告白と思い出の赤
あれほど旺盛だった食欲が、音を立てて消え去った。
ウカの仮面を剥いだ日からである。
(俺は、心が弱いのだな)
と、私は痩せた顎を支えて考える。
別に、ウカの責任ではない。ウカに対しては怒りもわかない。二人の関係は、そこまで淡いものではもう無いはずだ。
(逢いたいなどと思うなど)
……ただ、盲目の人に逢いたい。無性にそんな風に思ったのだ。生きたいと、心のどこかが叫んだ。その感情が、私をおそれさせた。
「きっと君が食べなくなるだろうから、仮面の中を見られるのが嫌だったんだ。お願いだからそろそろ食べてくれないか」
大きな皿を抱えたウカが深いため息をつく。
彼女が皿を運び、私が拒否をする。そんなやりとりを、すでに5回は重ねている。
「まるで最初に戻ったみたいで懐かしいが、そうオカンムリになるな。食べてくれ」
「懐かしい、か。確かに。最初はこうだったな。いや、別に怒ってるわけじゃないんだ。ただ、腹が減らない。情けない話だが」
「そう穏やかになられるのも嫌だな。むしろ怒って暴れてくれたなら、押さえつけてでもその口に流し込むのだが」
そう言って、ウカは虚しそうに壁を見上げた。
私が食べず空となった皿は、どこか寂しく棚に並んでいる。
ウカは床に座ると、抱えた皿を私に向かって差し出した。
「言いたいことがあるなら話は聞いてやる」
温い湯気が、私の顔を濡らす。
「どうせ私の本業もそのようなものだ。懺悔でも惚気でも恥ずかしいことでも、何でも聞いてやる。だから食ってくれ」
今日、ウカが持ってきたのはオムライスだった。
真っ白なウカが支えるオムライスの皿。鮮やかなばかりの黄色と赤のケチャップがまぶしいほどだ。
「さあ、たんと召し上がれ」
少しばかり震えた声で、ウカはいう。
「正直。最初の反抗的な時よりも、今の方がずいぶん堪えるな。一度、懐柔できたと思っていただけに」
「懐柔じゃない。これは情だ」
いつまでもウカの手にある皿はずっしりと重そうだ。幼い手が哀れにおもえて皿を奪う。と、ウカがほっと小さく息を吐いた。
「……赤いな」
皿を抱え込むと、どろりと流れる赤のケチャップが気に障った。
目を閉じて息を吸い込めば、暖かく甘い風が顔一面に広がる。
そんな風を私は以前、浴びたことがある。
「食べたことがある。って顔だな」
「もちろん。何度も食べたが……一番強烈に思い出に残っている店のものに、よく似ている。だから、つい、な」
「どんな店だ?」
「さあ。もう名前も忘れたが……」
それは盲目の彼女が言い出したことなのだ。少し離れたところに、オムライスの美味しいお店がある。だから一緒に行きたいとねだられた。
「有名な店だったよ。外にまで行列が伸びていたな」
それは生ぬるい春の頃。確かにその頃、私の中にある衝動は……殺人衝動は収まっていたと記憶している。
しかしその時、数年ぶりに一人の男を手にかけてしまった。たったの一瞬で、私は息をするように、一人の男を殺した。
血の跡さえ残さず店に戻った私の前に、ゆらゆらと揺れる赤い影。知っているぞ。と、聞こえないはずの声が聞こえた。
お前の罪を全部知っているぞ。女に告げ口をしてやろうか。さぞ怖がられるだろう。さぞ嫌われるだろう。
と、せせら笑う声が確かに聞こえたのだ。
それは、私自身の声である。
私は目も開けられず、むせかえる湯気に顔を埋めるようにして平らげた。
「いやに、がっつくな。腹が減っていたのか?」
あの日と同じように、無我夢中に平らげていく私をみてウカが苦笑する。が、やがてささやくように言った。
「……いや、悲しいことを思い出したのか?」
「俺は、赤い色が嫌いだ」
皿に残るのは、黄色の汁と食い散らかされた米粒。そして、どうしても消せない赤の筋。
ウカはその小さな手で皿をそっと撫でる。それだけで、皿はいつものように白へと戻る。香りさえ残さない。私は急に胃の痛みを覚えてその場にうずくまる。
ウカはそんな私にかまわず、皿をまた棚に飾った。もう、40皿だ。どこまで増えていくというのだろう。
「……人間とは奇妙なものだな。食べるということは、生きることだろう? 体を動かし、生命を維持するためだけに食べるくせに、その食べ物に思い出を組み込む。とても興味深いな」
「別に……楽しい思い出じゃないさ」
寝転がる私の顔を、狐の面がのぞき込む。胃の重さと罪の苦しみにもがく私にとって、感情を持たない仮面が妙にありがたかった。
床にへばりついたまま、私は情けなくも彼女に向かって手をさしのべた。
「たとえば……俺が犯罪者であるといえば、お前はどうする」
ウカは首を傾げて私をみる。そして私の手をつかんだ。
小さく冷たい、まるで石像のような手!
