満月の夜に
この部屋で最初に目が覚めたとき、ここは不気味で仕方がなかった。天井も壁も床も、何もかもが白いせいだ。
しかし、住めば都とはよくいったもので、最近は妙に心地がよい気がする。
生あたたかい空気も、この清浄な白さも、まるで温かい手のひらに包まれているようなのだ。それは遙か昔、母に抱かれていた古い記憶を呼び覚ますせいかもしれない。
「なあ。ウカ。外は、満月なのだろうか」
私は寝転がったまま、ぼんやりと呟いた。
目の前に見えるのは、白い天井。高さはそれほどでもない。立ち上がり、飛び上がれば手を突くことができるだろう。
そんな真っ白な天井に最近、丸い輝きが現れるようになった。
まるで、月のような円なのだ。それが何なのか、分からない。ただ、この部屋に変化が現れたのは不思議なことである。
「なぜそう思う」
「時折、壁の向こうに丸いものが見える気がするんだ……銀色の……」
「はて。見えるかな?」
私の隣に座るウカも、つられるように顔を上げた。狐面の下から、白い顎のラインが見える。いかにも少女らしい、つんととがった顎の形だ。
しかし、見つめるうちにそれはゆっくりと形を変えていく。かの、盲目の人と同じ形に変わる前に、私は目をそらした。
「俺が死んだのは……いや、正確には死ぬのに失敗した時、か。まあそれは春の頃だったから、きっと今頃は夏か、それとももう秋か……どちらにしろ、今は満月の頃なのかな」
「はじめて、外のことを口にしたな」
ウカは声を上げて笑う。私はその言葉を聞いて、身を起こした。なるほど。確かに、外の世界に思いを馳せたのは久々のことだった。
外の季節はいつ頃なのだろう。満月なのだろうか。晴れているのか、雨なのか。風は冷たいのか、暑いのか。
ここは、なにぶん温かな世界にすぎる。
「戻りたいか、外へ」
ウカは優しくそう言いながら、私の前に一枚の皿をおく。
それは、満月ような丸さを持ったホットケーキだった。
こんがりときつね色に焦げた、丸い固まり。上におかれたバターは生地の熱にとろりと溶けて、ゆっくりと崩落をはじめている。
その上から注がれるのは、黄金色のシロップ。生地に、ぐずぐずと音を立てて沈んでいく。
白い皿に横たわる形は、いかにも郷愁をそそられる。
「懐かしいな」
「こんなものが?」
「昔は大好物だった。最近は食べてないがな……こんな中年になると、食べたくても食べられないものが増えていく。こんな子供じみた甘い物は特に外では食べにくい。ただ、この場所なら、誰を気にすることなく食えるのが有り難いな」
「人間の社会はむずかしいな」
大昔、まだ子供の頃。私は母の作るホットケーキが好物だった。
無骨なフライパンの上で白い生地がぐつぐつと煮えたつ様は、まるで苦しさに悶えるようだった。それをひっくり返せば、何事もないような艶やかな茶色へと変わるのが、不思議と心地よかった。
嗜虐性は幼い頃から、おそらく、あったのだ。
「……外へ、戻る。か」
幼い頃の思い出をつぶすように、私はホットケーキにナイフを入れる。ざくざくと切りつけるたび、過去の思い出は薄れていった。
「戻っても苦しむことになるのなら」
生地の切れ端を口に含む。歯を貫くような甘さと、柔らかさだ。
「……ここにいた方がいいんじゃないか、と思い始めている」
顔を上げれば、壁の棚には40枚を越える皿が並んでいる。形も大きさもばらばらだ。
これがあと何枚になるまで私はここで過ごす羽目になるのだろう。皿とともに、この部屋の中で埋もれて、死ぬ。そんな死に方もいいのかもしれない。最近は、そんなことを考えている。
ウカは立ち上がり、私の頬をつかむ。白い指がぎりりと頬に食い込む。
「……なあ。なぜ、君は死のうとした」
「ウカが神なら分かるんじゃないか」
「分からないさ、分からない事ばかりだよ。君はいいやつだし、素直だ。殺人だって楽しかったんだろ? 女を愛してもいた。ずいぶんと充実しているじゃないか。なのに、何故死んだ」
ホットケーキの皿はあっという間に空となった。真っ白なさらにフォークとナイフを放り出せば、からからと乾いた音をたてる。
「そうだな……たぶん、俺は女にだけは……彼女にだけは、殺人癖を見抜かれたくなかったのかもしれない」
その乾いた音は私の心の音だ。
オムライス屋の裏で一人の男を殺した。男の心臓が止まって死ぬ音がした。その日以降、盲目の彼女が作る料理に、スパイスが増えた。
特に顕著だったのが、カレーライスだ。これまでは優しい甘さだった彼女のカレーが、ぐっと黒く、そして辛くなった。スパイスが、たっぷりと含まれるようになった。
彼女は何も言わない。しかし、彼女の料理は口ほどに物を言う。スパイスは血の香りを消すのだ……と、悟った瞬間、私の中の殺人衝動は消えた。
そして、命を絶とうと、そう思ったのだ。
信奉するほどに愛した女をコーヒーの香りとともに手放して、そのかわり私は自分を殺す紐を手に取った。
「あの人は汚してはならない」
紐を首にかけて、飛んだ。息の乱れも恐怖も震えも一瞬のことだ。
そうすれば、私の記憶も人生も何もかも終わると思った。
「理不尽は、殺しても殺しても生まれてくる。世界も理不尽もなくせないのなら、俺が死ぬしかなかった……はずなんだがな」
まさかこのような場所で飯を食う羽目になるなど、誰が想像できただろうか。
温かな床に寝転がる。頬を床に押しつけるだけで、不思議なくらいに落ち着いた。
「でも、君は生きたいと思ってる」
ウカは寝転がる私の顔をのぞき込んだ。
彼女の白の手が私の胸を押す。
「聞こえるのさ。神だからね」
……私の心臓は確かに音をたてて動いている。思えば最初、この部屋で目覚めた時の心音は心許なかった。今は、自分でも分かるほどに鼓動が早い。
「それと同時に、君は、ここを出たいと……思っている」
ウカの触れた胸の奥、鼓動がはねた。
そして、同時に床の温度が上がる。
天に浮かんだ満月のような円が、輝きを増した気がした。