告白衝動
一度、ウカの食事を受け入れてしまえば妙な意地は私の中でかき消えた。
あれほどに悶え苦しんだ日々が嘘のようだ。今となれば、粛々とウカの運ぶ食事を口にして、胃に収める、飲み込む。
何一つ解決したわけではないが、不思議と心は穏やかであった。
死刑囚が過ごす日々というものは、恐らくこのようなものだろう。
そのくせ、腹ばかり減るのが浅ましかった。
「今日は、握り飯にしてみた」
その日もウカは唐突に現れるなり、私の目の前に白い皿を差し出した。
そして嬉しげに、胸を張る。
「どうだ。喰い甲斐がありそうだろう」
上には海苔に包まれた巨大な握り飯がふたつ、乗っていた。
私は礼も言わず無言でつかみあげ、口に含む。それを見てウカは嬉しそうに手を打った。
「素直でいい。とてもいいな」
私と言えば胡座をかいて猫背のまま、物もいわず眉をひそめて飯を食う。端から見れば行儀の悪い事この上無いが、ウカはそれでも私が飯を喰うだけで喜んでくれる。
「……ふん」
綺麗な三角形ではない。ただ大きく、素朴だ。白米はつやつやと輝き、口にするとほろほろ解けていく。
甘い。と、素直に思った。
「子供の頃、俺はひどく潔癖性だった」
握り飯の甘さをかみしめながら、私はつぶやく。
別に自分語りをする必要もないが、なぜかウカを前にすると解けるように心の声が漏れていくのだ。
いつか、不要なことまで言い出しそうな気がする。そして同時に、すべてを語ってしまいたくなる。
狐面のこの少女には、そんな妙な引力がある。
「ケッペキショウ?」
「親の握った握り飯しか食べられなかった……ある程度大きくなったら、親の握ったものも、駄目になった」
……しかし、もう少し大人になった頃。たった一人の女性が握るものは、食べられるようになった。
彼女は目が見えない。口もさほど立つわけじゃない。だからだろうか、食べ物で私に訴えかけてくる。彼女の作る食べ物は、多弁だった。
私は彼女の作る物と会話をしていたのかもしれない。私は、胃から人間らしさを取り戻した。
一口、米を口にする度に彼女の作る食べ物が食べたくなる。
二口、米が喉を通るたびに切なさで鼻の奥がつんと痛くなる。
三口、胃の腑に食べ物が落ちると、空しさと苛立ちが湧き上がっては消えて行く。
(俺のせいなのに)
……彼女を手放したのは、自分自身だ。
この世界で一番大切な女であった。なのに、夏の喫茶店で、私は彼女を突き放した。
恐らくあの日から、私は死んでいた。首を括るまでもなく、私の心は死んでいた。
「今は食えてるようだな?」
「克服した」
噛みしめて飲み込む。旨いと、素直に思う。
「なるほど、人間というものは変わる事ができるんだな」
握り飯を飲み込む私を眺めながら、感慨深そうにウカは言う。彼女が神であるのかどうかなど、最近はどうでもよくなっている。
彼女が神というのならば、そうなのだろう。
しかし、私を監禁している理由はいまだ分からない。ここがどこなのかも分からない。まるで飼い慣らされた犬のように私は彼女の飯を待ち続けるだけだ。
最近は、それでいいのではないか。と思い始めている。
「……ところで」
私は手に付いた米粒を舐めながら、目の前の少女を見る。
相変わらず人を馬鹿にした仮面を付けたまま。
態度は尊大で油断だらけだ。しかし、近づいてもその仮面を剥がすことさえできないだろう。距離感を掴ませない、奇妙な圧力がある。
「ウカは神などといいながら、ずいぶんと暇だな」
「暇だよ。特にすることもないしね。今はここに来る事が唯一の用事だ」
ウカは床に転がり、だらしなく足を宙に遊ばせていた。
彼女が仮に神だとすれば、ずいぶんと暇な神もあったものである。
「神社にいなくてもいいのか。参拝客がくるんじゃないのか」
「来るけど、あれは人間が祈りたいから来るのだろう? 神はなにもしないさ。じっと本殿とやらに祀られているのも、とんでもなく暇でね」
ウカはそういってせせら笑う。人に対しての愛情というものが、彼女からは感じられない。
そこが、妙に私と似通っている。
「……誰もいない神社に向かって、人は色々と祈るんだろうな」
そもそも、私は人間に興味がなかった。
「人間とは我が儘なものだ。ま、神も人のことはいえないが」
「たとえば……懺悔など、していく人間も多いのか」
言葉を吐き出しながら握り飯を一口、かみしめる。口の中に苦みが走った。
「懺悔……許しを請う、ということか? まあ、多いな。だいたいにおいて、祈りよりも真剣だ」
「……たとえば」
ぞくぞくと、背が震える。彼女を前にすると、言わなくてもいい一言を、言いそうになってしまうのだ。
「殺……人を殺したような人間が、懺悔に訪れることは?」
「ある」
ウカは平然と、言った。
その瞬間、私の口から漏れかけたのは、懺悔の衝動だ。
いや、後悔などはないので懺悔ですらない。私がこれまで犯してきた殺人の数々の、告白だ。いや、告白ですらない。言い訳だ。
(違う、違う、違う、俺はただの殺人者ではない)
