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お帰りと、ただいま

挿絵(By みてみん)


 温度も湿度もないその部屋の中で私が体調を崩したのは、ウカの皿がちょうど25枚目になった日のことである。


「おや。またご機嫌斜めか?」

 いつものように唐突に現れたウカは、私の顔をのぞき込んで首を傾げる。同時に、彼女が手にした皿から食い物が濃厚に薫った。

 それは、からりと焦げ目よく揚がった唐揚げなのである。たっぷりの脂を含んだ身と、吸い込んだ油の茶色の香り。

 ……ぷんと粘つく甘い脂の香りは、普段なら食指もそそられるはずだが。

「すまないが、そんな重い物はちょっと……」

 と、私は顔を背ける。以前までの意地張りではない。明らかにぐったりと床に延びた私をみて、ウカは狐面の中でううむとうなる。

「あ。もしかして具合が悪いというやつか?」

「わからん」

「熱でもあるのか? 風邪というやつか?」

 彼女はおそるおそる、という体で私の額に触れる。ぞっとするほど冷たい手が、今ばかりは心地いい。

 深い眠りと浅い眠りを繰り返してきた最近の私は、少し前から喉が腫れた。

 しばらくすれば、関節が痛み始める。これはいけない、と思ったが風邪薬も栄養剤も、身体を温める布団もなにもないこの部屋で、私にいったい何ができるというのだろう。

 そもそも、こんな無菌室のような部屋で風邪を引くというのも妙な話だ。疲労とストレスが私の身体を蝕んだのかもしれない。知恵熱のように、思い出が私の身体を蝕んだのだ。

「……おお。熱い。人間というやつは、こんな風になるのか」

 ウカはいっそ楽しそうな声をあげて私の額を音を立ててたたく。 

「やめてくれ。響く」

「ん? 本当につらそうだな」

「つらいんだ」

 顔を背けると、ウカは回り込んでまで私の顔を見る。

「つらいとは、どんな感情だ? 体が、どんな風になる?」

「……喉が痛い。頭も痛い。声を出すだけでもだるい」

「それは大変なことだ」

 そして彼女は私の頬を両手でつかみ、切なそうにいうのだ。

「私に向かって健康祈願をして、治ればいいのだが」

「御利益などないんだろ」

 彼女の声はしゅん。と沈むようだ。一緒に過ごしてもう何日となるのか、声だけで彼女の心が読めるようになっていた。

「まあ、御利益などないな……困った。人間はこういうとき、何を食べる?」

「粥とか、うどん……とにかく、胃に負担のかからないもの」

「うどんか。ふむ。うどんなら、どうにかなるかな。少し待ってろ。寂しがるなよ」

 ウカは音を立てて立ち上がるなり、また壁に吸い込まれてきえた。雲のように揺れる靄を見つめても、その先は闇だ。

 彼女がどこからきてどこへ消えていくのか、実際まだ私には分かっていない。

 そして、すでにどうでもいい事である。

(……つらい)

 横になっても、座っても、目を閉じても体中がぎしぎしと痛む。耐えきれず目をとじ、額を手のひらで押しつけて寝転がる。

(……痛い。こんな風邪なんて、何年ぶりか……)

 目を閉じると、瞼の裏に血なまぐさい風景が浮かんだ。

(……つらい。か)

 痛い、つらい、悲しい。いつか、私はこの三つの言葉を意図的に避けていきてきた。

 私の手は多くの人間に痛みを与えてきた。痛いと叫ぶ声も、悲しい顔も、辛そうにうめく声も、すべてすべて、私の手の中でおさめてきた。

 痛いと泣いても、つらいと泣いても、けしてこの手は被害者たちを許さなかったのである。

(この手は)

 私は宙に手をあげる。ウカが清らかといったその手で、幾人に痛みを与えてきたか。

(……人を殺す手だ)

 殺人者としての礼儀で、私は悲しい、痛い、つらい。を封じて生きてきた。それがこんな自然に、つらい。と言ったのだ。私の精神が音をたてて変わろうとしている。

 もっと早くに変わることができればよかった。

 私は唇をかみしめる。目の縁から涙があふれて耳の横をすぎていく。それは熱にありがちな、自然の涙である。

 しかし、私は考えてしまうのだ。

 多くの人間に死の涙を流させた殺人者が、泣くことなど許されない。

(……許されない)

