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浸食のスパイス

挿絵(By みてみん)


 ウカが現れるタイミングは、相変わらず掴めなかった。

 最初こそ必死に時間を感じ取ろうと四苦八苦していたが、時計もない部屋で秒数を数えるなど素人では到底無理だ。

 窓もなく、気温の変化もないこの白い部屋で一日の明け暮れを確認することだって出来やしない。

 そしてウカも、時間を決めて訪問をしているわけではないらしい。

 私に時間の感覚を掴まれるのを避けるためなのか、気紛れであるのか。彼女の言動を見る限り、限りなく後者に近い。しかし、分からない。

 とにかくウカについては何も分からない。が実情である。


 その日も、彼女は突然現れた。

「やあ。元気にしてた? まあ、そんな死にそうな顔してるのに、こんな挨拶も嫌味だと思うけどね」

 ……ふわりと、鼻先に甘い香りが届く。この香りは焼き立てのパンか、ホットケーキか、それとも柔らかなケーキか。 

 焼けた麦の香りだ。強烈に食欲をそそる香りである。

「さあ、眠ってばかりいないでそろそろご飯を食べてよ」

 ウカはいつもの調子で明るくいうと、踊るように私の前に立つ。

 ウカは相変わらず飯を運んできたし、私もまた相変わらず飯を一口だって食べなかった。

 お互い、相変わらずの意地の張り合いである。

「飯なんて……」

「いらない?」

 時の止まったこの部屋で、ウカが去れば私はただ一人となる。目を開けていれば思考が走る。余計なことを思い出す。苦しさと空腹と情けなさで私は悶えうつ。

 だから、ここ数日はひたすらに寝て過ごした。

「……帰れ」

 腹はもう泣きもしない。諦めたように、シンと静まりかえっている。しかし、体は空腹に耐えきれない。

「帰れ……頼むから」

 何やら旨そうなものを盆に載せたウカから目をそらし、私は背を丸めて横になる。

 ウカはしばらく私を眺めていたようだが、やがて溜息と共に食べ物の香りが消え失せた。彼女がまた、皿から食べ物を消し去ったのだ。

 その皿を、何かの記念のように彼女は飾る。その陶器の触れ合う音を聞いて私は唇を噛みしめた。

 乾ききった体から涙がぼろぼろとこぼれ、食いしばった口からは獣のようなうめき声が漏れた。顔に触れれば髭が指に絡む。

 生きているのだ。生きているのだ。体は、こんなにも生きているのだ。

 悲しみの淵に沈み込んだ私は、やがて眠ることを思い出した。

 それ以降、私はずっと眠って過ごしている。


 翌日か、その次の日か。その日も彼女は、めげずにやってきた。

 その日も、私は眠っていた。寝ていることさえ自分で気がつかないほどに、深く、深く。

「おやお休みかい? 駄目だよ、寝ちゃあ。本当に死んでしまう。寝るなら食べてからにしてよね」

 ウカは遠慮無くその足で私の頭を揺すぶる。そんなことをされても怒りさえわき上がらないほど、眠い。眠い。眠い。

 ……が。

「甘い」

 香りに揺さぶられて私は目を開ける。ぼんやりとした視界の中、狐の面が見えた。その小さな少女は飽きもせずに手に盆を持っている。

 視界をゆっくりと動かせば、見えるのは壁の棚。

 そこには最初のコーヒーカップからはじまって、白い皿に赤い皿、大きなサラダボウルなど様々なものがごちゃごちゃと並べられている。

 その数はちょうど13個。もしウカが毎日時間を決めてここに訪れているのだとすれば、13日が経ったというわけか。

 そして私はそれだけの日数を、空腹で過ごしているということになる。

 しかしこの部屋で日付など関係ない。ただ目の前にある皿は、私が食べなかったものたちの履歴だ。それを見る度にその味を口内に思い浮かべて後悔をするのである。

 食事とは、罪だ。浅ましいほどに求めてしまう。

「甘い匂いだ……」

 私は飢えた獣のように私は起き上がった。腰のベルトが緩い。明らかに、腰周りが細くなっていた。

 食べなければ死ねる。しかし、飢餓はあらゆる死の中で、恐らくもっとも苦しい。

