シーン8
リホは手を繋ぐことを好んだ。
――はい、ピーくん。
差し出された右手を掴み、動物園内を寄り添って回る。
リホにとって手を繋ぐ程度のスキンシップは当たり前のことのようで、好意を伝えたいとか誘惑したいとか、そういった思惑はないと思われる。事実、彼女はサトルに対しても愛想よく手を差し出すし、腕を組みにいくこともある。ひょっとすると、了承さえ得られれば、その辺を歩く見ず知らずの人の手も握るのではないだろうか。
単なるコミュニケーション、それ以上でもそれ以下でもない、はずだ。
リホと出会ってからちょうど一週間が経過してまた座学ばかりの日となったので、先週と同様に授業をサボり、吉祥寺の動物園に来ていた。撮影した映像の量は順調に増えてはいるものの、夜に一つ所で会話をしている内容ばかりなため、サトルが、もっと動きのある画も撮りたい、と言い、リホが、日中も遊びに行きたい、と零し、二人の要望が合致した結果、急遽ここに来ることとなったのだった。
動物園といっても井の頭公園の一角にある小さなもので、大型動物の展示は少なく、これといって見所はない。それでもリホは鞄を引きずりながら駆け回り、斜め上のテンションで次々と動物たちを観賞していった。もちろん手を繋いでいるので一緒に走らなければならない。もっというとカメラマンのサトルも走らなければならない。手ぶらならともかく撮影しながらでは大変だろうと思って後ろを振り返ってみると、少し離れた場所でサトルは、気にするなと言わんばかりに撮影続行のジェスチャーを示し、幼子を見守る父親のように柔らかく微笑んだ。サトルのくせに。
ネコを見て、サルを見て、少しばかり進むと、リホが手を振りほどいて一つの檻に駆け寄り、柵を越えそうな勢いで身を乗り出した。当然ながら柵を越えるのはマナーに反するし、何より動物を刺激するので危険だ。気を付けるよう注意を促そうとしたけれど、あいにくその檻の中には動物がいなくて、大きな丸い鏡が設置されているだけだった。
檻の横の看板には、ヒト/学名ホモサピエンス、と書かれていた。
鏡にはリホの姿が映っていて、まるで彼女が檻に囚われているかのように見える。もう一つの看板に目を向けると、そこにはこう書かれていた。特徴/好奇心が強い/扱い方によっては大変危険/鏡の中のあなた、と。
――くだらないアートだな。
吐き捨てるように言うと、リホは、そうかなあ、と呟き、鏡に映る自分自身に向かって宙を泳ぐかのように両手を大きく振った。
――わたしは面白いと思うな。皮肉が効いてて。
鏡越しに彼女のことを見つめる。その背後にはカメラを構えるサトルが映っている。
――まあ、確かに皮肉ではある。
そう相槌を打ち、素早く彼女の手を取って握り締める。三人の姿が鏡に映る。いままで自分たちの撮影風景を客観的に眺めたことなどなく、それは奇妙に見えた。同時に、絶妙なバランスを保っているようにも思えた。
しばらくするとリホが横目で視線を寄越し、微笑みながら言った。
――ピーくん、そろそろリスを見に行こう。
動物園の端には、リスの小径、と呼ばれる施設がある。放し飼いにされているリスを間近で観察できるという入場可能な巨大な檻だ。この小さな動物園においてはメインスポットとされていて、リホの希望により、あらかじめ最後に観賞しようと決めていた。
寄り添って、一日の終わりを惜しむように、ゆっくりと歩む。
円い巨大な檻の二重扉を抜けると、そこは疑似的な森になっていて、細流がうねり、鬱蒼と木が生い茂っていた。至るところにニホンリスがいて、舗装された順路を行くと足元を小さな影が走ることもある。リホは身体ごと視線を方々に向け、リスの姿を見つけては悲鳴にも似た歓喜の声をあげた。時にはサトルに対して、あのリスを撮って、と指示を出すこともあった。
巨大な檻とはいってもテニスコート二三枚分ほどの大きさしかないので、通り過ぎるだけならば数分で一周できてしまう。リホは、この世界をより堪能したいからだろう、途中で足を止めて柵にもたれた。二人で、巣箱の上で平たく身体を伸ばしているリスを見つめる。日光浴中なのか心地よさそうだ。彼女は羨ましそうな目をして口を閉ざした。
リホが黙ると、途端に静寂が漂った。いや正しくは、周辺の家族連れやカップルたちが引き続き賑やかなので、とても静かになった気がしただけだ。
――ここに来るのは子供の時以来だよ。
寒々とした空気を振り払うためにそう話しかけると、彼女は曖昧に頷いた。
――ここって、僕が中学生の頃だったかな、檻が壊れてリスが逃げたことがあるんだ。
――え? じゃあ、昔はもっとリスがいたの?
――ううん、職員の人たちが捜索に走って、三十匹中三十八匹が捕まったよ。
――増えてるじゃない。
――不思議だよね。
首を傾けて肩をすくめると、リホは楽しげにクスクスと笑った。ところが、ひとしきり笑い終えると、今度は打って変わって真剣な眼差しをこちらに向けた。
――ねえ、どうして檻が壊れただけでリスは逃げたの?
――逃げるに決まってるだろ。
突然の問いに即答してはみたけれど、満足のいく返答ではなかったのか、彼女はつまらなそうな顔をして再び歩き始めた。
檻の外に出ても、リホは、浮かない顔をしていた。いささかの不安を抱いて、どうかした?と尋ねると、彼女は細い声で、夢を思い出しちゃった、と答えた。
――夢? 夢って夜に見る夢?
――うん。よく見るの。
――どんな夢?
ぎこちなく言葉を交わす。
リホは視線をやや上に向け、歩きながら語りだした。
――真っ赤な夢。全てが赤く染まっていて、その中心に鬼がいるの。鬼はただ音もなく手を叩いて、声も出さず口を開けてるだけなんだけど、なぜか、考えが伝わってくるんだよね。戻って来い。仲間が待っているぞ。闇を越えて天国に来い。そういう言葉に頭の中を掻き回されて、やがて大勢の足音が聞こえてくる。
彼女は、少し間を空けてから、最後にこう付け加えた。
――世界が、赤い。
何かしらコメントをしなければならないと思い、とりあえず口を開く。
――それは。
けれども上手く言葉が続かなかった。そんな言い淀む様子に痺れを切らしたのか、サトルが、レンズと肉眼でもってリホのことを睨め付け、話を引き継いだ。
――それは、暗示だよ。リホちゃん、それは地獄変だ。
リホは意味が分からなかったらしく、こちらを向き、解説を求めるように首を傾げた。
地獄の業火を忘れるな。サトルのいつものフレーズが頭をよぎる。
――えっと、地獄変は、小説のタイトルだよ。主人公の絵描きが、火炎の中で苦しみ喘ぐ愛娘の姿を見て、地獄の絵を描く。そんな作り話だ。そう。娘が焼け死ぬ話だ。
説明を聞き終えたリホは冷ややかな表情でサトルのことを見やり、それからすぐこちらに向き直って、とつとつと言葉を紡いだ。
――ねえ、主人公の絵描きは、その後どうなるの?
思ってもいなかった質問に戸惑ったものの、記憶を漁りながら答える。
――確か主人公は、絵を描き上げた後、首を吊る。
リホは、何を思ったのか、噛み締めるように繰り返し頷いた。そしておもむろにうつむくと、悲しいね、と呟いた。




