッカーをしている程度と言うことだった。それでも会社帰りに練習をしたり、たまには試合にも出ているらしい。
因みに、サッカーを始めたのも小学生当時、流行っていたテレビ漫画の影響だったということだ。
意外とミーハーなタイプだと思ったら可笑しくなった。
ガリガリに痩せているというわけでもないが、ガッチリした体格でもなかったのでラグビーをやっていたのは以外だった。
そう言われてみれば、Tシャツから出た二の腕には、無駄のない筋肉の膨らみが美しく曲線を描いていた。
慎治の出身は茨城の内陸よりらしく、高校生の頃はサーフィンよりスノーボード派だったそうだ。
両親がスキーをやっていたこともあり、3歳にはスキーを始め、高校生でスノーボードに転換したらしい。
当時ゲレンデには殆どスノーボーダーがおらず、高校生の冬休みにリゾートバイトでスキー場に篭った時も、周りはみんなスキーヤーだったそうだ。
唯一スノーボードをやっていた大学生がいて、その人にお酒の飲み方など色々な事を教えてもらったと言っていた。
「サーフィンはさぁ、あんまり興味なかったんだけど、大学のサークルの先輩がみんなやってたんだよ。だから半ば強制的に始めさせられたの。っつっても、板とか古いのをみんなくれるからいいんだけど………。
だって夏の合宿で泊まるところは、ポイントの目の前だけどサッカーのグランドまで10キロ近くあるとこなんだぜ。
毎朝、日の出とともに起きてぇ、朝一海入ってぇ、飯食ってぇ、朝寝してぇ、それからグランドまで走ってくと、宿のおばちゃんが弁当を作って持ってきてくれててぇ、そこで昼飯。
昼飯の後、軽く休んだら、2時間くらいサッカーして、また走って帰るの。
そんで、その後、夕方にまた海入るからね。
今思うとよくやってたよ。」
「えっ?すごい体力だね。だって、夜は飲んだりもするでしょ?」
「するする。男しかいないから、ホントに体育会のノリだよ。よく倒れるやついなかったなぁと思って…。
中にはサーフィンやってないやつもいたけど、ほとんどやってるから、サーフィン合宿なんだか、サッカー合宿なんだかわからない感じなんだよね。
ホントに、若いって凄いよね。」
彼女は頷きながら笑った。




