赤と青、夜のゼリー
この白い部屋には温度がない。湿度もない。風も吹かなければ雨もない、太陽もない。
ただただ、無機質なまでに白いだけの部屋である。しかし、気のせいだろうか。最近、妙に部屋が温かく感じられるのだ。まるで人の手のひらのような。
この部屋は生きているのではないだろうか。と、私は病み上がりの頭でぼんやりと考えた。
「今日はとても可愛らしいものを持ってきたぞ」
ウカは最近、頻繁に現れる。一日という感覚がつかめない以上、彼女が何日置きに現れるのかは分からないが、確かに頻度が増えていた。
それは私の空腹具合で分かるのだ。以前は腹が減りきるまで現れなかった。今では、まだ前の食事が胃に詰まっている時でも平気で現れる。
ペースがあがっていないか、と尋ねれば「焦ってるからな」と、焦りもない声で言いかえされた。何を焦っているのか、一向に分からない。
「……ゼリーか」
ウカが盆に乗せていたのは、細長いガラスである。その中には赤色、緑色、青色……と、様々な色合いのゼリーが沈んでいる。角張ったそれはいかにもつるつると冷ややかで、ゼリーの合間を埋めるのは炭酸水だ。
小さな泡がふつふつと底からわきだし、ゼリーの色をますます鮮やかにする。
最近この部屋は妙に生ぬるい。この生ぬるさを払うには、ちょうどいい冷たさである。
「まだ体調が優れないのだろ。そういうときは、冷たいものがいいのだと聞いた」
「誰に聞くんだ、そんなことを」
「参拝に来る人間の考えていることをのぞき見るのはおもしろいぞ」
「のぞけるのか」
ウカの言葉はいつも嘘か本当か分からない。しかしその軽い言葉に、私の背はぞっと震える。
「……俺の中も」
さて。とウカは少女らしく首を傾げた。
「不思議と君の中は分かりにくい。綺麗なものがどろどろと渦巻いて、のぞけないように防いでくる」
「きれいなもの?」
「君の後悔だとか懺悔だとかに張り付いた、自己弁解の思考だよ」
胃の附が震え、血の気が下る。首筋が震え、喉がひゅっと鳴った。が、ウカはそんな私の顔をさんざん眺めたあとに高い声で笑った。
「冗談だ。のぞけないさ、人間の中なんて」
相変わらず人を食った声で、ウカはガラスの器を差し出した。
「さ。たんと召し上がれ」
白い部屋に、赤や緑の光がきらきらと反射する。その輝きは、いつかの夏の日を思い出させる。
「どうだ、このゼリーは。綺麗なものだろう」
「……昔、これと似たものを食べたな」
受け取れば、手に心地よい。まだかすかに熱が残っている身体に、さわやかな風がふいたようだ。
口にすれば、ほどよい弾力が歯に触れる。そのくせ、飲み込むときはなんの抵抗もない。炭酸の甘い泡が口の中に広がる。
色は異なるがゼリーの味はすべて同じだ。ぼんやりと甘く。形容しがたい、曇り空のような味わい。
しかし、それが不思議と胃に収まりがいいのだ。
「ひどく可愛いものを食べていたのだな?」
「いや。もちろん連れがいたよ。目が見えない女でね。このゼリーはどれを食べても同じ味だ。しかし皆、このゼリーの色が綺麗だという。だからどんな色なのか説明してほしいとねだられて」
それは静かな喫茶店だった。ちょうど二人で夏の京都へ遊びにいった時、どうしてもとせがまれて入った店であった。
夏の京都の日差しは強烈だ。真っ白で突き刺すような日差しである。そのくせ、気温は粘っこいほどに蒸し暑い。
その暑さに閉口して逃げ込んだ喫茶店。一歩入ると、溜息が漏れた。
まるで深い夜のような、群青の照明が店の中を包み込んでいた。真夏の凶悪な日差しから一転、そこは夜の世界である。薄暗い店内では、その店の一番人気だというゼリーを食べた。
ちょうどこれと同じく、鮮やかな色と炭酸の冷たさが心地よい一品である。
「生まれたときから目が見えない女なのか?」
「ああ。だから色を知らない。色を知りたいといって、せがまれた」
緑は木々の色だ。そう言っても女は納得をしない。木の色がどんなものかを女は知らないからだ。言葉を飾っても何をいっても納得しない。
そのうち彼女は「初夏に吹く風の色だ」と一人で納得した。同じように紫は夕暮れの雨の色、青は真夏の夜中に目覚めた時に感じる靄の色だ。と彼女はうれしそうにいう。色が見えないだけに、彼女は強烈に色にあこがれていた。だから、色に関しては誰よりも詩人であった。
そんな彼女は私に聞いた。
赤は、どんな色?