 心は死にたがっても体は生きようとする。数万年続く生き物は、そうして生き残ってきた。

「カレー……?」

 ウカは私の悲痛な声を聞いて、楽しげにころころと笑う。

「ほうれほうれ。どうだ腹が空いたろう」

 香りはいまや、凶悪なまでに部屋を浸食する。甘い香りに混じる、かすかなスパイシーの風味。倒れ伏しそうな目で私はようよう、顔を上げた。

 歪む視界の中、ウカは、立っている。

「私とてサボっていたわけではないのだ。人間がどんなものを喰うのか知らなかったのでな。少々調査をしてきた。こういう、香りの強い物は食をそそるのだろう」

 その手にもたれた盆から漂うのは、カレーだ。そう認識すると同時に、私の腹が激しく鳴った。

「喰え……なあ。斉藤よ」

 ウカは私の腹の音を聞いても、動じない。笑うこともしない。

 ただ、なぜか泣きそうな声でいうのだ。

 最初こそふざけるような物言いだったが、ここ数日のウカはまるで私に懇願でもするように言うのだ。

「食べてくれ」

 それは母が子に祈るようであり、子が母を求めるような声なのである。

 その尊大な声が時に震えるのは、彼女の真剣さの現れだ。

 私は震える手で地面を這った。そうでなければ、もう体も動かせない。

「たのむ、食べてくれ」

「……貸せ」

 ウカの持つ盆を乱暴に奪い、覗き込む。と、そこには想像通りのものがあった。

 優しい茶色のとろける色合い。湯気が私の顔を撫でて誘惑する。

 大きな椀にたっぷりとそそがれたそれは熱いのか、湯気がとまらない。

 中には大きく切られた野菜がごろごろと沈むのが見える。柔らかな色だ。鋭さなどどこにもない、温かい色だ。

 たまらず私はスプーンを掴むと、横に添えられた白米をすくいあげる。そしてそれをカレーの椀に沈め、じゅうぶんに味を吸い込んだとみるや口に運んだ。


 ……食事など、何日ぶりになるのだろう。


 口に入れた瞬間、まずは体が反応した。舌が震えた。口内に唾液が一気に溢れ出し、目尻に涙が浮かんだ。口の中に痛みが走り手が震え、胃が震えた。全身を、何か分からないような刺激が貫いた。

 無我夢中に、ひとくち、ふたくち、みくち。噛みしめる事も忘れて飲み込めば、むせる。それでも構わず必死に口に押し込む。

 最初は味など分からなかった。しかし噛みしめるたびに、徐々に味わいが広がる。米の甘さ、野菜の甘さ、スパイスの鋭さ。

「甘いな」

「……そうだよ」

 地面に伏したまま、まるで獣のようにカレーをがっつく私を見て、ウカは唖然と呟いた。 

 喰えばその場で飛び上がって喜ぶか、もしくはあざ笑うかと思いきや、彼女はただただ呆然と、その場に立ちつくしていたのである。

 答えたその声は、まるで泣きそうではないか。

「……甘いよ。甘いんだよ!」

 いかにも少女らしい声だ。尊大さの欠片もない。彼女は小さく震え、座り込むことさえできずに真っ直ぐ私を見つめている。狐面に表情などないが、その面の内側できっと彼女は泣いている。

 ……そんな声だ。

「泣くようなことか」

「辛口がすきか? 甘口は嫌いか? 君が辛口が好きとは知らなかった。今度はうんっと辛いやつを持ってくるから」

 そして、声が弾んだ。

 まるでこの世で一番幸福なものに触れたような声で、

「さあ。たんと召し上がれ」

 と。彼女は、楽しげにそう言った。



 半分も食べ進めると、ようやく体の飢餓が落ち着いたのか腕が止まるようになる。

 食物を受け入れた胃は我が侭だ。途端にもっともっと、と動き出す。

 しかし体がまだそれに付いていかない。一気に熱がくわわった体は重く、血管がどくどくと動き出す。

 一口飲み込むたびに、体が火照った。

 生きているのだ。と、改めて思う。

「ああ。甘い」

 最後の一口を綺麗にさらって食べて、私は甘い息を漏らす。

 ……昔、茶色のカレーは甘いカレー。と、まるで歌うように言い聞かせ、カレーを作る女がいた。

 彼女は、私のために甘いカレーを作り続けてくれたものである。目が見えないのに、器用に野菜を切って火を使う。狭い台所を右へ左へ、慣れた様子で歩き回る彼女を見て私はいつも感心し、かつ感謝したものである。

