シーン9
次の日、サトルは学校に来なかった。彼が授業をサボるのはいつものことなので心配はしなかったのだけれど、昨日、学校で話をすれば良いと高を括って、打ち合わせもせずに動物園で解散をしてしまったため、今日の撮影をどうするのかが気になった。電話をしても繋がらない。仕方なく、授業を終えてから彼の家へ行くことにした。
電車を乗り継ぎ、アパートに向かう。インターホンを鳴らすと、すぐにサトルが顔を出した。アポイントもなしに訪問してくるとは思わなかったのか、彼は少しばかり驚いた表情を浮かべていたけれど、あがれよ、と当然のように招き入れる言葉を口にした。
室内には、旅行用鞄が置いてあるにもかかわらず、リホの姿がなかった。そこでサトルに、彼女は?と尋ねてみたところ、買い出しに行ってる、とだけ返事があった。
どういうわけか、居た堪れない心持ちになる。サトルも同じ気持ちだったのか、わざとらしく手を叩き、そういえば、と前置きをしてから惚けた調子で話を始めた。
――リホちゃんが、焼身自殺をするって決めたぞ。
当初の予定通りではあるけれど、どう反応して良いのかが分からず、黙り込む。その様子を認めたサトルがさらに話を続ける。
――もちろんカメラの前で改めて正式に宣言してもらうつもりだ。よろしく頼むぜ。
心を掻きむしられたような気がした。
――なあ、やっぱり、引き留めたほうが良いんじゃないか。
――今更かよ。
――人の本質を撮りたいなら、僕を被写体にすれば良い。
両手を広げて訴えると、サトルは鑑定でもするかのようにこちらに視線を這わせ、そして正解でも発見したかのように気障な笑みを浮かべた。
――悪いな。俺には男の素顔を暴く趣味はない。
冗談めかした言い方だ。彼は呆れたように溜め息をついて煙草を咥えた。これ以上くだらない話をするな、そう主張しているかのような態度だった。
静寂が訪れる。すると聞き慣れない音が響いた。シャキンッという薄い金属を素早く擦ったような、素早く叩いたような、小気味よい音だ。音の出処に視線を向けると、サトルの手に銀色のオイルライターが握られていた。シュボッと音が鳴り、火が灯って淀んだ臭気が漂う。彼はずっと百円ライターを使っていたはずだ。不相応な輝きに疑問を抱き、それは?と尋ねると、サトルは煙を吐き出して、貰ったんだ、と答えた。
――ずいぶんと立派なライターだな。
――四十年代のシッポーのレプリカだ。純銀製だから数万はするだろうな。
――そんな物をくれるなんて太っ腹な人だ。
――リホちゃんだよ。彼女がプレゼントしてくれたんだ。
――え?
――宿代だってよ。絶対に使えって押し付けられたよ。
サトルは手の中でジッポーライターをクルクルともてあそび、複雑に反射する光を感慨深げに眺めながら、使い続けろだとさ、と囁いた。
その時、玄関の扉が開き、耳に馴染んだ声が届いた。
――ただいま。あれ? ピーくん来てたんだ?
目の前に座っているのだから来てたかどうか確認する必要もないだろうに。そんなことを思いながらリホの顔を見上げて軽く会釈をすると、リホは買ってきた食材を冷蔵庫に詰め込み、晩ご飯食べてく?と、まるで家主のように問いかけてきた。
追い打ちをかけるようにサトルが、食ってけよ、と言う。リホが頷く。何も返事をしていないにもかかわらず、なし崩しに三人で食事をすることになった。
――じゃあ、パパっと用意しちゃうね。
リホはそんなことを言って、甲斐がいしく、まずは備蓄品を部屋のあちらこちらに設置し始めた。その動きに迷いはない。置き場所を把握しているのではなく勝手に場所を決めているという感じで、トイレットペーパー、シャンプー、歯ブラシ、食器用洗剤などが、それぞれ速やかに収まりの良い場所へと置かれていく。そして最後に彼女は、茶色い無地の紙袋を、ベッドの枕元に隠すように置いた。
引き続き彼女の動きを目で追っていると、サトルと視線が交わった。サトルはすぐさま気まずそうに目を逸らし、カメラの準備を始めた。
――三人揃ったから撮影するぞ。
サトルと共にキッチンへと赴き、リホの横に立って調理の様子をカメラに収める。リホが器用に包丁を扱いながら、邪魔だからあっち行っててよ、と叱ってきたけれど、その顔は微笑んでいたので満更でもないと判断して撮影を続行する。彼女は非常に手際がよく瞬く間に何品もの料理ができあがっていった。足手まといということは承知しながらも何かしら手伝いをしようと思い、部屋の中央にあるローテーブルに順次料理を運んでいく。その間にサトルは、三脚にカメラをセットし、食事風景を撮影する準備を整えた。
豚肉をピリ辛く炒めた物、すりおろしたジャガイモを薄く焼いた物、青菜をゴマと和えた物、具沢山の汁物、いずれも正式な料理名は分からない、というより料理名が存在するのかどうかさえも不明だけれど、とりあえず、とにかく美味しかった。
向かいの席に座るサトルが料理を頬張って大袈裟に叫ぶ。
――さすがプロ級の腕前。
リホは澄ました顔で言葉を返した。
――まあね。だから言ったでしょ。
目の前で肩を並べる二人は、とても親しげで、とても楽しげで、とても幸せそうで、形容しがたい居心地の悪さというか、むず痒さというか、奇妙な感覚がした。サトルは元からよく笑う男ではあるけれど、普段であれば、毒のある、それこそ、クズ、という名称に恥じない嫌らしい笑い方をしていた。ところがいまは、いや、ここ数日、リホの前では優しく微笑んでいる。微笑みながら、フワフワの泡のような会話をしている。
――幸せそうだな。
指摘をするように落ち着いた声色でそう告げると、沈黙が生じた。リホは目をしばたたかせ、サトルは我に返ったように青い顔をして口元を引き締めた。けれどもそれは一瞬のことで、すぐにサトルは皮肉めいた笑顔を作り、臆することなく言い放った。
――ああ、幸せだ。
リホが不安げにサトルのことを見つめる。
サトルは下卑た笑顔のまま、でもな、と言い、話を継いだ。
――所詮は上っ面だ。どう転んでもこの世の本質は、やはり地獄だ。得たものは奪われるし、人はいがみ合う、だいたいそんなもんだろ? なあ?
問いかけの体をなしてはいるものの誰に問うているのか不明瞭なため、黙ったまま次の言葉を待つ。サトルはうつむいて目を泳がせ、微かに唇を動かした。
――地獄じゃないと。
そんな言葉が、聞こえた気がした。