「別に、なんでもない。神と人の世界は違うのだから」
「もし……人を殺したとすれば?」
「なんだ。そんなことくらいで、ずっと思い悩んでいたのか」
手をつかむ力が、強くなった。いや、私が手を引きかけたのをウカが引き寄せたのである。
「知っているさ、人を殺していたことくらい。だから何だって言うんだ。人を殺す人間など、山のようにいるじゃないか」
「なん……で」
あっけからんと言い放つウカの声が、私の中で幾度も響く。脳の理解が一瞬遅れる。理解したとたん、身体にふるえが走った。
ウカは人間の心など読めないといった。
そして私もまた、ウカに殺人の懺悔などしていない。
「なんで!」
「そんなことはいいから、全部吐き出せ。そんな妙なものを腹に持っているから飯が食えんのだ」
ウカの力は強い。それとも、私の力が入らないのか。
ウカの声は強い。そして私の声は弱々しい。
強い光に当てられたように、私はしおしおと頭を垂れた。
「……最初に殺したのは、子供の時だ」
寒風の吹く、餅つきの帰り道。その冷え冷えとした空気は一生忘れられない。
「その次は間があいて中学に入った頃か。理由は忘れたが、恐らくチリを地面に捨てたとかその程度のことだろう」
ウカは私の手をつかんだまま、無言である。
「……そのあとはあまり間があいてない。かつあげをしている男だとか、子供に暴力を振るう母親だとか、やくざだとか、男も女も関係ない。まあ手当たり次第だ。子供でも関係ない。無免許で人を殺したくせにのうのうと生き残る子供だとか、神社で狛犬を壊して喜んでいた子供だとか……」
急に喉の奥に痛みが走ってむせる。それでもウカは私の手をはなさない。
「俺は、人を殺すことが楽しくなっていた」
「殺し始めたきっかけは、なんだ?」
「さあ……たぶん、そういう生き物なんだろう、俺は」
私はウカの言葉に言葉を濁した。最初のきっかけは、盲目の彼女を杵で傷付けた少年への報復だった。あまりに幼く自分勝手な動機だ。
「それでも、ずっと殺し続けていたわけじゃない。止めることだって出来たんだ」
「ほう?」
盲目の人とは幼少の以降、しばらく出会うことがない。どこか遠くへ越したのだと聞いた。
殺人を犯したことも彼女への思いも分からないまま、幼い私は時を重ねる。
次に彼女とすれ違ったのは中学時代。淡く揺れる気持ちの正体にも気づく間もなく二人は別れ、その直後、私は2回目の殺人を犯した。
そこからの記憶は、血と赤と悲鳴と嗚咽と気持ちの悪い温もりと、懺悔と後悔と快楽だ。
そしていつの日だったか、私の世界に光が射した。
「……女と再び出会ったんだ」
「盲目の人か」
ウカの声は静かで、優しい。
それは早朝の境内で聞こえる鳥の声だ。鈴の音だ。風の音だ。彼女の声は、通り過ぎていく音に似ている。それが堪らなく優しいのだ。
「……そうだ」
私は無言のまま彼女の手を額に押しつける。
嗚咽が、漏れていた。
「随分大事な人だったようだ」
彼女との三度目の出会いは、一生忘れることができない。
それは桜の舞う春のこと。
温い春風など、当時の私にとっては煩雑なものでしかなかった。花見だなんだと桜の周囲にたかる人間も、私にとっては邪魔なものでしかなかった。
そこに彼女が現れた。花の散る道の真ん中を、杖を揺らしながら一歩。一歩。彼女は薄くほほえんで、顔を空に向けた。花の音が聞こえるのか、耳を傾けた。忙しく動かす頭に、花びらが数枚落ちていた。
その瞬間、私の目に色が広がった。
早春の空の青、柔らかいオレンジの光、空一面を覆うように咲いた見事な桜。風で花が舞い飛ぶ桃色の奇蹟。
彼女は私の人生に現れた、色彩だ。
「そして俺は、幸せになった」
彼女と出会い、結ばれたあの日々が私の中でもっとも幸福な時代となった。
あれほどに酷かった殺人癖はなりを潜め、あたかもふつうの人間のような顔をして私は生きた。このまま生きるのだと思った矢先、私はまた一人、手にかけた。