 それは、たぶん私の足にとりついた重い足かせなのだろう。



「おや、さっきよりまた体調が悪くなったな」

 ウカが戻ってきたのは、どれくらい経ってからだったか。

 浅い眠りに落ち、悪夢を見て飛び起きる。それを数度繰り返し、目を開けると私の顔をのぞき込んでいたのである。

 私は額の汗を拭って起きあがる。汗をかいたおかげか、体調は少しばかりよくなったようだ。

 しかし、腹の底にずしりと沈んだ石のような重さばかりはとれない。そして喉の奥が張り付くように乾いている。汗のせいで、水分がすっかり体から抜け落ちてしまったようだ。

 からからと、私の体は乾いている。

「……お帰り、ウカ」

「お。ただいま」

 つい口からこぼれた言葉に、ウカが楽しそうに笑う。

「何がおかしい」

「いや、君にお帰りと言われる日が来るなんて思ってもいなかったからな」

「……何となくだ。気にするな」

 ウカの言葉に私は思わず口を押さえて顔を逸らす。

 悶えながら見た短い夢のまにまに、私は過去を幾度か反芻した。

 夢に出てきたのは盲目の女である。今や、思い出すのは彼女の顔ばかりである。

 彼女は私に、お帰りと言った。ただいまと言った。私も幾度、何百回、何千回、その言葉を繰り返しただろう。

 夢が妙な寂しさを呼んだのだ。夢につられて言葉が勝手にあふれ出した。

「よけいなことばかり、考えるからだぞ」

 ウカはまるで見透かしたように笑うと、背から盆をそうっと取り出す。

 その上には朱い漆の丼鉢がひとつ。ふかふかと湯気があふれている。のぞき込めば、だしの湯気が私の顔を包む。

 黄金色の出汁の中に、白いうどんが静かに横たわる。上には薄くあぶった餅と、出汁を吸い込んだ麩がいくつか。

 手に持つと、指の先から暖かさがひろがった。

 一口、おそるおそると口にすれば喉に湿度が広がる。乾ききった喉の奥が、一気に潤う。胃が、暖まる。

「うまいか?」

「……うまい」

 私は夢中に、うどんをすする。出汁を飲む。肉と違ってうどんはストイックだ。身体が一面に暖まる。

 ひとしきり麺をすすって、私はふと気になった。

「……ところで、これほどの食べ物をどこから運んでるんだ」

「そうやって、この場所を探ってるんだな」

 ウカはひどく嬉しそうである。彼女は床にだらしなく寝転がったまま、食べる私を楽しげに見上げていた。

「そんなわけでは」

「今まさに、これを食べようとしてる人間の机から拝借してるだけだよ」

「それはさぞ……迷惑だろう」

 そのようなこと、あるはずもない。しかしウカならば、あり得る。

 この白い箱の中は、あり得ないことばかりが起きるのだ。

「迷惑かな? だって私は料理なんてできないからさ」

「これも、風邪の人間から取り上げたのかもしれないな」

「かもな」

 ウカは無責任に笑うが、私はしみじみと目の前のどんぶりをみる。

 今まさに、食べようとしたものを奪われた人間はさぞやがっかりと肩を落としているに違いない。

「悪い神だ」

「だからどうした。君が優先だよ、この箱の世界ではね」

 あなたが優先だ。そういって、かの盲目の女も笑ったことがある。湯気の向こうに彼女を見た気がして私は思わず目をこする。

 ……確かそれも私が熱を出した日のことだ。熱を出したのはちょうど台風の酷い夜。彼女は冷蔵庫に残っていた唯一のうどんを使って私のために卵の入ったうどんを作った。

 君のご飯は?

 と、聞く私に、

 あなたが優先よ。この家の中ではね。

 と、彼女は笑ったのだ。

 ちょうど今のウカのように。母にしろ、女にしろウカにしろ、私の出会った女たちは皆、優しかった。

 切なさが胸を突く。あのとき食べた味を、もう私は思い出すことさえできないのだ。

「どうした?」

「いや、ちょっといろいろと、思い出しただけだ」

「へえ。人間はこんなものにも、思い出を持つのか。興味深いな」

 動きを止めた私をみて、ウカが言う。

「神には、思い出はないのか?」

「そうだなあ……思い出も愛も憎しみも、人間の特権だ。ああ、ただ楽しいことはあるぞ。君が飯を食ってくれる……おっと湯気が」

 ウカが身を乗り出すと、その狐の面に湯気が触れる。熱などは感じないのだろう。しかし驚いたように身をそらすと、彼女は袖で湯気の当たった場所を幾度もこする。揺れてずれた面の下に、白い頬がかすかに見えた。

 まるで抜けるような白さだ。ふくらと膨らんだそれは、少女らしくもある。

「……なあ、ウカ。お前の顔は……」

 ウカの素顔を、いまだ私は知らない。

「お前の顔は、どうなって……」

「止めておく方がいい。君はきっと後悔する」

 思わずのばした手を、ウカの冷たい手が止めた。

 面まであと少しといったところで、手は宙をつかむ。

 ウカはそのすきに、面を直した。少しだけ見えた彼女の片鱗が、それだけで隠されてしまう。

「せっかくここまでうまくやってきたんだ。今更君の心を揺さぶりたくはない」

 その冷徹なまで静かな声は私の背を震わせるに十分な圧力を持っている。

 ウカの声は、その台詞に反して悲しみに彩られていたのである。顔など見えなくても、声だけで私はウカの感情が読めるようになっていた。声とは顔以上に、感情が表れる。

(あの、人も)

 私は不意に盲目の女を思い出した。

 彼女は盲目だ。最初から最後まで、私の顔を見ることはできなかった。声と、その手の温度だけで私という人間を知っていた。

 私が彼女に隠していた感情。恐れ。殺人者としての顔を彼女はとうに……昔から、見抜いていたのかもしれない。

「ウカは……何が目的だ」

「目的?」

 彼女は面をなおした手で、私の頬を二度ほど軽くたたく。

「だからずっと、言っている。私は君に飯を食ってほしいだけだ。これは私の、ただの我が儘だよ」

 こんな小さな白い手が、食い物を運び、私の腕をたやすく止め、私の食べ物を支え、そして私の頬をつかむこともする。

 この手に私は生かされてる。今や依存しているといってもいいその手は、私を慈しむように撫でた。

「わが……まま」 

「うん、ただの、我が儘なんだ」

 いつか、君にすべてを語ろう。と、彼女は言う。

 それがなぜ今ではないのか。それを聞くには、互いにまだ秘密が多すぎた。

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