05.葛藤
05.葛藤
すっかり大人びた表情をする椿は、時たま俺の知らない女の様で、なんだか落ち着かない。
『髪を梳かしてもいいですか。』
ひらりと落ちる紙切れに目を通した俺は、ごろりと縁側に寝転がり目を閉じる。この縁側が俺の定位置だ。蒔絵の綺麗な櫛を手にした椿が、俺の髪を梳る。
どうやら椿はこれが好きな様で、幼い頃はよく俺の髪を触りたがった。
小さな紅葉の手が、俺の髪を触る感触はむず痒く、何度やめさせても、気づけば触りに来ていた。そうなれば椿のもさい頭にも目が行き、これまた仕方なく鳥に言いつけて櫛を出してもらい、わさわさしたその頭を俺が梳かしていたのも、だいぶ昔の事だ。
今は交わす言葉も無いが、ゆったりと流れる時が妙に居心地いい。
『白蔵、今日も出かけてきます。夜には戻ります。夕飯何か食べたいものありますか。』
顔に落ちてきた紙を退かし、寝そべったまま見上げれば、覗き込む椿がいる。
「お前、いい加減覚えろよ。妖は人の食いモンなんか口にはしねえの。」
わかってた。
何が嬉しいのか知らないが、そう言わんばかりの笑みを見せた椿は、頷いてから社を後にした。
「なあ、椿のやつもうずっと村に通っているが……」
鳥に言いかけた俺は、続きを言葉にするのを止めた。
もう何年そうしているのか分からない。けれど、椿は飽きもせず毎日の様に村に通うのだから、何かしらの理由があるに違い無い。
ただ、その理由はきっと俺が聞いても面白くも無いものなのだろう。
「なんじゃ白蔵、お前らしくも無い。はっきりしろ。椿がなんじゃ?」
「別に……、何も無い。」
パタパタと小さな羽音を立て鳥が頭に止まる。
「お主、なんの自覚も無いのか?」
「何がだ?お前こそはっきり物を言え。」
鳥のまん丸な瞳が、にたりと笑いを浮かべ細められた……様に見えた。何度も言うが、鳥の癖に人間臭い顔をしやがる。
「いや、何でもない。そのうち自ずと知れよう。」
ツンと澄ました鳥を片手で握り締める。
「ちょっ!待て!グジャっとやってくれるなよ。そんなに気になるなら見せてやるから!なっ?」
鳥の言葉にしぶしぶ手を緩めると、その隙に慌てて空に舞い上がる小さな黒い姿。俺の頭上を何回か旋回すると、森の奥を目指して飛び去った。
いっその事グジャっとやっても(俺は)構わないが、どうせ次の日にはまた違う鳥に顎で使われる羽目になるだけだ。鳥の体はあくまで依代に過ぎない。
パタパタと軽い羽音を辿れば例の泉に着いた。
「どう言うつもりだ。」
「まぁいいから、見ておれ。水鏡に映るそれは、今し方起きていることじゃ。儂が作り出した幻などでは無いぞ。」
青く澄んだ泉を覗き込めば、自分の影が映りこんでいた水面がゆらりと揺らぎ、あの黒い髪で顔を隠した娘の姿が見えた。
椿は別段何をするでもなく、田圃の畦道の隅っこに座っていた。けれど、その視線の先にはいつも同じ男の姿があった。
土と汗にまみれた男が振るう鍬の音が聞こえて来るような気がしたが、泉が映すのは景色だけで無音だ。
男の横顔は精悍で、陽に焼けた肌はよく働いているのが良くわかる。ひたすら土に向かう事で、漸く永らえる村人の一生を体現した様な姿だった。
男をジッと見つめる椿の表情は見えない。目元を隠す為に伸ばした前髪に隠れ、白蔵に彼女の心情を推し量る手立てはない。
「いつもああなのか?ずっとあの男を……」
「左様、この社を離れる時は、大抵彼奴の姿が見える所におる。」
鉛を押し込められた様な、息苦しさを感じる自分が信じられない。形容しがたい何かが自分の中に渦巻くのを感じたが、同時にそれを否定したがる自分もいる。
「折角あくせく働かなくても良くなったのに、土に塗れて野良仕事でもしたいのかね、あいつは。」
「あの男を見たいが為に村に通っておるのじゃろう。椿もようやっと大人になってきたようじゃ。」
人間の持つ時間は短い。その命は脆く、簡単に消える儚いものだ。
ようやっと、なのか?
もう、じゃないのか?
そして、椿はもう子供ではない。
最初の頃はおずおずと出してきた小さな手、俺の髪を梳る櫛を持つ手も少しづつ大きくなった。あかぎれだらけの手は、白く滑らかな大人の手に変わった。
鳥の言葉に苦い物を感じた俺は、やっとの事で絞り出した。
「なんと物好きな事で。人間など矮小な輩が良いとはな。」
「そりゃあ何だか負け惜しみの様な響きじゃなぁ?白蔵よ。」
「なんの事だ。」
自分でも分かる程の眉間のシワが刻まれている。だがその理由が判然としないのが嫌だ。そして、あの鳥の顔。俺の知り得ない胸の内に巣食う何かを、知っているのだといわんばかりだ。これも気に喰わん。
「やれやれ、このままだと本気で握りつぶしかねんな。」
そう呟いた鳥が空に舞い上がった。もうこれで終いだと言わんばかりにスイッと身を翻して飛び去ると、水鏡の映像も消え去る。
俺は静けさの戻った泉に一人佇み続けた。
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