「……でもまたやった」
「誰を」
「彼女を……馬鹿にした人間を」
件のオムライスの店の前。楽しげに並ぶ彼女に悪態をついた男がいた。聞こえるか聞こえないか、それくらいの声だ。恐らく彼女どころか、周囲の誰にも聞こえなかっただろう。
今から思えばあの男は最初から彼女の悪口など、口にしていなかったのかもしれない。殺人癖を呼び起こすために、私の脳内が勝手に作り出した幻聴なのかもしれない。
ただ、私はその声に導かれるように、やった。すでに席に座って幸せそうに食事をする彼女を長く待たせるわけにはいかない。
だからいつものように、気配もなく音もなく、一瞬でことを終えた。そして店へと戻った。席に座った私に気付き、彼女は優しく微笑んだ。
走ってきたのね。息が乱れてる。
と、彼女は言った。
そして私は、はじめて後悔に震えたのだ。この殺人を後悔した。人生で初めてのことである。
その後悔を押し返すように、私は再び殺人に狂った。家で彼女が待っていると分かっているのに、衝動を止められない。
何人、殺しただろうか。そして私は疲れ果てた。全てに疲れ果てたのだ。
「……これが全部だ。これが、俺の罪だ」
ウカの手を離す。よほど強く握りしめていたのか、彼女の手は赤く染まっている。しかしそれを嫌がる風もなく、ウカは私の額を二度叩いた。
「すっきりしたか?」
「すっきりなど、してはだめなんだ。本当は」
「欺瞞だな。何の後悔もしてないくせに」
ウカの言葉が私の心を刺す。問題は、そこだった。私は人を殺したことについては、何の後悔もしていない。ただ後悔があるとするなら、彼女のそばで殺人を犯してしまった。そのことだけだ。
「ウカは俺が、怖くないのか」
「さあ……別に」
身を起こしてウカをみる。彼女はこれだけの告白を受けてなお、動じる気配もなく背筋を伸ばしたまま私を見ている。
やがて、ウカは歌うように言った。
「私は遙か昔の神代のころ、一度殺されたことがある」
何でもないような一言だが、私は声が詰まる。
「……なぜ」
「さてな。旅人に食事を喰わせてやったのだが、やり方が気にくわないといって切り刻まれてな」
ウカはそういって、着物の袖をめくる。真っ白な袖の下から現れたのは、頼りないほど細い腕だ。そこには、無数の傷跡がうっすらと残っている。
「しかしそれさえも信仰の対象となったようでな。私の名は書籍に刻まれ社を造られ、崇められ……私は神となった」
「理不尽な」
「奇しくも、人を殺した人間と神に殺された神がこうして向かい合っていることになる」
ウカは腕を隠すと、私の頬を両手で軽く叩いた。
「奇遇だとは思わんか?」
「……俺の話が煙にかまれたようだ」
「巻いたんだよ」
さあ、帰ろう。とウカは大きく延びをする。
「明日は甘いものがいいか。それとも辛い方がいいか。米が続くのも飽きるだろうか」
「なぜ、ウカは俺を恐れない」
壁に向かって歩くウカはふと、振り返った。
「私は、君が飯を食わないことの方がずっと怖い」
そして壁に掲げられた多くの皿を指さすのである。
「あれもこれも、君が食べたもの。食べなかったもの。何にせよもう、ずいぶんな量となる。一つの皿が空になるたび私は喜び、空にならなければ悲しくなるのだ。これはもう、サガなのだろうな。だから念じるように、君にいうのだ」
ウカの身体が壁に吸い込まれていく。くぐもったような彼女の声が壁の向こうから聞こえた。
「たんと召し上がれ……とな」
何もない真っ白な部屋の中、私は唖然と身を起こすことしかできない。
ウカは、食事を捧げて殺されたとそう言った。
それならば恐ろしくは無かったのだろうか。私に食事を提供することを。再び殺されるのではないかと、怯えはしなかったのだろうか。
ぴくりとも動かない壁を見つめて私は思う。そしてそんな自分がおかしくなった。
もう私はウカが神であることを、疑うことさえしなくなっている。