見つめる目
天に浮かぶ円は日に日に色を濃くしていた。
同時に、最近は天井から温い雨のような物が漏れることもある。
したり、したり。と、それは壁を伝って時に私の顔をぬらす。それに触れると、妙に切なくなる。その温度は春の雨に似ているのだ。
雨の中でも春のそれは特別だ。花の色を吸い込んで降るので、どの季節の雨よりも切ないほどにぬるい……と言ったのは、彼女である。
だから彼女は、春は傘を持ち歩かない。降り始めた雨を、喜ぶように体中で受けた。
彼女はまるで、植物のような人だった。それを思いだし、私は春の雨を浴びたくなった。
……桜の色がにじむ、春の雨。
なるほど、私はウカのいうとおり外に焦がれている。
「ああ。ウカ。この部屋は雨漏りがしているぞ。壊れているんじゃないのか」
壁がぬるりと動くのをみて、私は久々に軽口を叩く……が、現れた彼女の姿を見て息を止めた。
「ウカ!」
いつも舞うように現れる彼女の足取りが、重い。ウカはゆっくりと数歩すすみ、やがて息を整えるようにその場に座り込んだ。
私は思わず立ち上がり、彼女の細い腕を掴む。
「その怪我は」
ウカの仮面が、欠けていた。狐の耳が折れ、着物の袖が裂けている。袴も裾もほつれ、むき出しの足に深い傷が見えた。
血はもう流れていない。その代わり、えぐれたような傷は生々しく赤い。彼女の肌の白さのせいもあり、それはぞっとするほどに美しかった。
「大したことはない。どうにも最近は不信心物が多くてね」
ウカは袴でその傷を隠し、ずれた仮面を直す。腕にもすり切れたような傷がある。
彼女の体を抱き上げて、私は壁を睨む。その向こうに、彼女をこんな目に遭わせた人間がいるのか。
「……誰に、やられた」
「斉藤。声が怖いぞ。大丈夫だ、落ち着け」
傷は酷く見えるが彼女に痛みはないのだろうか。からからとウカは笑う。
「ガキどもが調子に乗って暴れただけさ。心配するな、大昔、切り刻まれた時よりは辛くない」
「……呪わないのか」
「呪ってどうする」
「怒らないのか」
「哀れには思うがな。怒りはしない」
ウカは指先で傷をなぞる。それだけで、傷は消えた。薄く赤い跡が残るだけだ。
続いて彼女は折れた狐の耳に触れた……が、それはもう直らないのだろう。折れた箇所から木のささくれが見える。
「ああ。こいつはだめだ。耳のかけらをなくしてしまった……まあいい。形あるものはいずれ壊れるさ」
「ウカは……冷静だな」
「私自身が殴られたわけじゃない。たかが人間に、私を殴れるものか」
片耳のかけたウカは、どことな間抜けでそして哀れに見えた。それは壊れた彫像をみるような切なさである。
「ウカは殴られていないのか?」
「かたしろがやられると、私自身にも少しばかり影響がある。今回のは、そういう類のものだ」
「かたしろ?」
「神社のものすべてだな。たとえば、鳥居や、建物や、狛犬……」
私はウカの言葉とともに、神社の境内を思い出した。静謐な空間に、たたずむ鳥居、拝殿、鎮守の森、そして狛犬。
「ウカの場合は、狛犬ではなく狐だろうな。確か、稲荷の神社には狐がいるだろう」
ある種の神社を守るのは狛犬ではなく狐だった。
ずんぐりむっくりとした狛犬と違って、狐の像は細くて長い。独特な空気をまとっている。それはウカによく似ている。
「そういえば、俺も昔……神社で暴れていた男を一人……」
狐の像を呼び水に、思い出したのはずっとずっと古い記憶だ。
まだ私が若い頃。神社で無法を働く男を見つけた。男は、気の弱そうな青年であった。おそらく、鬱憤を晴らすのが目的だろう。
彼は誰もいない深夜の境内で、あちこちに傷を残して歩いていた。
手にしているのは、ナイフだ。鋭いそれを手に、彼は怯えるように境内をこそこそと動き回る。その癖、口元には不気味な笑みが浮かんでいた。
拝殿、賽銭箱、植物、そして神社を見守る狐の像。
私は木陰でそれを見ていた。ちょうどその頃、神社が襲われる事件が多発していたのである。
犯人は大きな傷を残すわけではない。しかし鋭いナイフであちらこちらが傷つけられる。壊される。そんな噂が聞こえてきた頃だ。
男を見つけたのは偶然だった。しかし、男の狂ったような目を見て私の中の悪い癖がぞくぞくと震えた。
同時に嫌悪感が吐き気とともに襲って来た。男の顔は、私が人を殺す時の顔とそっくりだ。
その時、男のナイフの柄が狐の像を襲った。がん。と鈍い音が響く。一回、二回、三回、四回。
