サクラ ナミキ・偶然の必然
新年度の爽やかな陽気に流されるように過ごしていると、春の気分も覚めやらぬままゴールデンウィークが終わり、風が夏の匂いを運んできた。
スーツのジャケットを脱いで歩きたくなるような強い日差しが、慎治の心を引き締め、また新しい生活へと気持ちを向けさせた。
英会話教室で彼女に会わなくなってから1ヶ月が過ぎ、彼の心も平穏を取り戻しつつあった。
これで本当に2度と彼女と会うこともないと実感していた。
そんなある日のことだ。
仕事を終え、いつものように地元の駅に降り立ち、改札口に向って歩いていると、ビニール袋を提げ、駅前のドラックストアから出てくる見慣れた女性の姿が目に留まった。
千鶴だった。
その姿を認識した時、動悸が激しくなるのを彼は感じた。
顔色を変えず、呼吸を整え、何事もなかったようにポケットの中から定期を出し、それを自動改札口へ投入した。
わざと視線を下に向け、改札口を通り抜けた。
声をかけるべきか、声をかけても良いものか、悩んでいたのだ。
そして、その答えを出さないまま改札口を抜け、顔を正面に上げると驚いた様子で立ち竦む千鶴が目の前にいた。
「千鶴さん。」
反射的に言葉は出たが、平静を装っている自分がいた。
彼女はまだ驚いた様子で立っていた。
慎治が優しく顔を傾げると、彼女は我に返ったように笑顔になった。
「こんなところでお会いするなんて…。」
現実を受け入れられていないような力の抜けたふわふわした声で彼女が言った。
「買い物ですか?」
慎治は袋を指差しながら聞いた。彼女は薄ら笑顔のまま頷いた。
しばしの沈黙が2人を包んだ。
彼は相手の次の言葉を待った。
それは、彼女も同じだったのかもしれない。
「じゃぁ…。」
その沈黙を先に破ったのは慎治だった。
2人は笑顔で別れを告げると、背中を向き合わせて、お互いの家へ帰っていった。
独りの部屋で電気も点けず、テレビを点けた。
阪神巨人戦だった。
カメラが観客席をゆっくり1周すると、マウンドの先発ピッチャー上原に画面が切り替わった。さすがに阪神巨人戦は満員だなと漠然と思いながら、次のチャンネルに変えた。
冷蔵庫から缶ビールを取り出すために立ち上がり、スーツのジャケットをテレビの前のソファーに投げるように置いた。
キッチンの冷蔵庫から缶ビールを取り出し、カウンターに寄りかかるような姿勢で立ったままテレビの画面を凝視した。
バラエティ番組が流れていた。
プルトップを開け、ビールを缶のまま勢いよく飲むとテレビの画面を見たまま、ソファーに向かって歩いた。
先程、千鶴と交わした言葉が何度も頭の中で繰り返されていた。
「食事に誘った方が良かっただろうか、彼女はそれを望んでいたのだろうか…」
しかし、彼女はもう結婚する女性なのだ。どんなに頑張っても、これ以上そばにいることはできない。
色々な想いが彼の中を駆け巡っていた。
平穏を取り戻しかけていた心に、再び波風が立ち始めているのを慎治は感じていた。
「考えたって仕方はない。もう諦めると決めたのだ。」
彼は自分にそう言い聞かせて、2本目のビールを取りにキッチンへ向かった。
そして冷蔵庫の中のビールを手にした時、携帯電話の呼び出し音が鳴った。
ビールを取り出し、それを飲みながら、無造作に携帯を見ると相手は千鶴だった。彼はあわててその電話に出た。
駅で会ってから、既に1時間ほど経っていた。
「もしもし長谷川です。」
電話の向こうで、彼女は弱々しく言った。
「あぁ、はい。」
「今、大丈夫ですか?」
蚊の鳴くような声で彼女が言った。
「ええ。大丈夫です。………先ほどはどうも。」
彼は、落ち着いてしゃべるように努めた。
「こちらこそ。…なんか偶然に会ったら、懐かしくなっちゃって。」
「はぁ…」
全神経を耳に集中させて、彼女の声色を注意深く伺った。
「最近はお仕事お忙しいんですか?」
いつも通りの彼女の声に戻っていた。
「まぁ…そこそこ」
平静を装い、笑い声交じりで答えた。
「そっかぁ…。」
「千鶴さんも、結婚式の準備とか、大変なんじゃないですか?」
意識的に軽い口調で聞いた。
「ええ………まぁ…。」
会話が止まって沈黙が電話越しの2人を繋いだ。
「また、機会があったら、飲みにでも行きましょう。」
