綿毛タンポポと彼女と月
小さい頃、綿毛になったタンポポを吹くのが好きだった。
たいがいの子どもは綿毛タンポポを見つければやるよね。
季節になると、学校からの帰り道で綿毛を見つけるたびにやるものだから、なかなか家にたどりつけなかったものだ。
ある日、見事なやつをつまんで吹いたら、舞い飛ぶ綿毛の間から小さな生き物が転がり落ちてきた。
つまみあげると空色の服を着た妖精だった。
そんなもの初めて見たから驚いたよ。
そいつは逃がしてくれるなら、力を与えてやると持ちかけてきた。
返事に迷っていると、妖精はキラキラした光を僕にふっと吹きつけて、太陽を吹いてみろと言うんだ。
言われるままにすると、見る間に黒雲が現れ太陽を覆いあたりが真っ暗になった。
まるで太陽を吹き消したみたいだ。
そのあと強い風が吹き、気がつくと妖精は消えていた。
「それは今ここでしなきゃいけない話?」
「いや、だから……」
ええと、どう言えばいいのだろう?
僕だって今の今まですっかり忘れていた出来事だ。
「今はアレをどうやって取るかでしょう?」
環の声に焦りが加わりつつあった。
人気グループのライブ開場まであと15分。
仲間内数人で一括購入したチケットを配った際、財布にしまいかけた環のチケットが突風に飛ばされた。
チケットは向かいの街路の木の枝にひっかかったのだが……。
枝までの高さは四メートルほど。幹には登れそうな足がかりはない。
「また風が吹けば落ちてくるわ。皆で待つことはないから先に行って」
という環の提案で他の皆は先に会場入りした。
何しろ人気グループ。しかも今回はスタンディング。遅れて入ればいい場所を取れない。
けど僕は二人いた方が何かと便利、と押し切って居残った。
ひそかに思いを寄せているものとして当然だろ?
そんなわけで、夕暮れ時の雑踏の中でふたりして街路樹を見上げているのだが、風が吹く気配はなかった。
吐息めいたものを押し出して、僕に向き直る環。
「近くのお店で脚立を借りてくるから、カツヤはそこで見張っていて」
「ちょ、ちょっと待って」
行きかける彼女を押しとどめる。
だんだん、やれそうな気がしてきた。
「時間がないのよ?!」
そう、開場時間はもう間近にせまっていた。
でも。
僕は焦る環をなだめて、枝先のチケットに顔を向けた。
最近やっていないから、どうかな?
祈るように息を吸い込み、
ふっ
口先に風をおこす。
チケットは風に舞い、くるりと翻って僕の手の中に落ち着いた。
「え? 何っ?」
「やった。これでライブに間に合う」
「何が起こったの? ああ、なんでもいい! カツヤ、ありがとう!」
こうして、僕らはめでたくライブに間に合った。
評判通りの好演だったライブ終了後、バイトだ、門限だと仲間が散って行く中、さっきのお礼にお茶でも、
と環に誘われた。
満月に照らされたオープンカフェ。
少々夜気が冷たいが、ライブの余韻に火照る僕らにはちょうどいい。
「それにしても、カツヤが妖精のことを言い出すとは驚いたわ」
あのときは慌てていて口を滑らせてしまったけれど、冷静になってみれば、言う必要はなかった。
だいたい妖精なんて誰が信じる?
「風からおとぎ話を連想するなんて、笑っちゃうよね。焦っていたのかな。
それにしてもあんな高いところにあったチケットを吹き落すなんて、できるわけないよね。
偶然風が吹いてよかった」
妖精はおとぎ話、チケットは偶然吹いた風で落ちてきた、という方向へ話を逸らす作戦だ。
でも環はごまかされなかった。
「妖精って、綿毛タンポポの中で寝ているのかしら。わたしが会ったのは草色の服を着ていたわ」
と、テーブル上の一輪差しのつぼみをつついた。
つぼみは一気にほころんで、ピンク色の花弁を広げた大輪のバラになる。
僕は、花と環とを交互に見つめ茫然自失。
「カツヤの力のほうが、便利そうね」
覗き込む笑顔が僕を溶かす。
「明るすぎる月を、吹き消せる?」
試してみるよ、と頭上で輝く月に向かってふうっと息を吹きかける。
雲がどこからともなくあらわれて、満月を覆った。
深夜のオープンカフェの片隅。
月が隠れた空の下、環がそっと寄り添ってきた。