男は執拗に像を殴りつける。そうしてようやく、耳が壊れた。からりと音をたてて、石でできた耳が地面に転がる。
百年だか、二百年だか……歴史のある神社だと聞いたことがある。詳しくは知らないが、像もきっと古い。いや、きっと古いはずだ。多くの人間が見守ってきた、大切な宝であるはずだ。
……ああ。殺す理由ができた。
と、私は喜びにうち震えながら、懐に手を伸ばした。
それは確か、雨でも降りそうに冷え込む、冬の夜のことだった。
「そうだ、そのときに、俺は」
あっけなく、男は死んだ。像は何度も殴りつけなければ壊れなかったというのに、男はただ一回。ナイフで貫くだけであっと言う間に死んだ。
地面に流れた血の先に、男の壊した像のかけらが落ちている。
血で汚れる前に私はそれをすくい上げ、そして壊れた箇所に乗せてやったのである。
元通りとはいかない。しかし、不格好ながら、なんとかその場所に耳の欠片が戻った。
狐は一部始終を見ていたはずだ。もちろん、顔色一つかえないが。
その冷たい目を見上げて、私は言った。
(……お前はここで壊れていい存在じゃないだろう)
その言葉を思い出したとたん、私の背が震えた。
それは、いつか……ウカが私に向かって放った。その言葉である。
「ウカ」
喉が震えたせいで、声まで震える。おそるおそる顔を上げ、目の前に座る少女をみる。耳のかけた狐面。裂けた着物。
けして素顔は見せない。つり上がった狐の目は、かつて私の殺人を見つめていた狐像の目に似ている。
「お前……もしかして、あのときの」
「今日は飯じゃなく、酒を持ってきたぞ」
「おい、ウカ。答えろ」
「泡がすごいな。ほら、こういう酒は冷えてるほうがうまいのだろ? 早く飲め。まあ米で作った酒のほうが、私は好みだがな」
ウカは私の言葉にこたえない。これまで彼女はどんな些細な質問にも、耳を傾けてくれた。答えるかどうかは彼女の機嫌次第だが、けして無視はしなかったはずだ。
しかし、今はまるで私の声など聞こえないように無視をする。
そして私の前に盆を一枚、おいた。
それは美しい黄金色の泡があがる、一杯のビールである。
「お前は、これが好きだろう?」
細長いグラスの下には一枚のコースター。それには大きな目を持つ女の顔が印刷されている。
印刷の女と目があって、私はぞっと震えた。
私はこの女の顔を、知っている。私は誰かを殺した夜、決まってバーへと向かった。そこで一杯のビールを飲むのが癖だった。
そのバーで使われていたのが、このコースターである。
グラスの下から見つめてくる目と目をあわせながら飲む酒は、妙にうまいのだ。その目は神社の狐と同じく、気高い視線だ。私の行動を否定も肯定もしない。そんな目だ。
確か、神社でことを終えた夜も、私はそこで冷たいビールを煽った。
「なあ斉藤。もう皿も、47枚になった……」
「応えろウカ。お前は、あのときの」
「だとしたら?」
ウカは少々不機嫌そうに、首を傾げる。私がグラスに手を着けないことが腹立たしいのだろう。
彼女は自分自身でグラスを握ると、私の口に押しつけた。
「いいから飲め。そんなことは些末なことだ」
「俺にとっては些末なことじゃない。お前は、俺に恩を返すために……っ」
グラスを押し返せば、あふれた泡が私の口に滑り込む。それは、あの夜を思い出す。
そうだ。私は殺人者だ。それは自分が誰よりも理解しているつもりで、実際のところ何も分かっていなかった。
この部屋で目覚めて以来、私は私が殺人者であることを、どこか他人事のように見ていた。
苦みのあるビールの味をかみしめて、その喉を通る心地よさを感じて、私は思いだしたのだ。
ナイフを握る指の感覚、触れた血の暖かさ、臭い、色。そうだ私は、ろくでもない殺人者ではないか。
「これはただの……そうだ、実験だ。君は黙って飯を食っていればいい」
私が一口飲んだことに満足したのだろう。彼女は指先でグラスをなぞる。そこにはもう、一滴のビールも残らない。それを彼女は嬉しそうに棚へと飾る。
「実験……?」
「前も言ったはずだ。この世の中には理があると。これは、理をかえるための、実験だ」
それが何であるのか。聞いてもウカは答えないだろう。無言のままに棚を見上げるウカを見て、私は恐怖に震える。
それは理由のある恐ろしさではない。得体の知れない恐怖。人間が神に抱く恐怖だ。おそらく、遙か古代から人間の体にうえつけられた恐れである。
返ってこない返事を待ち続け、私は拳を握り締める。その拳の上に、また一滴。温い雨が降り注ぐ。