適当な挨拶のように慎治が言った。
何を言えばいいのかわからなかったのだ。
しかし、この言葉が出たことで、彼の中で何かが吹っ切れた。本当に彼女を諦めることが、できるような気がしたのだ。
「そうですね。機会があったら…」
千鶴の声が、耳をかすめた。
マンションの横をもの凄い音を立てて、バイクが通り過ぎた。
彼の部屋は、通りに面した南東向きの角部屋だ。南向きに立てられた建物の正面に、住人用の駐車スペースがあり、東側が商店街から続く道になっている。
彼の部屋は、その通りに面していた。夜になると、たまに爆音を立てながら、バイクや車が通ることがあるが、1年もしないうちにその音にも慣れた。
しかし、慣れたはずのその音に、その時はなぜか耳が異様に反応した。
そして、確かめるように彼は聞いた。
「今、どちらですか?」
そう言った時には、彼は窓のカーテンを開けて、外の様子を伺っていた。
外から聞こえたはずのバイクの音が、同時に携帯電話からも聞こえたような気がしたのだ。
「…家のそばの公園です。今…」
彼女は何かを言い続けていたが、それが嘘だと彼には、はっきりわかっていた。
なぜなら、彼女は窓越しに彼の目の前にいたからだ。
先程と同じ服装でドラッグストアの袋を肘にかけ、街灯の真下に立ち、誰もいないのに周りの目を気にしながら、彼女は申し訳なそうにそこにいた。
街灯に照らされている彼女は、妙に儚げに慎治には映った。
彼女は忙しなく、辺りを見回していた。
「嘘だ。」
彼女の言葉を遮って慎治は言った。
「えっ?どうし…。」
言葉を言い切る前に、彼女はカーテンを開けた窓の中の慎治に気付き、そこで、言葉は止まった。
2人は言葉もなく、窓越しにじっと見詰め合った。
彼は暗い部屋の中から、街灯に照らされた彼女をじっと見つめた。
彼女は焦点の合わないような目で、薄暗い彼の部屋の窓を見ながら固まっていた。
暫くして、彼女はおもむろに携帯電話を耳から外し、電話を切った。
そして、持っていたビニール袋にそれを押し込むと、突然走り出した。
彼も部屋を飛び出し、彼女を追った。
自分の部屋が1階だったことに、これほど感謝したことは、それまでなかっただろう。
マンションを出ると、走り去る彼女の後姿が見えた。彼は言葉もなく、彼女を全力で追いかけた。
ヒールの低いサンダルを履いていた彼女の足音が、不規則に商店街に鳴り響いた。
咄嗟に履いた靴が、コンビニへ行くようの安いサンダルではなく、いつも会社に履いていく、イタリア製のシルバノなんたらとかいう高い革靴だったことを後悔しながら、彼は、ひたすら走った。
入社3年目の夏のボーナスで、キャメル色と黒の同じデザインの革靴をまとめて2足購入した。いい男は、いい靴を履くものだと、勝手に決めていた慎治は、1足6万弱もするその靴をまとめて買ったのだ。それ以来、会社用の靴は買っていない。そろそろ、靴を新調した方がいいと思いながら、面倒臭くて買い物に行っていなかった。
おそらく、今、履いているのはキャメルの方だろうなどと、どうでもいい事を考えながら、彼はひたすら走った。
革靴の踵が彼の体重で完全に押し潰されていることを意識しながら…。
彼女に追いつくと、彼は彼女の細い腕を力強く引き寄せた。
千鶴は慎治の腕の中で、彼の強い視線から逃げるように顔をそらせた。
しかし彼の両手は、細い彼女の肩を強く掴んで放さなかった。
彼女もこれ以上逃れられないと判断したのか、ゆっくり彼の目を見つめた。
それから、千鶴の小さな後頭部を慎治は優しく掌で包み込み、そのまま、胸に押し当てた。
その時、彼女の両肩が小刻みに震えている事に初めて気が付いた。
彼は思った。
目の前のこの女性を幸せにしてあげなければいけない、彼女を守ってあげなければいけない、と。
女性に対して、こんなに強くそう思ったのは初めてのことだった。
そう思った自分を、全く別人を見るような感覚で、見ているもう1人の自分がいた。
その冷静な自分を振り払うように、彼は彼女を更に強く抱きしめた。
そして、最後の力を振り絞って、彼を押し上げようとする革靴の踵の激励を受けながら、千鶴に気づかれないように、彼は上手く爪先立ちになった。