かみしめる米の味が重く、重くなっていく。
(あれは、あいつらは、殺されて当然で)
背に嫌な汗がにじむ。
(……俺は、理不尽が、嫌いで)
そうだ、私は殺人者だ。殺した人間は一人二人ではない。もう数も覚えていない。
ただ言い訳をさせてもらうとすれば、私の殺した人間はみな、ろくでなしだった。
罪から逃れた犯罪者、女を犯しておきながら平然と生き延びる男、小さな罪を重ねて平然と生きる人間。理不尽だ。犯罪者が生き延びるこの世界が理不尽だ。
この世界を滅ぼすことは不可能だ。
だから、犯罪者を、殺した。
最初は衝動であった。二回目は少しだけ考えた。三回目からは、殺すことに満足感を得た。生きる価値のないものを、私が殺すのだ。圧倒的な、自己満足であった。
それ以降は、賢くなった。いつまでもこの仕事を続けるためには、見つかってはいけない。ばれてはいけない。だから、賢くなった。
不思議と、私の犯す事件は事件にすらならなかった。
いつか殺されてもおかしくない人間ばかり、選んで殺しているせいだろうか。ニュースで取りあげられても翌日にはすっかりと忘れ去られていく。事実上、被害者は闇に葬られた。
何より、被害者と私に何の関わりもないせいだろう。警察の目は私をみることもしない。
どんどんと、私は図に乗った。
この世の理不尽を、皆、殺すのだ。私は、そのために生まれたのだ。
血にまみれた自分の手を見て、私はいつか、殺人を楽しんでいた。
そうだ。楽しんでいたのだ。
「みな、熱心なものさ。君も何か願いがあるなら、祈っていくか? 別に、なにか御利益があるわけじゃないが」
ふ。とウカの仮面が私の顔をのぞきみた。仮面には目の穴さえ空いていないので、ウカの表情は伺い知ることもできない。
しかし、その無邪気な声を聞くと、告白衝動にかられる。
すべてを告白して、楽になってしまいたい。
「お……俺は」
漏れかけた声を喉の奥に押し込んで、私は奥歯をかみしめた。
「……やめておこう」
もし、全てを語ればこの娘は怯えてしまうかもしれない。もうここに現れなくなるかもしれない。そう思うと、心が震えた。
これまでにはない感情だ。
私は今、ウカに去られることが一番恐ろしい。
あれほど恐怖を抱いていたはずの少女に、私は依存を始めている。
(……飯を運ばれて、餌付けでもされたようだな……)
目前の棚に飾られた皿の数は20を超えた。
特に多いのはカレー皿だ。私がこの部屋で最初に口にした食べ物を、ウカは生真面目に運んできた。甘口、辛口、インド風、欧州風。よくここまで運んできたものだと感心するほどに、ウカは楽しげに運んできた。
それを一口二口食べるたびに、私の心は平穏になっていく。
(俺は、ここの部屋にいた方がいい)
握り飯を見下ろして私は思う。少なくとも、ここにある理不尽は心地のいい理不尽だ。
他人の犯す理不尽をみることはない。ここにいれば、少なくとも人を殺すことはない。
「……あ」
「どうした?」
手にした握り飯が私の指の力で、崩れる。その崩れた先に、赤い血が見えた気がして私の背に汗が流れた。
私の手は、殺人者の手だ。赤い血のにじんだ手だ。そんな汚れた手で握り飯をつかんでいる。白い米が汚れた気がして、私は思わず目をそらす。
「もう食わないのか?」
「いや、力を入れすぎて崩れて……」
「仕方ない人間だ」
ウカの苦笑が、ウカの温度が、私の手をつつんだ。
小さな白い手が、握り飯をもつ私の手を下から支えたのである。
「……あ」
少女らしい小さな手。汚れもない、真っ白な細い指。それが迷いもなく私の手を支える。それだけで、血の幻想はかききえる。
汚れた私の手が、清浄になっていく。
「こうすれば崩れないだろ」
「お前は、ほんとうに……」
本物の、神だったのか。と、私の喉が震える。人が神というあやふやなものに頼る理由が、今、はっきりと分かった。
理由などはない。ただ、神は無邪気なのである。その無邪気さは、すべてを受け入れる。言うなれば、無限大に詰め込める袋である。
「どうした? さ。食え」
「……どうせなら、一緒に喰わないか」
両手で支えられた握り飯を、口に含む。ほどよい塩味と、柔らかな米はなるほど、腹を満たしてくれる。しかし、仮面越しとはいえ見つめられているのは、こそばゆかった。
「一人で、そう見られながら食べると言うのは、どうにも落ち着かない」
「君がそういうのなら、ぜひご一緒したいところだが」
ウカは片手の指先で、米粒をつまみあげる。それを仮面の下に差し込んで、一口食べたようである。
……が、それと同時に彼女の仮面の下から、はらりと何かが落ちていく。
「な。残念だろ」
それは、青の稲穂なのである。一本の稲穂が、彼女の口から漏れて落ちた。
「私も一緒に食べたいよ」
彼女はそれを手にする。稲穂は一瞬で金色に実り、ふくふくと種を膨らませ、やがて茶色となり朽ち果て、そして消えた。
「私は、人間ではないからな」
ウカがはじめて、切なそうにそうつぶやいた。