私は何も答えられなかった。私の中で赤の色は、人の流す血の色にほかならない。
「うまいか?」
「……冷たいな。喉に心地がいい」
一口、飲み込むたびに私は女のことを思い出す。父の顔も母の顔も忘れた。さらに殺した人間の顔もみな忘れたが、ただ女の顔だけは忘れることができない。
私はふと、寂しくなった。
「私は食えないが、綺麗なものだな」
「ウカ」
この寂しさは人恋しさだ。笑えることに、私はおかしいほどに人恋しくなっていた。目の前にはウカがいる。しかし、ウカには表情がない。私は、人の顔を、表情を、恋しく思っていたのだ。
「……面を取ってみないか」
「あ」
ウカは油断していたのだろう。私はスプーンをくわえたまま、ウカの面をつかむ。引く。重く見えた面は、存外軽い。引くだけで、支えていた赤い組ひもがはらりとほどける。
からん。と軽い音をたてて面が床に落ちる。
……現れた顔は。
「斉藤……」
ウカは。ウカであるはずのその顔は、柔らかな赤い唇を薄くゆがめて、わらった。
細面の顔。優しげに閉じられた瞳。柔らかな唇。かすかにあがった口角のすぐ右隣にある薄いほくろ。
小さな鼻、丸い額。柔らかな髪。
「な……んで」
それは私は震えて、スプーンを落とす。それはウカの面に当たってはねた。
その顔は、かの盲目の女そのものではないか。
「神の顔というものはな、君がいま一番会いたいものの顔になるのだ」
女の顔をしたものが、ウカの声でいう。一瞬、彼女がそこにいる錯覚に陥る。しかし身体は少女のまま。目前にいるこの女が、彼女であるはずがない。しかしその顔は、仕草は、ぞっとするほどに盲目の人、そのものなのである。
「違う……お前は、彼女じゃない」
「だから、そういっている。君から見た私は、きっと君の一番いとおしい人になっているはずだ。なぜなら、私に顔というものはない」
ウカは静かに腕を伸ばすと面を拾い上げて顔に付ける。声が一瞬くぐもって、そしてやがてそれはいつものウカの顔となった。
「この面が仮の顔だ。人が願わねば、私は顔も体もない。かりそめだからな」
暴れる心臓を押さえて、私は床にへたりこむ。食欲は一気に失われた。驚きと恐怖と切なさと、そして苦みが口の中に広がったのだ。
「お、お前に……本当の顔はないのか」
私は震える声でいう。私のもとに通い、飯を運んでくる。明るく横暴なこの少女が急に儚いものに見えたのである。
「……お前は、人が忘れたら、消えるのか」
そう言えば、ウカは動きをとめた。そして、小さく息を吸い込む声がする。
「……神とは元来そんなものだ」
「理不尽だ……」
私の中に久々に、怒りがわいた。そして消える。誰に対して怒ればいいのか。あげた拳の落とすべき場所が分からない。
ウカは温くなったゼリーをスプーンの先でかき回し、私に見せつける。
「理不尽とはまた違う。それを、ことわり……理という。こんな風に柔らかいゼリーを混ぜると崩れるだろう」
混ざり合ったゼリーは、赤や緑や青色の残骸だ。
「これと同じことだ。物事には筋道というものがある。神は人があって初めて成り立つ。人が願わなければ私は消える。しかし人もまた、神が無くては生きて行けない。共依存に似た関係だ」
色の死体となったそれをウカは優しく撫でる。と、いつものようにゼリーは消えて、空となったガラスの皿だけが残る。
「ただな。私はお前をみて、理をほんの少しだけ、かえてみようと思ったのだ」
ウカは力強く言うと、そのガラスを棚においた。
いまや食器棚の様相を呈してきた壁には、30を越える食器が林立している。
確かに胃に収まった数々の食事たち。
しかしそれは、ウカの存在のように曖昧な存在だ。私は急に胃痛を覚え、その場に崩れ落ちた。