 彼女の得意料理は、野菜の角が無くなるまで煮込んだ甘いカレーだ。私はそれを楽しみに毎日を過ごした。

 香りも味もまろやかな、茶色のカレーが私は好きだったのだ。

「嫌っていながら、綺麗に食べたね」

「いや、味は甘い方が好きだ」

 口を拭い、皿を地面に置くとウカがそっと皿を撫でる。と、あれほど周囲を包んでいたカレーの香りが消えた。彼女が皿を撫でるとそこに食べ物の痕跡はなくなり、ただの皿となる。

「よいしょっと」

 ウカはその皿をまるで宝物のように一度だけ抱きしめて、それを壁の棚に飾った。

 似たような皿ばかり、並べてどうなることかと思ったが、こうして並ぶ様を見上げると壮観ですらあった。

 彼女は満足気に棚を見渡し腕を組んだ。

「まあでも、今度は辛口のカレーを持ってこよう。好みがわかると無駄に悩まずに済む。できるだけ好きな食べ物をいってくれ。できる限り応えるから」

「……別に辛口が好きなわけじゃないさ。ただ」

 私のために甘いカレーを作ってくれた女は、ある日から突然辛口のカレーを作るようになった。

 それは外にまで漂うほど強烈なスパイスの香りである。口にすれば一気に汗が噴き出すようなカレーである。

 何故なのか、私は彼女を問い詰めることはできなかった。

「……辛口のスパイスが効いたほうが……」

「効いたほうが?」

 ウカの無邪気な問いかけに、私の喉が震えた。

 背筋が、ぞうっと凍る。食い物を胃に入れて体と心が生きかえった。その瞬間に、私は自分自身の過去をも思い出したのである。

「香りが強い方が……」

 ……血の香りが。

(紛れるんだ)

 私は無意識に、自分の指を見る。

 指に染みこんだ血の香りは、なかなかとれない。服に飛び散った血の香りも、色こそ落ちても香りは取れない。しかし、不思議とスパイスの効いたものを食べると、香りが紛れる。

「いや、何でもない」

 口を拭うふりをして私は指の香を嗅いだ。

 そこからは、何の香もしない。心臓が早鐘を打ち始めた。

 生きているというのは、不便なものだ。音が漏れないように私は胸を押さえて手を見つめる。

 ごつごつと関節の尖った指。共に生きてきた、私の相棒とも言える手だ。

 時に飯を食い、時に女を愛し、時に仕事をして、そして、

(そうか、この手は殺人者の手だ)

 ……人を殺した。

 私は本当にうっかりと忘れていたのだ。

 この手はすでに血で汚れている。

「なあ、斉藤よ」

 しかし、ウカは私の額に浮かんだ汗など気づきもしないように、ぐっと顔を近づけた。

「私は滅多に人に感謝などしないが、今日ほど君の手に感謝をしたことはないね」

「……なん、だ」

 ……私は思わず身をそらす。近づけば気付かれる、そんな気がしたのだ。この染みついた血の香りに彼女は気付いてしまうのではないか。

 しかし、彼女はかまわずぐいぐいと迫ってくる。清らかな白の裾に、私の手が触れる。

 赤いものが付きやしないか怯えたが、色はにじみもしなかった。

「はじめて盆を掴んでくれた。食材をその口に運んでくれた。全部、君の手のおかげだ」

 全てに感謝を捧げるように、ウカは小さな手を胸の前で合わせる。そうすると、儚い少女のようである。

「……俺が自らの意思で運んだんだ。手は関係ない」

「あるさ。意思など弱いものさ。体が先に動くのだから」

 ウカは嬉しそうにはしゃぎ、私の手を唐突に握った。あまりの素早さに、逃げることも許されない。

「それにね。私は君の手はちょっとは好きだ」

「……珍しい」

 ウカの手は、小さい。驚くほどに細く、小さい。その手が私の手を掴んだ。

 汚れてしまう。

 汚してしまう。

 こんな少女の、手を。

「こんな、中年の、手を」

 払いのけようとしたがウカの力は強く、私はその手に捕らわれてしまう。

「だって」

 そしてウカは、私の手を優しく撫でるのだ。

「こんなに清らかじゃないか」

 無邪気なウカの声は、白い部屋に不思議と不気味に響き渡った。

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