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サクラ ナミキ・未来と過去


 その日は、曇ってはいたが気候は穏やかな日だった。

 15分に1本くらいの間隔でセットが来ていた。海の中のサーファーを見ると、上手く波に乗っている者も少なくなかった。


 慎治はどの辺りから入るかを裕美に告げると、早速アウトを目指した。

 アウトから砂浜を見ると、のんびりヨガのポーズをとりながら、準備体操をしている裕美の姿が見えた。前回一緒に来た時、彼女はそんな悠長に準備体操はしていなかった。もしかしたら、慎治が自分より先に海に入らないことを察した彼女は、早々に柔軟体操を切り上げたのかもしれない。


「空気を読めるいい女だ」と、彼は勝手に解釈した。


 まだ海に入るサーファーは、夏ほど多くはなかったが、セットの波取り合戦は、無言ながらに激しく行われていた。

 しかしルールを重んじているサーファーとの波取り合戦が、慎治は好きだった。運良く波をゲットできた時の優越感と、その波に気持ちよく乗れた時の満足感は、他には替え難い達成感のようなものがある。

 もし自分の狙った波が他の誰かに奪われたとしても、そのライダーが気持ちよく波に乗っている姿を見ると、次は必ず取ってやると、いい意味でのライバル心というか向上心が芽生える。

 しかし海から上がると、そんな闘争心もどこかに消えてしまうのだ。彼がサーフィンをこよなく愛する理由の1つがそこにある。


 その日は思いの外、波がよく、春先のわりには長く海に入っていた。

 海から上がると、裕美はすっかり着替えを済ませ、浜辺でサーファーを見ていた。


「ごめんね。遅くなって。」

 砂浜に佇んでいた裕美を見つけた慎治が声をかけた。

「もっと入ってて良かったのに…。」

 春の風に穏やかに揺れる乾きかけの髪を押さえながら、裕美が答えた。

「これ以上入ってたら、凍え死んじゃうよ。」

 慎治は笑いながら言ったが、鳥肌が立っていることに気が付いていた。


 お昼を近くの定食屋で済ませ、千葉を出たのは3時を回っていた。


 海の帰り道では合流などで、決まって数箇所混む場所がある。いつもはなるべく空いている車線を選んで帰るのだが、彼はその日、わざと混んでいる車線を選んで走った。

 裕美との距離を縮めたいという気持ちがあり、夕食に誘おうと思っていたのだ。

 しかし一向に腹は空いてこなかった。首都高の出口が着々と近づき、最後の渋滞ポイントに差し掛かった時、時計は午後の6時になろうとしていたが、胃袋に隙間を感じることはなかった。

 定食屋で出されたものを、完食した自分を後悔したが、食べ物を残すのはあまり性に合わない。

 大きな川の長い橋の向こうの方まで、一定の間隔で赤いテールランプが見えた。辺りは薄暗さを増していたが、食事をしたいと思うほどの空腹感はなかった。ちらっと裕美を見たが、彼女の口からも「お腹が空いた」という言葉は聞けそうになかった。


「なんか、腹減ってないけど、今食べとかないと夕飯食わなそうな気がする…。」

 前の車のテールランプを見ながら、視界の片隅で注意深く裕美の様子を伺った。

「なんかわかる。お腹は全然空いてないけどね。」

 裕美が遥か向こうの車のテールランプを見ながら答えた。苦し紛れの言葉だったが、彼女が同意してくれて安堵した。

「高速降りたら、なんか食って帰ろうか。」

 ダラダラ走る車のブレーキを踏みながら慎治が言うと、彼女は「いいよ」と小さく頷いた。彼の中に小さな安心感が生まれた。


 入る店を彼なりに悩んだが、車が停められてゆっくり話せるところがいいと思ったので、適当なファミリーレストランで、食事をすることにした。

 席について程なくすると、彼女はサーフィンの上達法について、彼に熱心に聞いてきた。彼も、彼女が波に乗っている姿を注意深く見ていたわけではないので、答えに詰まるところもあったが、彼女の質問を丁寧に聞きながら、自分の成長段階と照らし合わせ、簡単にアドバイスをすることはできた。すると彼女は、彼の言ったことを吟味するように、なにやら考えながら「今度はそれを意識してやってみよう」と言い、笑った。

 しかし結局は、海にたくさん入るしかない、という結論にお互い納得した。2時間ほどゆっくり話して、彼らは帰った。


 慎治の家から車で帰る裕美の姿を見送りながら、彼女は向上心の強い女性だと、彼は感心していた。食事しながらの2時間、彼女は殆どサーフィンの話しかしなかった。

 思ったように、彼女の情報を引き出すことはできなかったが、そんなことはどうでもいいように、彼は感じていた。


 山上裕美という人間に魅かれ始めていたが、同時に、あまりにも短絡的な自分に疑問を感じてもいた。




 シャワーを浴びて、水洗いしたウェットを浴室に乾している時に千鶴の最後の言葉を、ふと思い出した。


「私のものは全部捨てて。新しい子ができたとき、前の女の匂いはさせちゃだめだよ。」


 彼は、特に何も考える事もなく、まるで動物の本能かのようにそのままにしてあった千鶴の物をゴミ袋に入れ始めた。

 小さな袋1つで済む程度の物しかなかった。

 あれから2ヶ月しか経っていなかった。あれ以来、彼女からの連絡はない。

 彼もまた連絡していなかった。


 今頃、旅行から戻って新しい仕事でもしているのだろうと思った。

 あの日、あの公園の片隅で、自分の罪深さに涙したことを思い出した。

そしてこの2ヶ月間、その事をただの1度も思い出さなかった自分の情の薄さに驚いたが、あの時、感じた罪深さを感じることはなかった。


 他に千鶴のものがないか、リビングを見渡した。

 そして本棚の写真集に目が留まった。

 月の写真集だ。

 群青色の表紙に、大きく蒼く輝く月が写っている。その月の下には、森がある。クレーターまではっきりと写し出されたその月は、今にも飛び出してきそうなほどに輝いていた。


 千鶴は月が好きだった。

 それに影響され、彼もよく夜空を見上げるようになった。

 そして「月が蒼く輝く」という意味が少しわかったような気がした。


 彼女の好きな月スポットに3回ほど行ったことがある。

 軽井沢の碓氷峠だ。1回目は、彼らがその場所に着いた時、月は西の空に沈む頃で、彼らが見た空には、月はもういなかった。

 2回目は新月の日で、そもそも月が出ない夜だった。

 3回目は辛うじてその視界の片隅に月が納まったが、南南西に高く上がった月だった。

 それでも綺麗だと感じることはできたが、わざわざ高速に乗って来るほどの感動を、彼は味わえなかった。

 その帰り道、千鶴は初めてそこで見た美しい月のことを熱く語っていた。黄昏時に月が昇り始め、薄暗い夜空に大きな月が煌々と輝いている、と目を輝かせながら言っていたが、彼はその話を殆ど聞いていなかったのを覚えている。

 3回も付き合わされて、しかも、全て不発に終わったことに少し腹を立てていたのだ。

 それ以後、彼女にそこに行こうと言われても、頑なに拒んだ。


 彼女が置いていった、その月の写真集を捨てようとして止めた。そのまま本棚に戻し、千鶴の事をこんなにあっさり忘れてしまった自分の薄情さに罪悪感を覚えた。


 千鶴の物を処分してから、彼は自然と裕美との結婚生活を想像するようになっていった。

 勝手な妄想だった。

 しかし彼にとって充実した妄想だった。

 3度しか会ったことはないが、彼女に非常に好感を持っていた。話していても話やすく、サーフィンをしていても、お互いそれに集中できた。彼女は自分のペースで海に入り、彼も自分のペースでサーフィンを楽しむことができた。

 彼女なら、自分の海仲間にも受け入れてもらえそうだし、彼女も彼らを快く受け入れてくれそうな気がした。


 水着を着て歩いても寒くない夏になると、海仲間と泊りがけで海辺へBBQをしに行くが、そういう時に意外と男連中は女性に気を遣う。他の仲間の連れてきた女性に対して、多少気を遣うのは当然だが、千鶴を連れて行っていた頃、彼は彼女に気を遣っていた。

 強い日差しに長く当たっていると、彼女はすぐに具合が悪くなった。普段では酔わない量のビールでも、気分を悪くして戻したこともあった。

 昨年、たまたま恒例のBBQの時、彼女が旅行で日本にいなかったので、彼は独りで参加したが、その方がむしろ、気疲れせずに楽しめた。

 裕美にはそういう気の遣い方をしなくて済みそうだと、彼は感じていた。


 英語が話せるかはわからないが、向上心も向学心もきっと強い女性だろう。好奇心も旺盛で、海外での生活に不安を感じるタイプの子ではなさそうだ。気配りもできる人だし、なんと言っても、あの辻元が高校の頃から付き合いのある女の子だ。それなりの人に違いない。


 慎治の妄想は、日に日にストーリー性を持ち、彼の頭の中を支配していった。しかしながら、付き合ってもいない、まだ気持ちを伝えてもいないような女性との結婚生活を妄想して喜んでいる32歳、独身の自分が滑稽だった。


 それでも彼女と近づきたくて、意味もなくメールを送った。何を送ればいいのかわからず、天気や波情報の話をメールでした。メールを送った後、そんな下らない内容のメールを送った自分を後悔したが、彼女から返信が来ると、必要以上に喜んでいる自分がいた。


 そして、そんな自分をかわいいとさえ思った。


 早く、彼女に会いたいと思うようになっていた。ところが、3月中は仕事で平日に会う時間を作れそうもなかった。コミュニケーション能力アップのために、英会話教室を1日増やしたのだ。休日も、どうも裕美との予定が合わない。


 やっとの思いで予定を合わせられたのは、4月になってからだった。


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